(7) 井上円華

 クラスメイトの西口陽菜が連日学校を休んでいたことは知っていたが、それをわざわざ気にするような生徒はおそらくこのクラスの中にはいなかった。中学一年生の三学期からこの学校に転校してきたこともあったのだろう。彼女のことをよく知る生徒というのはあまりいなかった。あからさまに仲間外れにされていたわけではなかったし、執拗に嫌がらせを受けているような子でもなかった。どちらかというと、その内気──というかむしろ暗い──性格のせいでみんなから避けられていたように思う。とはいえ、まさか同い年の女の子がある日突然死んでしまうなんてことはあり得ないと思い込んでいた。ましてやクラスメイトが一人死ぬなんて。

 六月二十四日金曜日の五時間目の授業の途中、その知らせを携えて教室にやってきた教頭先生は、生徒たちの視線を気にすることなく教壇で授業をしていた担任の若松先生を廊下へ呼び出し、ひそひそ声で何かを話し合っていた。

 廊下側の一番後ろの席だった井上円華は、窓からこっそりそのやりとりを盗み見ていた。教頭先生の隣で若松先生の顔がみるみるうちに青白くなっていく。眼球があちこちに動き、手で口を押さえてわかりやすく動揺していた。どうやら何か悪い知らせを聞いたようだ、と円華はその程度にしか思わなかった。何でもいいから早く授業終わってくれないかな。彼女は放課後のことで頭が一杯だった。今日はつい最近できたばかりの年上の彼氏と初めてのお泊まりデートなのだ。

 やがて教室に戻ってきた若松先生は不吉な空気を身にまとっていた。足取りが重く、教壇の前に立てど目は虚ろで誰とも焦点が合っていない。クラスのほぼ全員が先生の様子がおかしいことに気付いていた。そして彼女は震える声でこう言った。

「今しがた、うちのクラスの西口陽菜さんが亡くなられたようです」

 誰もが一斉に言葉を失った。は? とどこからか聞こえてきたような気がしたが、それはすぐに気のせいだとわかった。教室の中はいたって静寂なままだった。そのまま話を続ける若松先生の細い声に、口を開けたままの円華は必死でしがみついた。一言一句漏らさないように聴覚をつかさどる側頭葉に意識を集中させる。あるマンションから転落したこと、まだ事故の詳細は明らかになっていないこと、今後通夜が行われる際には用事がない限り必ず参加すること──。

 たちまち円華の頭の上には疑問符が浮かんだ。どうして彼女がそんな場所に? でもそんな疑問は一瞬のうちに大きな雪崩に飲み込まれるかのように跡形もなく埋もれてしまった。唐突のないクラスメイトの訃報にはそれだけの威力があった。

 そして不運な出来事は連鎖的に続いた。密かに持ち込んでいたスマホがそのことをこっそりと教えてくれた。大丈夫、若松先生は動揺していてこっちに気付くはずもない。円華はスカートのポケットの中で振動するそれをバレないように机の下で開き、届いていた新着メッセージに目を落とした。彼氏からだった。

『ごめん、今日のデート無理になった』

 は? という緊張感のない声が重たい静寂の中に放り出された。


 通夜はその三日後の月曜日に執り行われた。

 あれからもう日が経ってしまったからなのか、それとも死んでしまったのが西口陽菜だったからなのかはわからないが、彼女の死は当初の鮮度を失ったように他の生徒たちはいつもの日常へと戻っていた。

 彼らはみんな若松先生の言いつけを守るように通夜に参列していたが、いまさら悲しみに暮れて泣き出すような生徒はほとんどいなかった。普段から正義感の強い生真面目な女子がちらほらと目を潤ませてはいたようだが、後ろの席で無関心に爪を弄る生徒や露骨に面倒臭がっている生徒がほとんどを占めていた。円華自身も自分のことを薄情だとは思いながらも、全く関わりのなかった西口陽菜の亡骸を前にしたからといって目に大粒の涙を溜めている女子生徒の気持ちが理解できなかった。

