(10) 青木沙紀

 男はテラワキと名乗った。知人の紹介で店のことを知ったらしい。その知人とは青木沙紀あおきさきも元々面識があった。それは彼女がこの仕事を始めてまだ間もない頃からずっと指名してくれる中年男性だった。

 テラワキは毎回オプションでSMプレイを要求してくる客だった。きっと彼は普段から相手にとことん痛みを与え続けることで性欲を満たしていたタイプの人間だったのだろう。寝室のベッド下には黒いゴム製の鞭や首輪、手枷、足枷、口枷などの束縛具がいつも隠されていた。本番に関しては店的にも原則NGだったのだが、彼の場合はそれなりに別途でチップをくれたから沙紀は喜んで了承した。ただし必ずゴムは着用すること、SM専門店ではないため身体に痣や傷が残るような激しいプレイはやめてほしいという条件付きで。

 これでもこの仕事に対する最低限のプライドと正義感みたいなものは備わっていた。たった一人の太客のせいでその他大勢へのサービスの質が落ちてはならない。毎回指名してくれるお客さんだって多数抱えているのだ。それが原因でつまらないクレームや低評価をもらうわけにはいかなかった。

 テラワキはいつもホテルではなく自宅に沙紀を招いた。一見して同じくらいの歳に思えたのだが、彼はずいぶんと立派な家に住んでいた。七畳の1Kアパートに住んでいる沙紀とはまるで大違いだった。

 初めて玄関に足を踏み入れた瞬間から気になる箇所はいくつか見つかったのだが、もはやそんなことが気にならないくらい室内は隅々まで清潔に保たれ、特にベランダからの眺望は最高で沙紀はすぐにテラワキのことを気に入った。というのも、この仕事をしていると時折ゴミ屋敷のような家のベッドの上で行為に至らないといけないことがあったのだ。いくらプロだからとはいえ、さすがに得体の知れない雑菌が繁殖していそうな状況下で裸になるのは抵抗があった。清潔感があるというだけでどれだけ女性側に好印象を抱かれるかを理解している男は意外と多くない。そしてそういう不潔な男は大抵の場合でセックスも下手だと相場が決まっていた。自分さえよければそれでいい。そんな男が女を満足させられるわけがないのだ。

 テラワキとは一通り行為が終わると、決まって五分間ほどリビングでとりとめのない会話をした。歳が近くて話しやすかったというのもある。彼は夏の暑い時期には冷えた麦茶を、冬の寒い時期には湯気の立つカフェオレを出してくれた。沙紀はその会話の中で一度だけ「何の仕事をしているの?」と尋ねたことがあった。とはいえ彼は「さあ、なんでしょう」と首をひねって教えてくれなかったのだが──。

「もしかして親が経営者とか?」

「どうして?」、裸のままでリビングをうろつくテラワキは欠伸しながら聞き返した。役目を果たし終えたペニスは肩を脱臼した腕のようにだらんと垂れ下がっていた。

「だってずいぶんと羽振りがいいから」と沙紀は言った。

「ああ、臨時収入が入ったんだよ」

「ボーナス?」

「さあ、どうだろうね」とテラワキは含みのある言い方をして、また首をひねった。

 沙紀は黒のキャミソールを一枚だけ着てリビングの青いL字型のソファーに座っていた。裾を無理やり伸ばして三角に折り畳んだ膝をその中に閉じ込める。テラワキはその隣に腰を下ろし、広い袖口の隙間から沙紀の横乳をチラチラと覗き込んでいた。小さすぎず、大きすぎず、形が綺麗だと評判だった。彼もつい先ほどまでは鼻息荒くしながら揉みしだいていた。今更それを見られたところで減るもんじゃない。

 沙紀は沸き立つ好奇心を上から蓋で押さえつけ、それ以上の仕事の話はしなかった。テラワキが自らの素性を明かしたくなさそうにしているのがなんとなく彼女にも伝わったからだ。下手に踏み込んで相手に不信感を抱かせるのはよくない。手元から逃げられてしまうのはあまりに勿体なかった。

