(5) 黒川亮子

「XX地検は七日、未成年者誘拐の疑いで逮捕された会社員の男性(28)を嫌疑不十分で不起訴処分にしました。男性はSNSで知り合った少女を、六月二十日から二十四日の五日間、所有するマンションの六一三号室に寝泊まりさせていたとして、同二十四日に逮捕されていました。なお、マンションのベランダから転落したとされる少女はすでに死亡が確認されており、警察は少女の遺体や現場の状況について詳しいことは公表していないものの事件性はないと発表していました」

 黒川亮子くろかわりょうこはテレビを見ながら紅茶を飲んでいた。

 毎日欠かさず飲んでいる風呂上りの一杯。どんなに暑い日でも必ずやかんでお湯を沸かし、魚へんの漢字で埋め尽くされた熱々の湯呑みを両手で持って少しずつ体内に流し込んでいく。食道を熱で溶かしながら胃の中に滑り落ち、ヘソのあたりで落ち着くと今度は血管を伝ってその熱が全身に循環していった。やがて飽和した熱を逃がすように毛穴が開く。ついさっきタオルで拭いたばかりの背中にじんわりと汗をかき、着ていたTシャツがひっついた。若干気持ち悪いが、いずれ乾く。いつものことだ。亮子はいちいちそれを気に留めずにその後も紅茶をちびちびと飲み続けた。

 今年で築五十年にもなるこの二階建の古アパートは、気密・断熱がともに不十分で壁も薄い。頭上からは二階に住んでいる住人の生活音が雨漏りのように頻繁に落ちてくる。ただし、家賃は驚くほどに安かった。1LDKの間取りで敷地面積は四〇平米と一人で暮らしていくには十分過ぎる広さを持ちながら、月々三万円台で抑えられた。内装も十年ほど前に一度リフォームしてあるおかげで、最新の家電やお洒落な家具が部屋の雰囲気と馴染まない、なんてこともない。しかもインターネットは無料で使うことができる。お金のない学生や新米の社会人にとっては喉から手が出るほどの優良物件で間違いなかった。とはいえ、根っからのアナログ人間だった亮子はいまだに『わいふぁい』なるものを上手く活用できていないでいた。

 亮子は三年ごとに更新手続きの必要なこの部屋をもう二度も更新していた。次回の更新日は来年の二月末。今のところは更新する予定でいる。一度住み慣れてしまったこの家から立ち退くには、それなりに大きなきっかけがないと腰を持ち上げる気にもならない。アルバイトとして雇われているパン工場には転勤もないし、今のところ週に四日ほどの勤務ペースで金銭的には間に合っている。家賃を滞納したことがなければ、消費者金融へ出向いたこともない。贅沢さえしなければ、月に十五万円ほどの給料しかもらえなくても案外快適に暮らしていける。光熱費を含めた居住費で五万円、国民健康保険や年金などの社会保険料と住民税を合わせてだいたい五万円、食費は近くの激安スーパーのおかげで多くても一万円、その他諸々の雑費で二万円、残りは貯金。衣類や化粧品は主にリサイクルショップで揃えているし、髪の毛は自分で切っている。娯楽である本は図書館で借りられるし、必要最低限の運動は散歩でまかなえてるからお金もまったくかからない。彼女はこの生活を二十年近く続けていた。学生食堂で正社員として働いていた頃の貯金も合わせて、通帳には最上級モデルの国産車を新品で買えるくらいの金額が記帳されている。基本的に物欲のない亮子は必要最低限の生活が続けられればそれだけで満足だった。だからなおさらこの家を出ていく理由を見つけるのは難しかった。別に無理してここを離れる必要もない。

 それでもここ最近、このアパートに住んでいることが原因で亮子が煩わしさを感じ始めていることはたしかだった。そう思っているのはきっと彼女だけではなく、他の部屋の住人も同じ気持ちだったのではないだろうか。なにせ、ゴミを指定の回収場所に持っていくだけでも毎回のようにアパートの前で見張っている記者から声をかけられたし、職場のパン工場でもこのアパートに住んでいるというだけであれこれと質問攻めに遭った。

