(9) 新垣成美

 ジューンブライドは新垣成美にいがきなるみの憧れだった。もともと海外志向が強かったのは旅行会社に勤めている親の影響だったのかもしれない。物心ついた時から、大人になって結婚式を挙げるなら『六月に結婚する花嫁は生涯幸せに暮らせる』という古くからヨーロッパで伝わる言い伝えにあやかりたいと思っていた。

 しかも六月の挙式費用は他の月に比べて比較的安価で済むらしい。日本では梅雨の時期と被ってしまうからだろう。そのことを夫の新垣つかさに伝えると、彼は快く成美の希望を通してくれた。理想はハワイで式を挙げてみたかったのだが、どこにでもあるような中小企業の社内恋愛で結ばれた二人の懐にそんな大金が詰まっているはずもなかった。むしろ、夫はそこまで結婚式にこだわりがなく、形式的に親戚や友人・会社の人たちに結婚報告をする場を設けることができればなんでもいいという人だった。当然だが、そんなところにお金を積極的に注ぎ込もうとする男なんてほとんどいない。男はみんな一生の思い出よりも形に残るモノを重要視するし、結婚式の演出で数万円かかるオプションを追加するくらいならカードやフィギュアを買った方がマシだと考える。経験上、世の男性はほとんどがそうだった。結婚式の打ち合わせで喧嘩が多発するという話も、結局のところはそういった価値観の違いが原因なのだろう。

 新婚旅行はハワイに行こうと提案してきたのは意外にも司の方だった。もちろん成美にはそれを断る理由がなかった。二人はあらかじめ会社側の了解を得て、無事に二週間の有給休暇を確保した。上司は若干渋っていたようだが、お土産を買ってくるからと頭を下げると「じゃあマカダミアンナッツ以外で頼むわ」と注文をつけてきた。事前に現地の下調べをするのは成美の役割だった(というか勝手にそうなっていた)。食事や宿に妥協したくなければ、一人当たりだいたい一〇〇万円から一五〇万円くらいはかかるらしい。そのことを恐る恐る司に伝えてみると、意外にも彼は「一生に一度の思い出だからいいんじゃない」と挙式準備中にあれだけ成美が我慢していた言葉を易々と決まり文句のように持ち出して、渋ることなく首を縦に振った。ワイキキビーチから少し歩いた場所に夫の欲しがっていたアメリカ発のフィギュアが揃っているというホビーショップがあったことは、あとから知った。


 新婚旅行を終えて羽田空港に着いたのは七夕の日の夕方だった。それから国内便を乗り継いで最寄りの空港に到着したのが夜の八時頃。無事に自宅マンションへと帰り着いた時には九時を回っていた。

 エントランスの自動ドアが成美のスカートのポケットに入っていた鍵と遠隔で反応し、ピピッと音を鳴らして扉が開く。二人はだらんと垂れた手で満杯になったスーツケースを引きずりながら、重たい足取りでエントランスを抜け、それからエレベーターに乗った。すると二人は示し合わせたように頭上にある監視カメラの視線に気付き、ほとんど同時に背筋を伸ばした。だらしない姿を誰かに見られているかもしれないと思うと、嫌でも身が引き締まった。

 エレベーターは滞りなく七階まで上り、動きを止めた。司はエレベーターを降りた瞬間から早速脱力したような猫背に戻っていた。各階の廊下には監視カメラが設置されていなかった。成美は夫のあとをついていき、突き当たりの一つ手前の部屋で立ち止まる。彼女はスカートのポケットから鍵を取り出し、司にそれを渡した。二週間ぶりに戻ってきた家の中は当然だが真っ暗で静かだった。

 人感センサーが反応して廊下の電気が点いた途端、ようやく成美の中で帰国したんだという実感が湧いてきた。扉のすぐ横に置かれた傘立てが懐かしい。シューズクロークに収まりきらないからといって玄関に出しっ放しになっていた夫のニューバランスのスニーカーを見てなんだかホッとしてしまう。

「ただいまぁ」、成美はため息を吐くようにそう言った。

「おかえりぃ」と司も同じように気の抜けた声で返事をした。

 できるだけ外の菌や汚れを家の中に持ち込みたくない成美はスーツケースを玄関に置いたまま靴を脱ぎ、廊下左手の洗面脱衣室に向かった。司もそれに倣って手ぶらで後ろをついてくる。その途中で成美のお尻をポンポンっと触ってくるあたりがリラックスモードに突入したという証拠だろう。成美は微笑みながら「もうっ」と言ってその手を払いのけ、小走りに廊下を曲がった。