「テラワキくんって意外とロールキャベツ系男子だよね」と沙紀は尋ねた。

「ロールキャベツって?」

「見た目は大人しめで草食系っぽいのに実は中身が肉食系、みたいな」

「そうかな?」とテラワキは眉をひそめた。

 沙紀は肯く。「ベッドの上では特にわかりやすいよ。ドS感が満載で」

「でもまあ、言われてみればたしかに思い当たる節はあるかもね」、テラワキは太ももを爪でボリボリと削るように掻きながらそう言った。「実際に俺、自分より弱い女相手でないと興奮しないんだ」

「弱い女?」と沙紀は聞き返した。

 テラワキは肯いた。そして薄ら笑いを顔に張りつけたままこう言った。「絶対に反抗できないような女であればあるほどいい。たとえば子供とか、身体に不自由を抱えてる女とかね」

 沙紀はしばらくのあいだ言葉を失った。そのあとにどういう言葉を続けるのが正解なのかがわからなかった。

 たしかにテラワキはプレイ中に相手を服従させることをよく好んでいた。「ここを舐めろ」とか「ここに座れ」とか、やっていることはほとんど犬のしつけと同じようなものだった。命令口調で語気が荒く、何か不都合があればお仕置きを加えた。沙紀も一度だけそのお仕置きに耐えきれず、力づくで抵抗したことがあった。それは彼女がいつものようにテラワキのペニスを口一杯に咥えている時、あやまって歯が当たってしまった日のことだった。

 痛っ、と顔を歪めた彼は目の色を変え、いきなり沙紀の頭を鷲掴みにし、その顔面を自らの股間に引き寄せてこれでもかとこすりつけた。当然、ペニスの先端は沙紀の喉元を抉るように奥まで刺さり、息ができなくなった。苦しくなった彼女が無理やり身体を引き剥がそうするとテラワキは若干嫌そうな顔を浮かべていた。なんで抵抗してくるんだよ、とでも言うように。

 以来、そんなことは一度もない。しかし沙紀の脳裏には換気扇の油汚れのようにべっとりとその時の印象がこびりついていた。とはいえどっちがテラワキの本性かなんて沙紀には関係なかった。どちらにせよ彼はたくさん貢いでくれる太客なのだ。大事にしないといけない。そう自分に言い聞かせてできるだけその時の記憶は思い出さないようにしていた。

「ところでさ、男の子って普段どんなAVを見てるの?」、沙紀はさりげなく自らの手のひらをテラワキの手の甲に重ねた。そこに特別な意味はない。彼に対して特別な感情は持ち合わせていなかった(いや、正確にはこの太客を絶対に逃すまいという執着心のようなものはあったのだが)。なんとなく人肌に触れていたい気分だった。彼は相変わらず横乳を覗いていた。

「バスの中で痴漢するやつとかレイプとか、あと他にはロリ系が多いかな」

「いつか警察に捕まったりしないでね?」と沙紀は笑いながら言った。渾身の愛想笑いだ。「あ、ねえねえ。このあともう一回やる?」

 テラワキは沙紀の横乳から壁掛け時計に視線を移した。予定していた終了時刻まではあと十分ほど。それだけの残り時間だけでは彼が満たされないことを沙紀は知っていた。

「そうだね、しよっか」とテラワキは躊躇いなく言った。

「じゃあ延長でいい?」、上目遣いをしながら沙紀がそう尋ねると、彼は指を三本立てて肯いた。あと三十分。彼女は心の中で「やった」と唱えながら頭の中で通常料金に八〇〇〇円を加算した。

「次も本番まで頼むよ」、テラワキはそう言うとおもむろにソファーから立ち上がり、テレビボードの上に載っていた財布から一万円札を二枚抜き取った。「はい、これでさっきのと合わせて二回分。いいだろ?」

