(2) 井上健治

 金曜日の夜、風呂上がりにリビングで寛いでいると唐突にそのニュースは流れた。

 六月二十四日、つまり今日のちょうど正午ごろに起きた出来事だったらしい。S市内の国道X号線沿いにある七階建マンション<シャトー・ヴァンベール>で転落事故が起こった。死亡したのは西口陽菜、T市内の公立T中学校に通う中学二年生の十四歳の少女だった。ニュースによれば遺体の詳細は明らかにされていないが、今のところ誰かに殺害されたような痕跡もなく、警察は事件性がないという方向で捜査を進めているらしい。グレーのスーツをカチッときめたニュースキャスターは、少女が誤ってベランダから転落した可能性が高いと説明をしていた。

 また、それに加えて、六階の六一三号室の部屋の中から西口陽菜の私物とみられる薄緑のワンピースや黒のブーツ、学生鞄に学生服、淡いブルーのボタンシャツのパジャマなどが発見されたことから、少女は六一三号室のベランダから転落した可能性が極めて高いとも説明していた。また、ベランダに通ずる掃き出し窓は開きっぱなしになっていたという。警察やマスコミはもうすでに少女の死を事故として処理しようとしていた。

 だが、ここである一つの問題が生じた。井上健治いのうえけんじは父親と二人きりのダイニングで、父が仕事帰りにスーパーで買ってきたという出来合いのとんかつ弁当を箸でつつきながらそのニュースを見ていると、不意にテレビに映った<シャトー・ヴァンベール>からしばらく目が離せなかった。

 健治はそのマンションを知っていた。というか、そのマンションの六一三号室が西口陽菜の自宅ではないことを知っていた。

 どういうことか。それは健治の妹である円華まどかが西口陽菜とクラスメイトであったという事実をたとえ知らなくても(健治はついさっきまでリビングにいた妹にその衝撃の事実を知らされた)、そう言い切れた。<シャトー・ヴァンベール>の六一三号室は西口陽菜の自宅ではない。ましてや、彼女の祖父母が住んでいるわけでもなく、親戚や同じ学校の友人の家でもない。そもそも、西口陽菜や妹が通っているT中学校は公立だから、原則的に生徒の自宅は校区内であるT市にないとおかしい。うちの場合だって例外なくそうだった。では、どうして事故が起こるまで西口陽菜の顔を見たこともなかった健治が、はっきりとそう断言できるのか。その理由は一つだった。

 以前、健治もあの部屋を利用したことがあったのだ。『イエ・カス男くん』と聞けば、仲間内ではそれが何を表しているのかすぐにピンときた。健治はちょうど去年の今くらいの時期に、クラスメイトからその『イエ・カス男くん』という名前で運用されているSNSアカウントの存在を聞かされていた。寝床のない人のための避難所を謳い文句に、事前予約さえすれば誰でも無料で部屋を貸し出してくれるアカウントだった。とはいえ毎日あちこちから予約が殺到していてため、部屋を確保するのはかなり大変なことだった。そしてその部屋というのが<シャトー・ヴァンベール>の六一三号室に他ならない。去年の夏休み、健治は親に黙って高校の同級生の何人かと一緒にその部屋に泊まっていた。

 予約方法はいたって簡単で、『イエ・カス男くん』のSNSアカウントをフォローしたのち、ダイレクトメッセージで泊まりたい日付と人数を伝えるだけだった。その際にあらかじめ年齢確認はされるが、そこは歳を偽ればどうにでもなった。身分証明書を提示してほしいとあらためて言われることもなかった。当然、学生服でマンションを訪ねるような馬鹿な真似はするはずもなかった。

 無事に予約が完了すると、当日はまずエントランスで七一三号室のインターフォンを鳴らし、モニター越しに本人確認が行われた。どうやら『イエ・カス男くん』は真上の七一三号室に住んでいたようだ。本人確認と人数確認が済んだ後、今度は泊まるにあたって厳守しなければならないルールを口頭でいくつか説明された。とはいえ、どれも決して難しいものではない。マンション内のエレベーターは使用しないこと。六一三号室に入室する際は決してその姿をマンションの住民に見られないこと。隣の部屋の住人に迷惑がかかるような騒音は出さないこと。滞在中に部屋を訪ねる者が現れた場合は居留守をつかうこと。

