(6) 山下圭也

 娘の訃報を聞いた時、山下圭也やましたけいやはまだ会社にいた。六月二十四日の昼過ぎ、今朝家を出る前に愛美まなみが半ば強引に持たせてくれた手作り弁当を屋上でこっそり平らげた後、翌週に控えている月末の幹部会議の資料をパワーポイントで作成している最中だった。エレベーター前にある自動販売機の横で警官の説明を電話越しに受けていた圭也は、しばらくそこから動けなかった。検視が終わっていないのでまだ娘さんには会えませんが、とその警官は淡々とした口調で言った。何かの冗談だと思って何度も日付を確認した。でも今日は四月一日ではなかった。もちろん、今年からエイプリルフールがジューンフールに変わるというような世界を揺るがすような一大ニュース(そもそもフールという部分が「嘘をついてもいい」という風な意味を担っているのかはわからなかったが)も流れていない。深夜帯に放送していたバラエティー番組が今年からゴールデンの時間帯にお引越し、みたいなものとはわけが違った。

 直属の上司に事情を説明すると、彼は一週間ほど特別休暇がもらえないか部長に掛け合ってみるよ、と言ってくれた。その時に初めて、圭也は日頃から上司とのサシ飲みに付き合っていてよかったと心の底から思った。

 他の同僚たちには事情を話さなかった。ただでさえ圭也は複雑な立場にあるのだ。下手に同情を買うような真似はしたくなかった。これがもし、圭也が浮気なんてしていなければまた話は変わってきたのかもしれないが。

 圭也は一度離婚していた。一年前までは西口智子という女性と同じ屋根の下で暮らしていた。その年から中学校に通い始めた娘の陽菜も一緒だった。はたから見れば何の問題もない仲睦まじい家族だった。しかし圭也は長きにわたって水面下で浮気していた。平気な顔して二人を裏切っていた。

 その相手というのが、今朝手作り弁当を持たせてくれた愛美で間違いなかった。彼女とは定期的に通っていたフィットネスジムが偶然同じで、そこからたまに話すようになり、いつの間にかセックスするようになっていた。彼女は妻と違って胸が大きく、口に咥えた時に歯がまったくペニスに当たらなかった。そしてなにより、身体の相性が抜群に良かった。

 離婚したかったわけではない。ただ代わり映えしない日常の中に刺激が欲しかっただけなのだ。肉うどんの上から七味唐辛子を振るような感覚だった。それは絶対にバレないという自信があったし、抜かりはないと思い込んでいた。メッセージのやりとりはいつも返信した直後に履歴を消していた。愛美と会うのは必ずトレーニング終わりだと限定していた。誰が見ているかわからない。ジムのトレーナーだって信用ならない。仕事終わりにジムに行ってくるから、と言って今朝方家を出たはずの夫がジムにいなければそれだけで大問題だ。お節介なトレーナーが小学校の先生みたいに「今日、旦那さん来てないみたいですけど体調悪いんですか?」と妻に電話をかけてくることだってないとは言えない。その緊急事態に備えるためにも圭也は毎回トレーナーの目につく場所できっちり三十分ほど汗を流し、周囲に気を配りながらジムのすぐ近くに住んでいた愛美の自宅へと立ち寄り、シャワーを浴びて三十分ほどセックスをした。その時間を含めても家に帰り着くのは大体いつも夜の九時頃だった。決して遅すぎる時間帯ではなかった。

 それでも浮気は気付かれてしまった。女の勘というやつだった。智子はその日、ジムから帰ってきた旦那の様子に違和感を覚え、圭也がトイレに行っているたった数十秒の間にリビングに残されていたスマホを盗み見たという。パスワードは教えた覚えがないのにいつの間にか知られていた。そしてちょうどその時に旦那のスマホにメッセージが届いた。『今日もすごく楽しかったね』、語尾にはハートマークが付いていた。十時過ぎに陽菜が寝床につき、智子は静まったリビングで圭也を問い詰めた。言い逃れなんてできるはずがなかった。


 再び警察から連絡があったのはそれから二日後の午前中のことだった。

 圭也は愛美に黙って娘に会いに行った。事情を話せばきっと嫌な顔をされるのはわかっていた。彼女は一年前まで圭也と不倫関係にあったにもかかわらず、付き合ってみると束縛の激しい面倒な女だった。