 沙紀はついこぼれ落ちそうになる笑みを噛み殺しながら、目の前に置かれた紙幣に手を伸ばした。「いいけど、ちゃんと正規の料金は別途で払ってもらいますからね?」

「わかってるよ。さあさあ、早くやろう。時間がもったいない」

 テラワキは足早にリビングとひとつながりになっている寝室へ向かい、乱れたベッドシーツを綺麗に整え始めた。ペニスは自らの役目を再び思い出したかのようにち上がっていた。沙紀はキャミソールの中で折り畳んでいた足を外に出し、肩紐をつまんで胸元を整え、一度自らの指で陰部を点検するように触った。濡れていないことを確認すると、彼女はテラワキに隠れてそこに唾を垂らした。偽装工作をするみたいに。

 それからようやく腰を持ち上げた沙紀は部屋の中をざっと見渡した。掃き出し窓からダイレクトに入ってくる暖かい日の光が気持ちよかった。それにしてもいいところに住んでいるな、と彼女は改めて思った。そのまま窓に近づき、外に向かって思い切り背伸びをしてみる。埃ひとつ付着していないガラス窓は、小さな下着にも収まるようにと切り揃えていた陰毛の一本も漏らすことなく沙紀の全身を映していた。それを窓の外から覗けるような背の高い建物はこの周辺にはひとつも見当たらなかった。

「ねえ、やっぱり聞いてもいい?」と沙紀は外の景色を眺めながら言った。

「なにが?」とベッドの上からテラワキの声が返ってくる。

「テラワキくんってなんでこんなにお金持ってるの?」、ただの興味本位だった。

「さっきも言ったじゃん。最近まとまった金が入ったんだよ」

「それってもしかして怪しいお金とかなんじゃない?」、沙紀は寝室の方へ振り向き、冗談っぽい声でそう尋ねた。

 するとテラワキも笑いながら「そんなわけないじゃんっ」と首を振った。「最近まで使ってたがついに壊れちゃったからさ、それの保証金みたいなのがどかっと入ってきただけだよ」

「とはいえまだ私と同じくらいの歳でしょう? 普通はこんないいマンションに一人暮らしなんてできないよ。しかも最上階なんてなおさら」

「ああ、違うんだよ。ここはもともと親父が建てたマンションなんだ。今はもう俺のものになってるけどね」

 ふうん、と相槌を打ちながら、沙紀は若くしてこんな立派なマンションのオーナーをしているだなんて羨ましいなと思った。「これからもどうぞご贔屓にっ」と彼女は声を弾ませ、テラワキの待つベッドへ向かった。

「じゃあ早速こいつをつけてもらうから」、テラワキはベッドの下から束縛具を一式取り出した。もうすでにプレイは始まっていた。命令口調で彼は言った。「ほら、早く服を脱いで股を開け」

 沙紀は素直にその指示に従い、唯一着ていたキャミソールをベッドの下に脱ぎ捨てた。それからベッドの上で仰向けになり、テラワキに見せつけるように股を広げた。すると彼は濡れている陰部を見てニヤリと笑った。間近で見るテラワキの歯は思っていたよりも黄色かった。

「おいおい、もう興奮してんのかよ。お前は変態だな」

 テラワキは満足げな様子で肉付きのいい沙紀の内腿を素手で思い切り引っ叩いた。


 それから二年越しに沙紀はテラワキの姿を見た。彼はテレビに映っていた。

「XX地検は七日、未成年者誘拐の疑いで逮捕された会社員の男性(28)を嫌疑不十分で不起訴処分にしました。男性はSNSで知り合った少女を、六月二十日から二十四日の五日間、所有するマンションの六一三号室に寝泊まりさせていたとして、同二十四日に逮捕されていました。なお、マンションのベランダから転落したとされる少女はすでに死亡が確認されており、警察は少女の遺体や現場の状況について詳しいことは公表していないものの事件性はないと発表していました」

 沙紀は普段からほとんどテレビを見なかった。最近はもっぱらユーチューブか月額の動画配信サイトで時間を潰していた。ニュースなんて全く関心がない。自分に関係のない誰かが恋愛していようが、悲惨な事件に巻き込まれていようが、それで普段の生活に支障をきたすことはなかったからだ。むしろ、沙紀は選挙がある時期の方が民放のテレビ番組に目を通していた。