 隣の部屋に住んでいた西口陽菜がS市内のマンションから転落死したのはちょうど二週間前のことだった。そのニュースは亮子にもまったく無関係という話ではなかった。西口陽菜とその母親である智子ともことは、彼女たちがこのアパートに二人で引っ越してきた頃からたびたびご近所付き合いをしていたからだ。

 引っ越してきた頃の智子はまだ旦那と離婚したばかりで、お世辞にも仕事と家事を両立できているとは言えなかった。聞くところによると、離婚の原因は旦那の浮気だったらしい。ただ、それ以上詳しいところまでは亮子も触れたことがない。

 智子は二人分の生活費を稼ぐために昼と夜の仕事を掛け持ちしていた。日頃から二人が顔を合わせることはほとんどなかった。陽菜が学校から帰る頃にはいつも智子は入れ違いに仕事に出かけていたし、反対に智子が仕事から帰ってくる時は、酔っ払った母と顔を合わせることを避けるかのように陽菜は早朝から学校に出払っていた。

 そんな状況を見かねた亮子は定期的に隣の部屋を訪ね、陽菜へ手料理を振舞ったり、宿題を見てあげたりするようになった。毎日のように一人きりでスーパーの弁当を食べていた彼女を放っておけなかった。もちろん智子はそのことを容認していた。むしろ感謝されていた。これであの子も寂しがらずに済みます、と。

 思い返してみると、その発言は母親としておかしなものだったように思う。娘が寂しがっていることを知っているのであればどうして母親である彼女が一緒にいてあげようとしないのか。亮子が家を訪ねるようになって以降、智子は娘の寂しさを取り払ってあげるどころかそれまでよりも家を空ける時間をさらに増やしているようだった。親としての自覚や責任感が足りなかったのではないか、と亮子は熱々の紅茶を啜りながら当時のことを振り返っていた。

 まさか東京のテレビ局で定期的に今回の事件が取り上げられることになるなんて思ってもみなかった。しかもそれが全国的に視聴率の高い番組というのだからなおさら驚く。それは毎回、異なる肩書きをひっさげたコメンテーターたちが様々な視点から意見を持ち寄り、注目のニュースや社会情勢、政治などについて話し合っていくというワイドショー番組だった。その議論の中で繰り広げられるコメンテーター同士のやり合いは、度々ネットニュースになって世間を賑わせていた。とはいえ、亮子はそんなニュースがニュースを生み出すような世間の流れには違和感しか抱けなかった。報道の意義というものを今一度見直すべきじゃないのか、という投書をテレビ局に送りつけようかと思うほどに。

 例によってこの日もコメンテーターたちは今回の誘拐事件について議論を交わしていた。つい昨日までは、逮捕された原田剛徳の故意は認められるのか、それとも認められないのか、というところに重きを置いて現役弁護士などの専門家たちがそれぞれの見解を話し合っていたが、実際に警察が原田剛徳に不起訴処分の判断を下してしまうと、途端にそんな議論は意味を失くしたかのように誰の口からも故意がどうこうとかいう話は出てこなくなっていた。部屋に寝泊まりしていたという西口陽菜が年齢を偽っていたことがその要因となったのでしょうね、と弁護士資格を持つ高学歴の芸人が得意げに見解を述べたきり、話題の中心はいつの間にか『最近相次いでいる未成年者の行方不明についてどう思うか』というところへと移っていた。スタジオには二人の少女の顔写真が映っているモニターが用意されていた。

 MCを務めていたベテランの男性アナウンサーは手元の原稿を読みながら、西口陽菜が転落死する以前にも彼女とはまた別の女子中学生が行方不明になったというニュースを紹介した。