 久しぶりに見た娘の顔は真っ白に染まっていた。唇は青く、瞼はぴくりとも動かない。陽菜は警察署の遺体安置所で息をせずに眠っていた。いくら声をかけても、うんともすんとも返事が返ってこなかった。

 先に訪れていた智子は仰向けで横たわる娘のすぐ隣で地べたにへたり込んでいた。彼女は安置所に入ってきた圭也の姿に気付くとほんの一瞬だけ目を瞠り、すぐにまた娘へと視線を戻した。今更何しに来たのよ、とその弱々しい背中がこちらにそう訴えかけているようだった。一年もあればこんなにも家族がバラバラになってしまうのか。その事実がみるみるうちに空気中の酸素を奪っていくみたいに、圭也の呼吸は知らぬ間に乱れていた。

 やがて検視に立ち会ったという監察医の先生が安置所に顔を出した。彼は一枚の用紙を手に持っていた。そして放心状態の智子を見たあとで、圭也に視線を移して軽く頭を下げた。

「少しお時間よろしいですか」

 おそらく智子ではまともに会話ができないと判断したのだろう。たしかに彼女よりは圭也の方が幾ばくか冷静さを保っていた。監察医の先生は手に持っていた用紙を圭也に渡し、やけに落ち着いた口調で話し始めた。

 まずこの用紙は死体検案書と呼ばれるもので、いわゆる死亡診断書に代わるものだったらしい。病院で診療している疾病しっぺい・傷害以外で死亡した場合、代わりにこの用紙が発行されるのだと彼は言った。今回の転落事故はそれに該当するのだという。その他、戸籍抹消や埋葬・火葬の手続き、生命保険金の受け取りなどの際にも必要な書類であるため必ずコピーをとるようにしてください、と丁寧な説明まで受けた。

「死因に犯罪性はみられませんでしたよ。おそらく警察もこの件を事故として処理するでしょう」

 処理、という言葉にデリカシーのなさを感じた。娘は物じゃない。圭也はとっさにそう言い返そうとしたが、その言葉が喉元までせり上がってきたところで監察医の先生は陽菜の遺体について「ああ、でも」と一言だけ付け加えた。

 圭也はその事実につい眉をひそめた。そして喉元を思い切り掴まれたように何の言葉も出てこなくなった。

「葬儀場の手配がまだ済んでいないみたいですけど、その辺は大丈夫そうですか?」、監察医の先生は去り際にそう言った。「いつまでもここに置いておくわけにはいかないでしょうし、一応、警察でも手配はできますが、通常よりは割高になってしまうので可能ならば自分たちで手配した方がいいと思います」

 圭也は監察医の先生にお礼を告げたあと、智子の代わりにさっそく葬儀場に連絡を入れて通夜や葬式の段取りをとった。値段は特にこだわらなかった。せっかくだったら娘の同級生たちが集まれるような大きな葬儀場の方がいいに決まってる。お金は全額圭也が負担するつもりだった。父親としてそれくらいのことはしてあげないといけない。もちろん愛美には一言も相談しなかった。


 通夜は次の日の月曜日に行われた。

 葬儀場には予想どおり陽菜と同じくらいの年頃の子たちが大勢訪れていた。とはいえ誰一人としてその顔に見覚えはない。離婚してすぐに智子と陽菜は圭也から逃げるように隣町に引っ越したのだ。娘の転校先の生徒の顔を知らなくても仕方のないことだった。圭也は集まってくれた娘の友人たちの顔を一人一人点検するように見渡した。どの子が親友だったのだろうか、どの子に好意を寄せていたのだろうか、といまは亡き娘の学生生活を頭の中で想像しながら。

 でもその中から娘の親友らしき生徒や恋人関係にあったであろう生徒は見つけられなかった。それどころか、泣いている生徒すら一人も見当たらなかった。その代わりに面倒くさそうにしている生徒がちらほらと見受けられた。これみよがしにポケットチェーンを腰から提げている男子生徒もいた。関係のない話をしてキャッキャと笑い合っている女子グループもあった。

 明らかに何かがおかしいと圭也は思った。そしてその真相を確かめるべく、彼は通夜振る舞いの際に陽菜のクラス担任を務めていたというふくよかな体型をした女性教師に声をかけた。若松と名乗った彼女は娘のことをたった一言でこう語った。