 だから知らなかった。テラワキが警察に捕まっていたことも、彼の名前がそもそもテラワキではなかったことも。そのあまりのショックの大きさに、すぐには言葉が出てこなかった。

 パンツ一丁でグレーのローソファーに胡座をかいていた中肉中背の男はそれを察したかのようにすぐ隣に座っていた下着姿の沙紀をチラッと見た後、声をかけた。「ああ、そういえば沙紀ちゃんは剛徳くんとも面識あるもんね」

 それはまるでテレビに映っていた男がかつて沙紀の顧客だったことを知っていたような口ぶりだった。無論、沙紀の働いている店をテラワキに教えたのは彼だった。

 沙紀は男に尋ねた。「やっぱり郁三いくぞうさんが紹介してくれた人で間違いないよね?」

「そうだよ。間違いない」と男は肯いた。抜き忘れた校庭の雑草みたいな胸毛がエアコンの冷えた風でなびく。雫のように楕円形に膨らんでいた下っ腹はパンツの縁に収まりきらず、アイスクリーム・コーンからはみ出たソフトクリームのように重力に負けてだらしなく垂れ下がっていた。

「誘拐したってほんとなの?」

「まあ、なんとか不起訴にはなったよ」、男はガラス天板のローテーブルに載せていたマルボロの白い箱とライターに手を伸ばした。その中からタバコを一本抜き、火を点けて口に咥えた。下唇をわずかに突き出して煙を吐くその姿は様になっていた。暗闇に包まれた部屋をテレビの光が青っぽく照らしている。男が吐き出した薄く白い煙はその光の中を優雅に泳いでいた。

「冤罪だったのね。それならよかったわ」、沙紀は胸をなでおろした。関係性がそれほど濃かったわけではないにせよ、知った顔が世間から犯罪者として扱われている場面を目の当たりにするのは心臓を鷲掴みにされているようだった。沙紀は呼吸を整えてから男にこう訊いた。「郁三さんってこの人とはどういう関係性なの? 友達にしては歳が離れすぎてるよね」

「ああいや、実は剛徳くんのお父さんと昔から付き合いがあってね。若い頃にずいぶんと金銭的に助けてもらってたんだよ」

「なるほどねえ、お金の繋がりかあ」と沙紀は相槌を打った。「それってまるで私たちみたいだね」

 男はふんっと鼻を鳴らした。「きみにとってはそうかもしれないけど、こっちとしてはせめて身体の関係だと思いたいところだよ」

「そうだね。郁三さんは私がまだ十代だった頃からずっと指名し続けてくれてるもんね」

「外国の高級車一台分くらいは貢いでると思うよ」

「おかげさまで一等地のマンションに住めるくらいにはなりました」

「定年間近で未だに家賃五万のアパートに住んでる男の前で言うことかね」、男はため息混じりにタバコの煙を吐き出した。まだ半分ほど残っていたが、彼はテーブル上の銀色の灰皿で押し潰すように火を消し、今度はテレビのリモコンに手を伸ばしてザッピングを始めた。

「それは郁三さんが毎月律儀に、別れた奥さんと子供のところに生活費を振り込んでるからでしょう?」

「先々月なんて、息子を塾に通わせてやりたいからって、三十万も振り込まされたよ」、男はそう言ってがっくしという様子で肩を落とした。

「まあまあ、元気出してよ郁三さん。このあともう一回ご奉仕してあげるから」

無料タダで?」

 沙紀は首を振った。「もちろん延長料金はいただきますけど」

「金の亡者めっ」、男は呆れたように苦笑いを浮かべた。そして結局は財布から使い込まれた五千円札を二枚抜き、それを沙紀に渡した。お釣りはいらないよ、と彼は言った。

「それにしてもこの人、どうしてマンションの空き部屋を見ず知らずの人に貸したりしたんだろうね」、沙紀はテレビに目を向けながらそうつぶやいた。独り言のつもりだった。

 男は再びタバコに手を伸ばそうと前傾していたが、その途中でふと思い直したように手を止め、だるまが立ち上がるように身体を起こした。そして出し抜けに彼はこんなことを尋ねた。「虐待を受けて育った子どもはどんな人間になると思う?」、低くて年季の入った声だった。