 その女子中学生はわりと大きな地元の劇団に子役として所属していた。隣町の私立中学校に通っていたらしい。名前までは知らなかったが、ずいぶんと昔に土曜の昼間に放送されていたローカルドラマの脇役として出演していたところを亮子も見たことがあった。それはもう四、五年も前のことだったから、その頃はまだ小学生くらいだったのだろう。西口陽菜のニュースが流れるおよそ一ヶ月ほど前にその子役の女の子が行方不明になったというニュースが地元のテレビ局で報道されるまでは、亮子の頭の中にあるタレント名鑑からも一切その子の存在は忘れ去られていた。依然としてその子の姿はまだ発見されていないという。

 白衣を着ていた臨床心理士の女性はこう語った。「行方不明になる方の主な原因・動機として一番多いのは認知症などの疾病関係ですが、それに次いで多いのは家庭関係によるものです。これは、親と喧嘩して家出するなどの場合もありますが、親からの虐待やネグレクト、親同士のDVから逃げている場合などもあり得ます。ちなみに犯罪関係による行方不明者の内訳は、意外にも全体の一パーセントにも満たしておりません」

「ということはつまり、相次いでいる未成年者の行方不明は家庭関係によるものであった可能性が高いと、そういうことをおっしゃっているのでしょうか?」と男性アナウンサーは尋ねた。

「あくまで可能性が高いというだけです」、臨床心理士はそう言って肯いた。

「そうですか、貴重なご意見ありがとうございました」と男性アナウンサーはボソッとした独り言のような声で会話を締めくくった。

 その何気ないやりとりの中に、亮子はマスメディア特有の悪どい狡猾さを垣間見たような気がした。これでは西口陽菜が転落死したそもそもの原因も家庭事情に──つまりは母親の智子に──あったと言っているようなものだった。たしかにこの二人がそう断言していたわけではないが、そのやりとりを見ていた視聴者の中にそう思う者がいたとしてもおかしくはなかった。何か事件や事故が起きるたびに犯人探しをすることがマスメディアの責務なのかもしれないが、もしくは、そうしないと視聴者や世間が納得しないのかもしれないが、どちらにせよ、誘拐疑惑のでていた原田剛徳が不起訴になった途端に今度はその責任の所在を無理やり智子になすりつけようとするその報道の在り方は、見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。

「SOMAさんは今回の相次ぐ未成年者の行方不明について、どう思われますでしょうか?」、男性アナウンサーは向かい側の席に座っていた今売り出し中だというバンド歌手にも話を振った。

「たしかに僕もいま振り返ってみると、小さい頃は家庭や学校、塾、部活動とか、そういった狭いコミュニティの中でしか生きられなかったから、それこそ家や学校のことを世界そのもの、社会そのものだと思ってました。だから逆に言えば、『そこに自分の居場所がない』と感じた子どもにとってはそこから出て行くという選択はごく自然なことなのかもしれません。もちろん大人だったら他にもっと良い手段があるかもしれないと思って一度立ち止まることができるけど、子供にそれは難しい。だから大人は、特に育児をしていることが多い母親は子供にその手段を選ばせないようにもっと考えて子育てをしなくちゃいけない。家が子供にとって安息の場所でなくてはいけない。だから僕たち大人はいま一度、家庭の在り方についてしっかり考えていくことが必要だと思います」、前髪で目が若干隠れているマッシュルームヘッドの、いかにも謎めいた雰囲気を纏ってますオーラを醸し出している彼は細々とした声で長々とそれっぽいことを語った。「あとは、今もなお行方不明になってるユキちゃんが一日でも早く見つかってくれればなと、そう祈ってます」

