(8) 西口智子

 どうしてこんなことになってしまったのか。いつ道を踏み外してしまったのか。小さい頃の夢はすてきなお嫁さんになることだった。週末には夫と子供と手をつないでピクニックに行ってみたかった。バーベキューもしたかった。冬にはスキーなんかも行ってみたかった。些細なことで夫と喧嘩して、でも最終的にはその日のうちにお互いに謝り合って、ある日突然「美味いね」とわざとらしく夜ご飯を褒めてくれる夫に「浮気でもしたの?」なんて冗談を言ってみたりして──。

 そんな普通で、どこにでもいるような家族に本当はなりたかった。それなのにどうしてこんなことになってしまったんだろう。壁に立て掛けた額縁の中で娘は笑っている。それを懐かしいと思ってしまう自分のことを、今更ながらに強く非難してやりたい。小学生の頃の写真だった。夫と離婚してから娘がそんな風に笑ってくれることは一度もなかった。

 葬儀場の二階にある六畳の和室の中で智子は元夫との沈黙に耐えていた。本当は今すぐにでも目を瞑って現実から頭を切り離したかった。陽菜が死んだなんて未だに信じられない。まだ何かの冗談だと思っていたい。瞼の裏に映る夢の中をさまよっているうちに夜が明けて、前みたく陽菜が「おはよう」と言ってくれるのではないかとどこかで期待していたい。だから早く目を瞑りたい。その上、とにかくここ数日はずっと泣いてばかりで純粋に疲れていた。

 智子は喪服を着たまま布団の上で横たわり、背中で圭也の声を受け止めていた。なにやら聞きたいことがあるらしいが、言ってしまえばこちらにだって聞きたいことは山ほどあった。浮気相手とはその後どうなったのかとか、そもそもどうして浮気なんかしたのかとか、挙げていけばきりがない。でもそんなことを訊いてしまえば、いずれ私はまた泣くことになる。そんな予感がした。

 圭也はさっきからずっと黙っているままだった。「ごめんちょっと待って」と言ったきり、話は足踏みを続けている。智子は痺れを切らして横になったまま後ろを振り返った。彼はスマホに目を落として顔をしかめていた。その横で傾斜のなだらかな山を作るように布団がひとかたまりになっている。一体こんな時間に誰から連絡がきたというのだろうか。話を途中で遮ってまで確認しなきゃいけなかったのだろうか。いい加減、後回しにされるのは我慢ならなかった。

「ねえ」、智子は上体を起こして圭也に声をかけた。「話があるなら早くしてくれないかな。こっちはもう眠たいんだけど」

 ああ、と圭也は唸るような声を出した。それからスマホをジャケットの内ポケットにしまい込み、顔を上げてようやく口を開いた。と思えば彼はいきなりこんなことを尋ねた。「なんですぐに行方不明届けを出さなかったんだよ」、それは智子を傷つけるために先を尖らせたような鋭い声色だった。すぐに警察に協力を仰いでいれば陽菜だって死なずに済んだのに、とでも言うように。

 何も言い返す言葉が浮かんでこなかった。痛いところを突かれてしまった、と咄嗟に智子はそんな風に顔を歪めていた。沈黙が続けば続くほど、圭也の顔はみるみるうちに強張っていくのが見てとれる。ふと担任の若松先生から連絡があった時の映像が鮮明に浮かび上がった。するとたちまち後悔と絶望が胸の中で渦巻き始めた。渦は口元を覆う酸素を少しずつ奪っていく。やがてどうしようもなく息が詰まり、呼吸が乱れた。智子はなんとか声を絞り出す。

「……陽菜が死んだのは私のせいだって、そう言いたいの?」

「別にそういうことじゃないけどさ」

 そういうことじゃん、と智子は思った。顔を見れば嫌でもわかる。

「仕事が忙しくて先生から連絡があるまで気付かなかったの。ほんとよ」

 その言葉をどこまで信じてもらえるかどうかはわからなかった。それでも智子にはそう答えるしかなかった。嘘はついていない。でも声は震えていた。罪悪感はいつになっても消えてくれなかった。

