夕方の匂い

マグロの鎌

第1話

ついさっきまで雨が降っていたとは思えないほどに、綺麗な夕焼けがこの街を包んでいた。太陽の影となって真っ黒となったカラスの鳴き声、パチパチと音をたて点灯し始める街灯、家々から放たれる夕飯の匂い。

これが、僕が小学生の頃から変わらない夕方の情景だ。

コンクリートブロックが積み上げられた壁に、緑の表札が貼られた電柱、停止線と止まれと書かれた道路。カーブミラーを覗くと人の影は僕のものしか見られなかったので、僕は口笛を吹き始める。頭に浮かんだテキトウな曲を次々と奏でる。サビだけを演奏することもあれば、イントロだけ演奏し、違う曲のAメロに入ったりと、ここではなんでもありだった。だから、たまに自分のオリジナルを混ぜたりもした。

ついこの前までは当たり前だったこんな夕方の風景も、今では特別なものへと変わってしまったのだ。実家を出て、仕事に付き、結婚して、子供が生まれて……ここ数年の僕の人生は、とあるウイルスのせいで止まっていた時がいきなり動き出し、今まで失った分を取り戻すかのように高速で針が回っているようだった。もしかしたら、ウイルスなど関係なく、大学生から社会人になるということは時間を忘れてしまうほどに忙しいものなのかもしれないが。

しかしこうして、久しぶりに生まれ育った街へ帰ってくると、変わらない風景が疲れ切った心の処方箋として作用していることが身に染みてわかる。そして、自分の体と心がいかにボロボロになっていたのかと言うことも。

「はぁ」

そう一つため息をつき、今まで歩いてきた道を振り返る。ちょうど公園に続く坂を降りていたということもあり、夕日は道路に隠れ、左右の豪邸からは犬の鳴き声が聞こえてきた。

その景色を忘れないように気おつけながら目をつぶると、遠くからはおばさんたちが買い物袋を抱えながら、「最近うちの旦那が……」「それを言うなら私の息子が……」などと油を売っている様子が見なくとも想像できた。さらにその奥からは黄色いカバーが掛かったランドセルを背負った子供たちや、バスタオルを頭に巻いた塩素の匂いのするプール帰りの女の子、膝を擦りむいて痛いのを我慢しながら家まで歩く男の子。そのほかにも、自転車を押しながら初めて一緒に帰る中学生カップル、部活帰りに自販機の前で炭酸飲料片手に屯するバスケ部、ワイシャツの第二ボタンを開けて中のTシャツを見せると言った着崩し方をする茶髪の高校生集団。そんな風景がこの道の向こうでは広がっているんだと想像しながら鼻を啜るように匂いを嗅ぐ。

鼻は海馬と直接繋がっているとどこかで聞いたことがあったが、それは間違いないだろうと思う。なぜなら、この車の排気ガスやタイヤの擦れた匂い、生ゴミや様々な夕飯が混合した匂い、コンクリートや植物から常に放たれる匂いが混じり合ってできた『夕方の匂い』を嗅ぐだけでまるで、この街で過ごしていたあの頃に戻ったような気がしたからだ。

父に「母には内緒だぞ」と二人で飲んだコーラの味、母と塾帰りによく寄った肉屋の油の匂い、父と母の間に挟まれて歩いたこの街。

ああそうか、僕はもう変わらない風景の中にいるのではなく、子供に変わらない風景を作ってあげる側なのか。

僕は今住んでいるあの無機質な街を思い出す。

きっとあんな、電信柱一つなく、道路のコンクリートに当然ひび割れなどないようなあの綺麗な風景ですら、子供達からすれば古めかしくて懐かしいセピア色の思い出となるのだろう。そして、あの街の匂いが彼らにとっての夕方の匂いなのだろう。

そう思うと、重かったはずの妻と子の待つ家への足取りは軽くなっていた。

 

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