「下洗いしなきゃいけないものとかあったっけ?」と成美は尋ねた。定期的に水拭きしている真っ白なスロップシンクには埃ひとつ落ちていない。ダウンライトの光をこれでもかと反射していた。

「向こうで使った水着は……、ああでも別にいいか。あっちのホテルで洗って乾かしてたもんな」、司は斜め上を向きながらしばらく考え、そう言った。

 明らかに一人用の独立洗面台の前に並んで立った二人は腕を交差させながら手を洗い、どっちが大きな音を立てられるかというしょうもない争いをしながら口うがいをした。室内に響くガラガラという音に紛れて、成美はふと、まだ新婚だからできることなのかもしれないなと思いつつ、できるだけこんな日が続けばいいなとあてもなく願ってみたりもしていた。司はそんなことも知らずに、大きく開けた口の中で無邪気に泡を弾いていた。

 成美は濡らしたタオルを持って一度玄関に戻り、スーツケースの車輪を入念に拭いたあとでそれを両手に抱えて突き当たりのリビングへと運んだ。先にリビングのソファーで寛いでいた司はこちらを見た途端にハッとしたような顔を浮かべ、「ごめんごめんっ」と飛び起きるようにソファーから降り、成美の抱えていた二人分のスーツケースを引き取った。別にいいのに、と思いながらも「ありがとっ」と笑みがこぼれた。彼は軽々と両手に抱えたスーツケースをせっせとすぐ隣の寝室に運んだ。

 テレビでは最近よくネットニュースを騒がせているワイドショー番組が放送されていた。成美は冷蔵庫から麦茶の二リットルペットボトルを取り出し、ガラス製のコップと一緒にテレビ前のローテーブルに持っていき、自分はL字型ソファーの座面が縦に長い位置に腰を下ろした。

「XX地検は七日、未成年者誘拐の疑いで逮捕された会社員の男性(28)を嫌疑不十分で不起訴処分にしました。男性はSNSで知り合った少女を、六月二十日から二十四日の五日間、所有するマンションの六一三号室に寝泊まりさせていたとして、同二十四日に逮捕されていました。なお、マンションのベランダから転落したとされる少女はすでに死亡が確認されており、警察は少女の遺体や現場の状況について詳しいことは公表していないものの事件性はないと発表していました」

 何気なくテレビを眺めていた成美は耳を疑った。画面に映るグレーのスーツを着た男性アナウンサーは淡々とした声でその原稿を読み上げた。すると今度は画面が切り替わり、見覚えのあるマンションが映し出される。成美の頭上には無数のはてなが咲き乱れた。

「ねえっ」と成美は大きな声をあげた。

「どうした?」、すぐさま背後から司の声が返ってきたが、彼はまだスーツケースの中身を整理していた最中だったのか、時折ファスナーを走らせる軽快な摩擦音が聞こえてきた。

「ちょっとちょっと、早く来てってば」

「どうしたんだよ」、ようやく司は作業中の手を止めた。それから彼はほとんど足音を立てずにソファーの後ろに立ち、体重を預けるように背もたれに手を置いた。その反動で成美の身体が少しだけ仰け反る。

「ほら見てよ、テレビ。これって絶対うちのマンションだよね?」

 後ろを振り返ってみると、司は眉根を寄せて口をぽかんと開けていた。「え、どういうこと?」と困惑している彼を見て、成美は画面上に映っているのが今まさに自分たちが居座っているこの七階建マンション<シャトー・ヴァンベール>であることを確信した。そして彼女もたちまち混乱に陥る。逮捕? 転落? 一体なんの騒ぎ?

 一度状況を整理するために成美はスマホを開いた。検索エンジンに『S市 転落事故 少女』とそれっぽい単語を打ち込むと、いくつかの記事がヒットした。トップに表示されたのは『元同級生が証言。過去に母からの虐待・ネグレクトに苦しんでいた男が引き起こしてしまった悲惨な転落事故』という記事で、出どころは地元の新聞社だった。成美はそれを無視して画面をスクロールする。いま欲していたのは事件の背景ではなく詳細だった。するとそのうちめぼしい記事を見つけ、その内容に目を走らせ、そして衝撃を受けた。