 あの日、智子は朝方に仕事から帰宅して昼からの仕事に備えて寝室で眠っていた。陽菜は日頃から早朝に学校へ出て行くことが多かったこともあり、仕事が入っている日は一日を通して顔を合わせないなんて日もあった。きっと避けられていたのだろう。智子はいつも酒臭かった。

 若松先生から連絡があったのはその日の正午あたりのことで、「昨日から陽菜さんが登校していない」と言う先生の言葉をそこまで信じられていなかった。何かの冗談だと思った。とはいえ、考えてもみれば陽菜だって所詮は右も左も分からない年頃の女の子なのだ。何かのきっかけに悪い友達ができて、学校をサボってゲームセンターやらコンビニでたむろするようになっても決しておかしいことではなかった。いまでこそ大人しくなってしまったけど、引っ越して来る前は学校でも落ち着きのない子だという風に言われていたのだ。その頃の元気だった娘に戻ってくれたのだと思うと少しだけ安堵さえ感じていた。帰ってきたら注意してやろう。そう思って智子は急遽昼と夜の職場にそれぞれ連絡し、適当に理由をつくって休みにしてもらった。

 しかし、陽菜は家に帰ってこなかった。夜中になっても、次の日の朝になっても、一向に玄関扉が開く気配がなかった。その頃になって智子はようやく焦り始めた。何かしらの事件に巻き込まれているのではないかと不安になり、スマホを握った。一一〇番を押して発信ボタンに指が触れる直前まで、彼女は心の底から娘の身の危険を心配していた。それでもふと、その瞬間に智子の頭にはある畏れがよぎった。娘の身に何か問題が生じていた場合、私は親としての監督不行き届きを問われてしまうのではないのか。気付いた時には智子はテーブルの上にスマホを伏せて置いていた。智子は何もせずにただひたすら娘が無事に家に戻ってくることを願っていた。何よりもまず第一に自分自身の身を案じながら──。

 そんなことを正直に打ち明けられるはずもなかった。

 しかし圭也はまるでそれをすべて察したかのように目の前で短く息を吐いた。呆れたような、失望したような顔で。

 そんな顔しないで、と心の中で叫んだ。向こうには聞こえるはずもなかった。

「そもそもの話だけど、きみは陽菜のことを放置するほど仕事をする必要はあったのか?」、その声には明らかに智子のことを非難するようなニュアンスが含まれていた。声には出さずにお前のせいだと言っていた。「ちゃんと二人分の生活費も毎月渡してたじゃないか」

「それでもそれは十分な額じゃなかったじゃないっ」、智子は大きな声でそう言った。するとその言葉に一瞬だけ圭也の眉がピクリと動いた。しかし彼は何も言葉を発さなかった。じっと智子の顔を見つめたまま次の言葉を待っている。しまった、とは思っていたが智子は引くに引けず勢いに任せて言葉を紡いだ。「私はあの子に金銭的な我慢をさせたくなかったの。習い事をするにしても、進学するにしても、お金のことを気にせず好きなことをやってほしかった。だから毎月あなたが送ってくれる最低限の生活費だけじゃ足りなかった。最低限の生活はできたかもしれないけど、それだと必ずあの子が我慢することになる。欲しいものを欲しいと言えなくなる。それが原因で学校でいじめられることだってあるかもしれない。あなたはちゃんとあの子のことを考えたことはある? あの子の将来を考えたことはある? 子供を育てるためにはお金が必要なの。いずれは奨学金を借りることだってできたかもしれないけど、そんなものを最初からあてにしちゃいけない。だってそれは、将来のあの子が負債として抱えなきゃいけなくなるから。そんなのって可哀想じゃない。せっかく社会人になったのに、いきなり負債を抱えたままのスタートだなんて、しかもそれが何年も続くだなんてあんまりでしょう。だから私には働く必要があったの。昼のレジ打ちだけじゃ学費の足しにもならなかった。だから夜も働いた。今のうちにたくさんお金を稼いで、あの子がお金を理由に進みたい道を断念するなんていう選択肢を選ばずに済むように、私には働く理由があった。あの子には私たちのことでたくさん辛い思いをさせてしまった分、他の子たちと同じようにお洒落をして、遊んで、夢を追ってほしかった。だからあの子を幸せにするためだけに私は一生懸命働いたの。ねえ、それのいったい何がいけないの?」