 説明が終わるとようやくエントランスの自動扉は解錠された。それから階段を使って六階まで上り、周りに住人がいないかを注意しながら角部屋の六一三号室に入室しなければならなかった。玄関扉の鍵はいつも施錠されていなかった。

 部屋の間取りは2LDKで、玄関から続く一直線の廊下を途中で左に曲がると脱衣所と浴室があり、右手には八畳ほどの洋室が一つとトイレがあった。廊下の突き当たりにはLDKがあり、そのすぐ隣には引き戸で間仕切られた六畳ほどの洋室があった。常時引き戸を開放しておけば、その部屋一帯をおよそ二十畳ほどのL字型の広いLDKとして使うこともできた。

 室内は日当たりが良く、家具・家電は一通り揃っていた。ちょうど肩の高さまである三段の冷蔵庫に型落ちではあるが綺麗に使い込まれたオーブンレンジ、水垢のない電子ポット、風力十分のドライヤー、四〇型の液晶テレビ、革張りの三人掛けソファー、天板が透明ガラスのローテーブル、肌触りの良いグレーのラグマット、木製のダイニングテーブルにそれを囲う同じ材質の四脚の椅子、遮光性に優れた紺色のカーテン。さらに八畳の洋室にはセミダブルのベッドが一つと客人用の布団が二人分用意されていた。そこらへんの安いホテルに泊まるよりも随分と設備が充実していた。しかも隅々まで掃除が行き届いていた。もちろん食事は自炊するかどこかのスーパーで惣菜や弁当を買ってくるかしないといけないが、それを差し引いてもこの部屋に無料で泊まれるというのは、正直、最後に部屋を出るまで信じられなかった。

 健治は初めてリビングに入った瞬間に、何故か歓喜に満ちたようにみんなでハイタッチをしたことを覚えている。最高じゃんか、よっしゃ、今日は修学旅行より楽しい思い出を作ろうぜ、なんてことを言い合いながら。その夜は結局たこ焼きパーティーを開催することにした。友人たちとみんなではふはふ湯気を漏らしながら食べるたこ焼きは最高に美味しかった。今年の夏休みもまたみんなであの部屋に行こうと約束していた。でもそれはきっともう叶わない。

 『イエ・カス男くん』こと、原田剛徳はらだたけのりが転落事故をきっかけに逮捕されたからだ。おそらく西口陽菜も健治たちと同様に年齢を偽ってその部屋に泊まっていたのだろう。死ぬ直前まで滞在していた可能性の高いとされた六一三号室の所有者は当然ながら彼だった。ただちに未成年者誘拐の容疑をかけられて連行されることになった原田は、警察官に先導されながらマンションから姿を現した。健治はその時『イエ・カス男くん』の正体をテレビの画面越しに初めて確認した。

 やりとりは全てSNSのダイレクトメッセージ上で行われ、当日もインターフォンの前で本人確認が済んだ後は「どうぞお入りください」「お邪魔します」と必要最低限の挨拶を交わしただけなのだから顔も本名も知らなくて当然だった。これはきっと健治に限ったはなしではなく、六一三号室を利用した宿泊者全員に当てはまることだった。『イエ・カス男くん』はやはり七一三号室の住人だったようだ。

 隣で新聞を読んでいた父はテレビに向かって「まったくロクでもない男がいるもんだな」と毒づいた。ラジオ感覚でそのニュースに耳を傾けていたらしい。父の表情には露骨に不快感が表れていた。健治はそんな父を横目に、テレビ画面に映る原田がまだ二十八歳だったことに対して静かに驚いていた。

「──なお、原田容疑者は『自分はただ所有地を貸していただけで誘拐した覚えはない。それに彼女が未成年だとは知らなかった。むしろ騙されていたのはこっちの方』と供述しており、容疑を否認しているようです」

 画面に映るニュースキャスターが逮捕された原田剛徳の供述を丁寧に読み上げた頃、不意にテーブルの上で麦茶を半分ほど入れていたコップの水面が小刻みに暴れ始めた。最初は小さな地震でも起こったのかと健治は思った。

「電話鳴ってるぞ」、父はそう言って新聞から目を離し、テーブルに伏せて置かれた震えるスマホを指し示すように顎をしゃくった。

 健治はその動きにつられてスマホに手を伸ばした。どうやらクラスメイトのみつるから着信が入っていたようだ。彼はスマホを手に一旦リビングを離れ、自分の部屋に移動した。とはいえ、そこはいまだに円華と共同で使っている十畳の洋室だった。