 沙紀はその問いかけにすぐには答えず、十秒ほど間を置いてから口を開いた。「そりゃまあ、痛みを知ってるからこそ、同じような境遇に立たされている人にも自分から手を差し伸べてあげられるような、優しい人になるんじゃない?」

「そりゃそう思うわな」と男は相槌を打った。

 沙紀は黙ったままその続きを待っていたが、結局その続きはなかった。男はそれ以上は何も語らなかった。

 それから二人はソファーの上でキスをした。タバコの匂いが鼻を抜ける。テレビの音が雰囲気を邪魔して男はたまらず消音に切り替えた。真っ暗になるよりはある程度明かりがあった方が興奮度合いが増すのだろう。沙紀はパンツの中でみるみるうちに大きくなっていく陰茎を見下ろしながら、自分でブラホックを外した。全盛期よりは若干ハリがなくなっていたが、それでもまだ綺麗な楕円形を保っていた。

 男はまるで赤子に戻ったように一目散に胸の谷間めがけて飛びつき、顔を埋めようとする。沙紀はそれを拒むことなく手を広げて受け入れ、禿げた頭頂部を優しく撫でてあげた。やがてザラザラとした舌が乳房を触り、沙紀は色っぽい吐息を漏らす。それを合図に男はパンツを脱ぎ始めた。

 男はおよそ十五分ほどで射精に至った。本番を要求しない彼は沙紀の口の中で最期を迎えた。「お疲れさま」と艶っぽい声で言ってあげると彼は何の感想もくれずに力なく肯くだけだった。

「大丈夫?」と沙紀はソファーに仰向けになったままの男に尋ねた。

 彼はもう一度肯き、寝返りを打つように横向きになってからゆっくりと上体を起こした。「大丈夫。でも少し疲れた。やっぱり歳には勝てないもんだなあ」

「十分頑張ってる方だよ。その歳でまだ性欲が尽きてないのって、私の周りじゃ郁三さんくらいだし」

「それって褒めてんの? けなしてるの?」

「感心してるの」

「なんだそれ」と彼は言って鼻を鳴らした。「まあ別になんでもいいんだけど」、男はパンツを履かずにソファーの背もたれに勢いよく身体を預けた。それからリモコンを手に取り、消音を解除する。静寂な空気が一瞬のうちに手で払われたかのように部屋の中は再びテレビの音で騒々しくなった。画面にはさっきまでとはまた違うテレビ局の報道番組が映っていた。十年以上も昔の事件で警察官による証拠の改ざん・捏造行為があったとか、なかったとか、そんな話題が繰り広げられていた。

「そういえば郁三さんも警察官だったよね」と沙紀は尋ねた。

「そうだよ」と男は肯く。「これでも結構偉いんだから」

「へえ、じゃあもし私がお金に困って万引きでもした時にはなかったことにしてくれる?」

「そのくらいは朝飯前だよ」

「まじでっ?」、沙紀は思わず吹き出してしまった。しかし男は眉をひそめて怪訝そうにこちらに顔を向けていた。何か変なことでも言ったかな、という風に。続けて彼女は訊いた。「もしかしてそういうことって日常茶飯事なの?」

 男は首を振った。「そんなわけない。あくまで、きみが万引きをした場合はそれを揉消すことも厭わないという意味だよ」

「それって私だけ?」

「いいや。きみに限らず、僕が日頃から恩義を感じている人に対してはきっと同じことをするだろうね」

「もしかしてこのテレビの人も郁三さんのおかげで助かったとか?」と沙紀は軽い気持ちで尋ねてみた。

 男はしばらくのあいだ何も答えなかった。「え、まじ?」と沙紀は言った。つい眉間に力が入ってしまう。

 相変わらず男は返事をしなかった。その代わりに重たい咳払いをした。

「郁三さんってやばい人だったんだね」

「それはどっちの意味でかな?」

「どっちもだよ。いい意味でも悪い意味でも郁三さんはとにかくやばい人。もし私の味方になっくれるなら当然最高だけど、そうじゃなければただの市民を騙す最悪な警察官だもん」、彼女はそう言ったあとに今度はメガホンのようにした両手を口元に添え、男の耳元で声を弾ませた。「でも、いざという時はほんとに頼りにしてますよ、六本松警部っ」