「そういうことなら先に言ってく──」

「言ったらどうにかしてくれた?」と智子は圭也の声を途中で遮った。「お金が足りないって言ったら、本当にあなたは私たちのためにお金を使ってくれた?」

 結婚している時でさえ私の知らないところで他の女と遊んでいたくせに? 私たち家族のことを平気な顔で裏切っていたくせに? 今更になって善人ぶってももう遅い。そんな口だけの言葉はもう要らない。もう二度とあなたのことは信じたくない。智子は心の中で思いつく限りの非難を目の前の男に浴びせた。そして手中にあった罪悪感と後悔を都合よくその怒りに紛らわせようとした。誰かを攻撃していないと不安でたまらなかった。

「陽菜がいなくなったことに私が気付かなかったのだって、もとをただせばあんたにも責任があるんだからっ」

 圭也はうんともすんとも言わなかった。口を一文字に結び、目を伏せたまま動かない。智子の言葉に案外堪えてしまったのかもしれない。その顔には罪の意識さえも薄らと映っていた。

 今更浮気されたことに怒っている場合じゃないということは自分でもわかっていた。それでも智子は無理やり論点をすり替え、責任の一部を元夫になすりつけようとした。彼の浮気なんて本当は陽菜の死とは何の関係もない。わかりきったことだ。それをあたかもあなたのせいだと彼を非難したのだ。そこには少なからず痛みが生じる。心臓を素手で鷲掴みにされているかのような強い痛みだった。そしてようやく自分の醜悪さに甚だ嫌気がさした。先に耐えきれなくなったのは智子の方だった。知らぬ間に膨らみすぎた罪悪感に押し潰され、ダムが決壊したかのように涙腺は崩壊していた。

「大丈夫か?」と圭也は言った。

「大丈夫じゃない」と智子は言う。

 智子はずっと見て見ぬ振りをしていた。娘が寂しがっていたことを。娘が笑わなくなっていたことを。圭也がいた頃の方が幸せだったということを認めたくなくて、離婚したことが間違いだったと認めたくなくて、意固地になった智子はその現実から目を背けるように仕事に没頭していた。シングルマザーだからといって周りから哀れみの目を向けられないように、そして圭也がいなくても幸せな家庭を築くことができるのだと世間に証明するように。

 本当は気付いていた。こんな最悪な結果を招いてしまった原因が、たった一人の大切な家族をないがしろにしてしまった私自身にあるということに。でもその責任を一人で背負う勇気がなかった。周囲の反応が怖かった。心細かった。だから誰かに一緒に背負って欲しかった。

 溺れるように視界はぼやけ、大粒の涙は頬を伝い、顎の先からとめどなく滴り落ちる。布団にはいつの間にか湖のように広い染みをつくっていた。思うように声が出ない。呼吸が乱れて息するのが苦しい。涙は一向に止まる気配がない。智子はこぼれ落ちていく感情を手のひらで受けるように両手で顔を覆った。

 擦るような足音が聞こえ、それが少しずつ近づいてくる。頭の後ろに手の温もりを感じ、智子の上体は重力に従うようにゆっくりと前に倒れた。やがて額が小さな丸い突起にぶつかる。シャツのボタンだった。大きな手のひらが智子の小ぶりな頭を包み込み、もう片方の手が優しく後ろ髪を梳かす。ほのかに香る汗の匂いが懐かしくて、智子はしがみつくように圭也の背中に腕を回した。みるみるうちにシャツが涙で濡れていくのを頬で感じた。

「……本当は全部私のせいなの。さっきはあんな風に言ったけど、本当はあなたは何も悪くなくて、悪いのは全部この私なの。本当にごめんなさい」

 そんなことない、と圭也は智子の頭の上で首を振った。「俺だってきみと陽菜を裏切ったんだ。そのせいで二人にはたくさん苦労をかけた。たくさん嫌な思いをさせた。必要のなかった責任を背負わせた。そして結果的にこういうことを招いてしまった。父親として最低だよ。今更それを謝ったところでもう遅いことはわかってるけど、でも、ほんとにごめん。本当に後悔してる」