 終始、西口陽菜の母親だという女性は親族席で泣き崩れていた。基本的に円華は授業参観日や体育祭に訪れた同級生の親の顔は覚えていたが、その顔は記憶の中でいくら検索をかけても見つからなかった。以前からシングルマザーだということはなんとなく耳にしていたが、だからといって無闇やたらに家庭の事情に首を突っ込むわけにもいかなかった。結局、円華は陽菜のことを何も知らないまま一生の別れを迎えてしまったのだ。

 もちろん隣に座っていた父親だという男性も同様に知らなかった。喪主を務めていた彼はどこか訝しげな表情で場内を見渡しているようだった。誰かを探しているように、そしてどこか私たちの態度に不満げであるように。

 円華は喪服を着た係員の誘導で焼香の列に並び、ここへ来る前に「失礼のないように」と母に即興で叩き込まれた作法で香を焚いた。

 知らない大人たちに挟まれながら祭壇の前で恐る恐る手を合わせて拝み、隣の人がどのくらいの尺で顔を上げているのかを横目で確認する。こんな風に周りに馴染むことばかりを考えている円華に対して、果たして陽菜は棺の中で失望していないだろうかと心配になっていたが、結局はそれ以上に自分だけ悪目立ちしてしまうことが怖くて瞼を閉じることができなかった。

 両隣に並ぶ大人たちはしくしくと泣いていた。もっとああしていればよかった。あの時どうしてああしてあげられなかったんだ。そんな後悔や憤りが鼓膜に触れているようだった。でもそれはきっと、本来ならば私たちがそう思うべきことだったんだろうな、と円華は手を合わせながら思った。

 円華は右隣の大人が顔を上げたと同時に顔を上げる。黒い額縁の中で陽菜は笑っていた。たぶんそれはクラスの誰も見たことのない一面だった。あんな風に楽しそうに笑えたんだ。そんなことをふと思い、円華は祭壇の前を離れる大人のあとをついていった。そして遺族席を目の前にした途端、今更になって陽菜のことを何も知らなかったという事実に後ろめたさを感じ、わかりやすく目が泳ぎ始めた。前の人に倣って一礼するものの、遺族の顔を誰一人としてまともに見ることができない。顔を上げた時には陽菜の両親が今度はこちらに向かって軽く頭を下げていた。僧侶の野太いお経がベルトコンベアに運ばれているみたいにただただ耳の後ろを通り過ぎていく。円華は検品作業をする工場作業員のように、その機会を待っていた。

 やがて僧侶がすっと息継ぎをしたタイミングで円華は声を出した。

「あのっ」、その控えめな声は母親の耳にも辛うじて届いたらしく、悲しみに暮れた瞳がゆっくりとこちらに動いた。目が合うと円華はつい緊張で言葉に詰まった。二人の間に沈黙が流れる。僧侶は再びお経を読み始めた。

 沈黙の間に前を歩いていた大人はとっくに先へ進み、いつの間にか円華とは五メートルほどの距離が開いていた。なにやら背中に不穏な気配を感じて後ろを振り返ってみると、後ろに並んでいた大人たちがこちらに睨むような目を向けていた。なにしてるんだ、早く進めよ。そんな目だった。この瞬間、明らかに彼女は悪目立ちしていた。あれだけ浮かないようにと気をつけていたのに。焦りと不安でさらに喉を絞られる。声が出る気配がない。どうしたのかしら、と陽菜の母親の瞳は静かに問いかけていた。

「……この度は、謹んでお悔やみ申し上げます」

 かなり細い声だった。向こうの耳にちゃんと届いていたかどうかはわからない。それでも構わず円華はもう一度だけ軽く頭を下げ、逃げるようにその場から離れた。

 言えなかった。ここ二、三日ずっと靴の中に小石が入っていたままだった違和感を、円華は陽菜の母親に伝えられなかった。たちまち津波のような後悔が押し寄せてくる。円華は下唇を噛んでなんとかそれを押し殺そうとした。かすかな唾液を飲み込んで、一度は喉元までせり上がってきたものを無理やり下に落とす。するとそれは行く宛のない放浪者のように胸の中をぐるぐると彷徨った。

 あの日、円華はあのマンションに和人と泊まる予定だった。だからどうして西口陽菜があの部屋にいたことになっているのか──。

 その問題の答えは空欄のまま、円華は前との距離を詰めるべく先を急いだ。

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