「六本松、な」と彼は訂正した。そしてそのまま握り拳が楽々入るくらいに大きく口を開け、そこから大量の空気を肺の中へ送り込んだ。目尻が軽く濡れていたのは睡魔に襲われている証拠だった。彼は重たいまぶたを懸命に瞬かせていた。その様子から罪悪感なんてものは微塵も感じ取れなかった。

 沙紀もそれにつられて大きく欠伸をした。眠気はないが少しだけ疲れている。相変わらず察しのいい男はすぐさま「泊まっていくか?」と言ってくれたが、彼女は「まだこのあとも仕事が入ってるから」と断った。それからふとテレビに目を向けてみると、一見して若手の女性のアナウンサーが報道フロアからつい先程入ったばかりだという速報を伝えようとしていた。なめらかでなかなか聞き取りやすい声だった。

「つい先程、M山の山道で少女の遺体が発見されました。通報があったのは本日の午後九時ごろのことで、第一発見者は『山道に捨てられていたボストンバッグの中から女の子が出てきた』と供述しているとのことです。警察によりますと、発見された時にはすでに少女は心肺停止の状態で──」

 ニュースの途中で男は何かを思い出したように「ああ、そうそう」と声を漏らし、軽く咳払いをした。「そういえばさっきの話に戻るんだけどさ」

「さっきの話?」と沙紀は聞き返した。何のことだか、まだいまいちピンときていない。

 男は小さく肯いてみせた。そして灰皿の上に逆立つ半分残ったタバコには目もくれず、新品のタバコに火を点けて口に咥えた。水族館みたく青く照らされた薄暗い部屋の中で、男の吐き出す細い煙はまるで誰かを弔うようにゆらゆらと立ちのぼっていた。その煙が空気中に溶けて消える前に、彼はつらつらと遠い昔話でもするかのように──そしてまるで自殺した友人を救えなかったことでも後悔しているかのように──語り口調で長々と言葉を紡ぎ始めた。

「昔からあの子はずっと母親のことを強く恨んでいた。だから母親と一緒に暮らすと聞いたときには驚いた。過去の遺恨などすっかり忘れて、に戻ったのだとばかり思い込んでいた。母親は離婚と交通事故を経験していた。いくら自分を虐げてきた母親とはいえ、落ち込んでいる母親を放ってはおけなかったのかもしれない、とさえ思った。でも実際は違った。あの子はずっと機会を窺っていただけだった。子供の頃に受けた痛みや屈辱を、母親にも味わってもらう機会を、ね。彼はあの頃の恨みをまだこれっぽっちも忘れてなんかいなかったんだよ。母親が交通事故で亡くなったとき、彼女の遺体には目を背けたくなるほどの傷跡が残っていた。でもそれはある意味では、あの子の心の中を間接的に覗いているようだった。所詮、人なんてものはそれほど崇高にはできてない。良いことがあればそれを独り占めしようとするものだし、嫌なことがあればそれを他の人にも共有して気持ちを分散させようとする」

「ごめん、さっきから何の話してるの?」と沙紀は尋ねた。それがテラワキの話であることにはなんとなく察しがついていたが、とはいえ男が結局何を言いたがっているのかまではあまり判然としなかった。

 彼もそこでようやく会話が噛み合っていないことに気付いたようで、要点を整理するようにひとしきり頭のてっぺん(ほとんど髪の毛の生えていない地肌)を手で押さえ、やがて考えがまとまると頭から手を離してこう言った。「虐待を受けて育った子供はな、良くも悪くも、痛みを知ってるからこそ、自分よりも弱い人間にその痛みを与えようとする人間になっちまうんだよ」

 沙紀はそれにうんともすんとも言い返さず、真面目なことを言う中年男の年甲斐もなく落ち込んだような萎れたペニスをただじっと見つめていた。

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