 智子は何も言わずに圭也の胸の中で肯いた。もちろんすべてを許したわけじゃない。浮気したことに対してはまだ怒ってる。それでも「後悔」という言葉を彼の口から聞けたことは少しだけ嬉しかった。果たしてそれを嬉しいと捉えてよかったのかどうかはわからないけど、とにかく長い間胸につかえていたものがその瞬間にすっと下りた気がした。智子は元夫の顔を見上げる。彼は目の下を赤らめていた。不意に視線がぶつかると、彼女は途端に恥ずかしくなってもう一度胸の中に顔を埋めた。圭也は何も言わずに頭を撫で続けてくれた。

「ねえ」、しばらくして涙が落ち着いた後、智子はふとあることを思い出して同じ布団の上で向かい合う圭也に尋ねた。「そういえば監察医の先生とはどんな話をしてたの?」

「ああ」と声を漏らしたのちに圭也はばつが悪そうに目を泳がせた。「陽菜の遺体を調べた限りでは犯罪性がなかったこととか、あとはその……」

「何? お願いだからもう隠しごとはやめて」、智子は顔をしかめた。

 圭也は明らかに様子がおかしかった。それを言うべきか言わないべきかを迷っていた。何度も何度も頭の後ろを掻き、自分の判断が正しいのかどうかを吟味するように唇を結んだまま「んー」と唸っていた。そしてようやく彼は決心したように口を開いた。

「転落死とは直接関係していなかったようだけど、陽菜の身体からは打撲痕が見つかったらしい。何か心当たりはないか?」、圭也はまるで触れてはいけないものに触るように智子を見ていた。何もないと言ってくれ、と懇願しているように。

 しかし智子はその問いかけに首を振れなかった。打撲痕、という言葉に息を呑み、それから力なく俯いてしまった。それは陽菜が家出をしたおよそ一週間ほど前の出来事だった。その時に智子はたった一度だけ陽菜に手を出してしまった。

 原因は中間テストの点数が悪かった、ただそれだけのことだった。それだけの理由で智子は娘の頬を思い切り叩いた。どうしてそんな行動をとってしまったのかは自分でもよく覚えていない。もしかすると仕事で疲れていたのかもしれない。たしかにその日は体調を崩して夜間帯の仕事を休ませてもらっていた。もしくは自分の頑張りと娘の頑張りが釣り合っていないということに腹を立てたのかもしれない。唯一の家族である陽菜が自分とは違う方向へ歩いているような気がして我慢ならなかったのかもしれない。とはいえ、それが暴力を振るってもいい理由にはならなかった。智子は怒りに任せてダイニングテーブルを叩き、「なんでこれくらいしかできないの!」と大声で怒鳴った。その反動でガラス製のコップは床に落ち、大きな音をたてて割れてしまった。

 智子はその記憶を思い出しながら不意にそれとは別の罪の意識にも苛まれた。もしかすると陽菜はそれが原因で家出してしまったのではないか、と。

「──智子。大丈夫か?」

 圭也の声で智子は我に返った。「あ、ごめん。ついぼうっとしてた」

「……大丈夫、智子は悪くないよ。悪いのは全部、家族を壊してしまった俺なんだから」、圭也は何かを察したようにそう言った。彼は滲み出る悲壮感をなんとか押し殺すように歯を食いしばっていた。

 智子には元夫の頭の中に「虐待」の二文字が浮かんでいるのが目に見えるようだった。とはいえそれを否定することはできない。実際に娘に手を出してしまったのだから。智子は娘にどれくらいの傷痕が残っていたのかを彼に尋ねた。

 すると圭也は言った。残っていたのは背中に三箇所。鞭で叩かれたような細くて青黒い打撲痕だったらしい、と。

 は、と思わず声が漏れた。途端に頭の中が騒々しくなる。智子は混乱していた。それはまるで四方から人が入り乱れる渋谷のスクランブル交差点にいきなり放り出されて身動きがとれない赤子のようだった。

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