 六月二十四日の昼ごろ、T市内の公立T中学校に通う中学二年生の十四歳の女の子がこのマンションの六階の部屋のベランダから転落した。部屋には女の子の私物とみられる衣類や学生鞄が放置され、ベランダと通ずる掃き出し窓が開いたままになっていた。部屋の中には誰かと争ったような形跡はなく、遺書もなかった。女の子が滞在していた六階の部屋の所有者が、七階に住む原田剛徳だったことから未成年者誘拐の容疑に問われて逮捕されていたが、七月七日である今日、嫌疑不十分で不起訴処分が下された。原田は常習的に空き部屋となっていた六階の一室を無料で貸し出していたようで、転落した女の子ともSNS上で行ったやりとり以外は一切の面識がなかったという。当の本人も最初から「自分はただ所有地を貸していただけで誘拐した覚えはない。それに彼女が未成年だとは知らなかった。むしろ騙されていたのはこっちの方」と供述しており、容疑を否認していた。今回はその主張が認められた形となったようだ。記事の最後には「今回のように示談交渉もなく、すぐに不起訴処分が下された事例は珍しいのではないだろうか」という含みのある一文を添えられていた。

 テレビでは、最近の音楽業界を席巻している注目の若手バンド・テトラポットのボーカルを務めているSOMAと、大御所タレントにも物怖じしない言動でたびたびSNSを騒がせているママタレントのMAMIが激しい口論を繰り広げていた。転落事故とは全く関係のないその内容に成美は聞く耳を持たず、司に話しかけた。彼はいつの間にかソファーの後ろで屈み、成美が手元で開いていたスマホを一緒に覗き込んでいた。

「ねえ、これってどういう意味だと思う?」

「どういう意味って?」、司はなおも眉をひそめていた。

「いや、だからこの記事よ。そもそもここに書かれてることって本当なのかな?」

「本当なんじゃないか? だって現に今もテレビでやってるし」

「まあ、転落事故自体は本当なんだろうけどさ……」、とはいえ成美はこの記事に書かれていたことが事実だとはとても信じられなかった。

 転落事故が起こったという今から二週間前の六月二十四日、つまり二人が新婚旅行に出発したその当日の朝に成美は隣の部屋に住んでいる住人と遭遇していた。ずいぶんと若い人が最上階で暮らしているんだな、と微かに引っかかる程度だった。隣人は廊下にひょこっと顔を出して地域指定の赤いゴミ袋を玄関扉の前に置き残し、成美と司を見つけると二人に向かって軽く頭を下げた。声をかけてみたがそれ以上の反応はなく、逃げるように部屋の中へ戻っていった。このマンションには指定日に指定されたゴミ袋を玄関扉の前に置いておけば、マンションの管理人が朝掃除を行う際に勝手に回収してくれるという仕組みがあった。司もその時に間違いなくその相手と顔を合わせていたはずだが、二週間も前に起こった一瞬の出来事を記憶として留めておくほどの余白が彼の頭の中には残っていなかったのだろう。「新婚旅行に出発する日の朝に会った隣の部屋の人のこと、覚えてない?」と尋ねると、司はさっぱりという風に「さあ」と小首を傾げていた。

「じゃあさ、ここの部屋って七一二号室だよね?」

 司はさらに眉をひそめた。「今更なんでそんなこと聞くんだよ」

「いいから。確認だよ、確認」と成美は言った。

「うん、そうだよ。ここは七一二号室で間違いない」

「じゃあ転落事故が起こったっていう部屋は?」

「六一三。ってその記事にも書いてあるじゃんか」、司の声には若干の苛立ちが含まれていた。「なあ、このやりとりに一体なんの意味があるんだよ」

 成美はテレビを指差した。相変わらずSOMAとMAMIが泥仕合いを繰り広げているすぐ横で、ひっそりと意味を失くしたように佇むモニターには二人の少女の顔写真が載っていた。「ほら」と言って西口陽菜の方に指先を合わせる。六階の部屋のベランダから転落死したと報道されていた彼女はモニターの中で満面の笑みを浮かべていた。誰が見ても子供らしい無邪気で明るい笑顔だった。だからこそ最初は見間違いだと思った。あの時はずいぶんとやつれているような印象だったから。成美は息を整えてからこう続けた。

「本当に覚えてない? あの子、隣の七一三号室から出てきたじゃない」

 は、と司の素っ頓狂な声が漏れる。それからほんの一瞬だけ間が空いたあとで、彼はすぐさま首を二度三度と横に振った。「いやいや、ないない。きっと見間違いだろ。ありえないよ」

 本当だって、と言い返そうとしたが、ふんっと小馬鹿にするように鼻を鳴らした夫の姿が視界に入った。成美はなんとなく咄嗟に口をつぐんでしまった。これ以上は何を言っても信じてくれないような気がした。それに、問い詰められてしまえばそれを立証するだけの根拠と自信もない。本当なのに、という言葉を無言で飲み込み、彼女はもう一度テレビに映る西口陽菜と隣の部屋から出てきた女の子を頭の中で照らし合わせた。とはいえやっぱりあの子で間違いない、と思う。司がいくらそれを否定しようとも、成美にはそうとしか考えられなかった。

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