「真面目な生徒でした」

 圭也はその言葉にもやはり違和感を覚えた。小学生の頃の陽菜は毎年のように『元気で明るい子ですが、やや落ち着きがないところが気になります』と通信簿に記載されていたからだ。経験上、「真面目」という言葉が真っ先に当てはまる子供に活発な子なんていなかった。どちらかといえば、これといった取り柄もなく、良くも悪くも目立たない子供にそれは当てはまる。先生の手を煩わせないという一点を無理やりその子の特徴であるかのように「真面目」と括るのだ。もちろんそれは個人的な見解によるものなのだが。

「友達は多かったでしょう?」と圭也は尋ねた。昔は陽菜が学校の友達を家に連れてくるところをよく目にしていた。

 しかしその返答はまたしても予想に反したものだった。

「正直申し上げますと、あまりクラスには馴染めていなかったように思います」、ほんのわずかに躊躇うような素振りをした彼女は言葉を選ぶようにしてそう言った。

 何故かその瞬間に圭也の中でふつふつと怒りが湧き上がってくるような感覚があった。親としてのプライドが傷つけられたのだと自覚した。あなたの娘には友達はいませんでしたよ、とそんな風に笑われている気がした。今すぐにでも目の前の彼女にきつい言葉を浴びせてやりたい。そんな激しい衝動に駆られた。馴染めないで困っている生徒をクラスに馴染ませてあげるのが教師の務めではないのか、と糾弾してやりたい。

 だが、圭也はすんでのところで口を固く結び直した。その直前にほんの一瞬だけ、女性教師が圭也に鋭い眼差しを向けたのだ。そこには強く非難めいたもの感じた。それもこれも全部あんたが浮気したのが悪いんじゃないの、と言われているような気がした。もちろん彼女が離婚した原因を知るはずはないのだが。

「先週の月曜日から無断欠席が続いていたんです」と彼女は陽菜が転落死する以前のことを振り返るようにゆっくりとした口調で話し始めた。目元は一転して柔らかくなっている。やはり気のせいだったのかもしれないと圭也は思った。

「詳しく教えてください」

 女性教師は小さく肯いて続ける。「最初はただ連絡を忘れているだけだと思ってたんです。それまで陽菜さん学校を休んだことなんてなかったから。でも次の日も無断欠席が続いたので、奥様に連絡してみたんです」

 奥様とは智子のことだろう。「それで?」と圭也は促した。智子は棺の近くで娘を弔う親戚たち一人一人に声をかけていた。

「はい。それで欠席が続いてる件について聞いてみたところ、奥様は知らなかったようなんです。陽菜さんが欠席していたことを。だから家にもいない、と」

「知らなかった?」

「さすがに私もおかしいとは思いました。陽菜さんは親に黙って学校をサボるような、はたまた日中からゲームセンターに出歩くような輩とも違います。いたって真面目な生徒です。もちろんその間に陽菜さんが警察に補導されたというような報告も一切ありませんでした」、女性教師は訝しげな表情を浮かべて言った。「その次の日のことです。行方不明届けが警察に出されたのは」

 圭也はその話を聞いて首をひねった。いったいどういうことだ。つまり彼女の言い分では、陽菜は行方不明届けが出される三日前──つまり六月二十日──の時点で学校には登校していなかったことになる。もちろん陽菜は女性教師が言ったように親に黙って学校を休むような子ではなかったし、無論、平日の昼間からゲームセンターで遊ぶような子でもなかった。いたって真面目な生徒だとも思わないが。

 でも智子は陽菜が学校に登校していなかったことを知らなかった。家にもいなかったという。そして女性教師から連絡があった次の日──つまり六月二十二日──にいきなり行方不明届けが出された。遺体で発見されたのはその二日後のことだ。智子と一緒に住んでいたアパートとは遠く離れたS市内のマンションの敷地内で娘は死んでいた。娘は見知らぬ男とSNSでつながり、使っていない空き部屋を借りていたらしい。報道によると、娘はその部屋を二十日から二十四日の五日間も利用していたのだそうだ。ちょうどそれは彼女が学校を無断欠席していた期間と重なる。辻褄は十分に合う。きっとその報道も目の前の女性教師が言っていることも本当だろう。でもどうしても納得がいかなかった。何故、智子は陽菜がいなくなってすぐに行方不明届けを出さなかったのだろうか。それまで気付かなかっただなんて言い訳は通用するはずがない。二人は週に一度しか家に訪れないホームヘルパーとその利用者じゃないんだから。