 すると今度はそれに対して、自称元ヤンキーでバツイチママタレントのMAMIがすぐさま「でもそれっていうのは、どうせ口だけなんでしょ?」と反論した。どうやら先ほどの彼の意見が癪に障ったらしい。酒焼けしたようなしゃがれた声がスタジオ内に響く。「結局男ってのは根幹では育児や家事が女の仕事だと思って、無責任に傍観してるだけの生き物なのよ。どうせあんたもちょっと皿洗い手伝ったくらいで『偉い、自分』とか酔ってるんでしょうね。あと、朝ゴミを外に出すだけで周りには『家事は分担してます』とか適当なこと言って格好つけてるんでしょ。ゴミを家中からかき集めて、分別して、ひとまとめにしてやった奥さんの苦労も知らないで。そのくせ家庭内に問題が起こったら全部それを女のせいにしようとする。ほんといい加減だよね、男って」、彼女は全国の男性をひとまとめに罵倒するように一息にそう言った。

「でもそれってあなたの個人的な家庭の話ですよね。別れた旦那さんにずいぶんと根深い恨みを持っているのはわかりましたけど、それと世の中の男性をひとくくりにしないでもらえますか?」とマッシュルーム男は嘲笑するようにふんっと鼻を鳴らした。彼はついこの間、公式サイトで一般女性との結婚発表をしたばかりだった。

「うるさいわねっ。まだ結婚生活の浅いあんたに何がわかるっているのよ」と元ヤンバツイチ女も言い返す。「どうせすぐあんたも離婚するに決まってるわ」

「おい、どういうことだよっ」

 ずいぶんと場の空気が荒れ始めた。それは画面越しにでもひしひしと伝わってくる。きっとこの映像はいずれ放送事故として視聴者たちに切り取られ、SNSで拡散されるのだろう。そしてここに映っているマッシュルーム男と元ヤンバツイチ女は世間の笑いものにされるに違いない。その傍にいた演者も反応は様々だった。芸人は意地が悪そうな薄ら笑いを浮かべながら影で二人のことを煽っていたし、ついさっき発言していた臨床心理士は決して関わるまいと息を潜めていた。一瞬だけカメラに抜かれた男性アナウンサーはどうやってこの場を収めようかと困っている様子だった。

 亮子はまだ冷める気配のない湯気立つ紅茶を一口啜り、画面から入ってくるすべての情報を遮断するように目を瞑って意識は遠くへ飛ばした。誰に頼まれたわけでもなく、いつの間にか脱線していた電車の玩具を元のレールに戻すように、亮子は頭の中で西口陽菜を思い浮かべる。口数の少ない内気で大人しい女の子だった。とうていやさぐれて家出したとは思えない。親に反抗の意を唱えるために家出を敢行する姿も想像がつかなかった。

 しかし今更になって、白衣を着た臨床心理士が口にした「虐待」や「ネグレクト」という言葉が何故だか妙にひっかかり始めた。西口親子と面識があった亮子だからこそ、そこに既視感のようなものを覚えたのかもしれない。もしくは、亮子自身もまた、他の視聴者と同じようにマスメディアの報道に踊らされているだけなのかもしれない。なんにせよ、亮子は瞼の裏にしきりに浮かび上がってくる記憶に意識を集中させていた。

 不意に耳の奥でプールの水面を思い切り叩くような音がこだまする。女性の金切り声もそれに重なった。「なんでこれくらいしかできないの!」とその女性は叫んでいる。すると今度は何かが割れる音がした。やがて泣きじゃくる女の子の声が聞こえ始めた。そして追い打ちをかけるように女性の怒鳴り声が覆いかぶさる。泣いたら許されると思ってるんなら大間違いだからね、泣きたいのはこっちよ、と。

 それは西口陽菜が転落死したというニュースが報道された一週間ほど前の出来事だった。いつものように風呂上がりの紅茶を飲んでいた亮子は隣の部屋から聞こえてきたそのやりとりに耳を傾け、珍しく智子が家に帰ってきているんだなと呑気なことを思っていた。

 亮子は目を開けて深いため息をつく。湯呑みの中で小さな波が立つ。もしあの時、私が隣の部屋をノックしていれば何か変わっていただろうか。そんなことを今更考えても意味がないことはわかっているが、後悔せずにはいられなかった。

 テレビの中ではいまだにマッシュルーム男と元ヤンバツイチ女が下らない言い争いを続けていた。

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