「奥様が昼と夜の仕事を掛け持ちしながら、毎日働き詰めだったことは聞いています」と女性教師は言った。

 えっ、と思わず声が漏れる。それは圭也の知らない事実だった。

 女性教師は一度後ろを振り返り、智子がまだ遠くにいることを確認してから言いづらそうに言葉を紡いだ。「とはいえ、さすがに親としての責務をおろそかにしていたと言わざるを得ないと思います」

 不意に後頭部を殴られた気分だった。知らなかったことが多すぎて話についていけない。視界がぐらつき、これまで見てきたもの全てが間違いだったかのように思えてしまう。何から手をつけていけばいいのか。圭也は混乱していた。

 女性教師とはそこで別れた。彼女は明日も生徒を守るという責務を果たさなくてはならない。帰り際に見た彼女の大きな背中はそんな責任感に満ち溢れているように見えた。

 夜の九時を回ったあたりで通夜振る舞いはお開きになった。最後まで残っていた親戚をエントランスの前まで見送り、それから圭也と智子は葬儀場のスタッフに連れられて宿泊部屋となる二階の六畳の和室に案内された。この葬儀場には泊まれる部屋がその一つしかなかった。スタッフが入口の襖を開けると、部屋の隅にはあらかじめ布団が二つ畳まれて並んでいるのが見えた。それ以外の設備はとうてい薄型とは思えない分厚いテレビと真四角の冷蔵庫が一つ、そして部屋の真ん中に卓袱台ちゃぶだいがあるだけ。入浴設備はないとのことだった。もともとは圭也がそこに一人で泊まる予定だったのだが、通夜が始まる直前になっていきなり智子が「私も泊まる」と言い出したのだ。陽菜の側を離れたくないと言われてしまえば、言い返す言葉は何も浮かばなかった。

 およそ一年ぶりに圭也は智子と一夜を共にする。そのことは愛美には告げていない。言えば何をされるかわからなかったからだ。愛美は執着心が異常に強い。それに女という生き物は生まれつき、奪うことには抵抗がないくせに奪われることをとことん嫌う。そこに性的な感情が一切生まれないとわかっていても、電気を消して真っ暗になれば何かよからぬことが始まってしまうのではないかと疑ってしまう。そして疑ってしまえば勝手に点と点を繋ぎ始める。それが大抵の女であり、愛美にはそれが当てはまる。

 智子はさっさと卓袱台を部屋の隅に寄せ、自分の分の布団を窓側のスペースに敷いていた。それが終わると彼女は圭也の分の布団を乱暴に放り投げ、自分は喪服のまま布団の上に横になった。そして背中を圭也に向けたまま「頼むから変な気おこさないでよね」と釘を刺してくる。ふざけるな、こっちだってお前の歯でペニスの先端が削れるような思いはもうしたくない。それよりも今は聞きたいことだって山ほどあるんだ。

 圭也は下唇を前に突き出し、狼煙を上げるように天井に向かって息を吐いた。

「なに」と智子が不機嫌そうな声で反応する。彼女は通夜が終わってから肌身離さず持ち歩いていた娘の遺影を窓際の壁に立て掛け、それをじっと眺めているようだった。

「いいや、別に」と圭也は首を振った。「ただ、ちゃんと聞いておかなくちゃいけないことがいくつかあるから」

「だからなに」

 智子の声色にはより一層の鋭さが増していた。浮気が発覚した日も彼女はそんな口調だった。埃をかぶっていた卒業アルバムを開くみたいに、今更になってあの頃の罪悪感が鮮明によみがえってくる。圭也はほんの一瞬だけ躊躇した。

 するとその一瞬の間に上着の内ポケットでスマホが小刻みに暴れ出した。圭也は喉元で待機していた言葉を一度飲み込み、智子に断ってからスマホに手を伸ばした。仕事に関する緊急連絡かもしれない。上司と部長の計らいによって葬儀が無事に終わるまでは特別に忌引き休暇をとっていいとの連絡はすでに受けていたが、もしかすると急遽予定が変わったのかもしれない。もともと圭也の勤めている会社には忌引き休暇という制度は存在しなかった。

 しかしそんな不安をよそに、メッセージを寄越してきたのは奇しくもまた愛美だった。『いつ会えるの? 早く会いたいよ』、期待を裏切ることなく語尾にはハートマークが付いていた。

 圭也は無性に腹が立った。またお前は邪魔するつもりなのか、と。

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