 もともと家を建てた時には将来的にこの部屋を二つの部屋に間仕切る計画をしていたようだが、いつの間にかその計画は忘れ去られていた。別に困ってないならそれでいいじゃない、それがうちの両親の意見だった。たしかに困っているわけではない。兄妹間の仲も悪くないし、むしろ他の家庭に比べたら仲が良すぎるくらいだし、毎朝お互いの裸を見ても見られてもなんとも思わない。兄妹として適切な距離を保ち、適度に干渉し合っている。でも、普通の男子高校生なら誰にも見られずに性的欲求を満たしたい時だってあった。

「あ、そういえば風呂空いたぞ」

 円華は壁に寄せられた二段ベッドの下段で仰向けに寝転がっていた。スマホを頭上に掲げて動画を見ていたようだ。彼女は兄が部屋に入ってきたことに気付くと「はーい」と間延びした返事を返した。

 ドアの前にはパンパンに膨らんだ円華のトートバッグが置いてあった。そういえば今日から明日にかけてどこかへ泊まりに行くとかなんとか言っていた気がする。具体的に誰の家に泊まりに行くのかは聞いていなかったが、お母さんたちには黙っててね、と健治はあらかじめ妹に口止めされていた。彼氏でもできたのだろうか。気になってはいたが、無駄な詮索はしなかった。適切な距離を保つことが兄妹の暗黙のルールだ。

「結局、今日は家にいるのか?」と健治は尋ねた。

 うん、と今度はつまらなそうな返事が返ってくる。「ちょっと予定が狂った」

「そうか、それは残念だったな。ああ、てか、ちょっとここで電話してもいいか?」

「彼女?」

「だったらよかったんだけどな」

 ふんっと円華は鼻を鳴らした。「いいよ。どうせ私ももうすぐお風呂いくし」

 健治は勉強机の前に腰を下ろし、いまだに手の中で暴れていたスマホをようやく耳に当てた。

「マジやばくね」、満は開口一番にそう言った。

 おそらくそれは転落事故のことで間違いなかった。彼は健治に『イエ・カス男くん』の存在を教えてくれた張本人でもあった。

「正直、マジびびったよ」と健治は言った。

「で、どうするよ、来週の土曜日」、はあ、とその直後に満のため息が電話越しに聞こえてきた。人が一人死んでいるというのに、どうやら彼には不満や苛立ちを隠すつもりはないらしい。

「マリ女の女子たち呼んでピザパーティーする予定だったやつか」と健治は尋ねた。「そういえば和人かずとも誘ってたんだっけ?」

 目の端にベッドから身体を起こして重たい足取りで風呂に移動する円華の姿が映る。彼女はおそらく今日宿泊先で使う予定だった下着と寝間着をトートバッグの中から取り出してから部屋を出て行った。

 そうそう、と満は返事をした。「まあ和人にはもともと断られてたんだけどな。アイツ、俺らに黙って彼女作りやがったらしい。ほんと抜け駆けだよな」

「まじかよ、全然知らなかったわ。なんだよ、言ってくれりゃよかったのに」

「でもこれじゃあどっちにしたって意味なかったよ。あんなに頑張って人も集めて部屋の予約までしたのにさ、ほんといい迷惑っていうか」、彼はそこで一度言葉を遮り、またひとつ大きなため息をついた。「マジやってくれたよな、あの転落した女の子」

「まあまあ。そんなこと言ってやるなよ」と健治は宥めたが、内心では満とほとんど変わらない気持ちだった。せっかく顔面偏差値の高いマリアーノ女学院の女の子たちと同じ部屋で一夜を共に過ごせたかもしれないのだ。ワンチャンだって大いにあり得た。でも原田が捕まった時点でそれはもう叶わなくなった。高校生だけで泊まれる場所なんて他にないからだ。仮にうちの家に呼んだとしても親と妹がいる手前、好き勝手はできない。健治自身も静かにやれる自信なんてなかった。

「だいたいさあ、自分の家って言ってもいまは誰も使ってない空き部屋だろ? それで誘拐になるのかよ」、満は相変わらず不満げな声でそう言った。

「法律のことはよくわからないよ」と健治は答えた。

「死んでまで他人に迷惑かけんなよ、マジで」

 いつも以上に満の語気は荒かった。普段ならここで健治もその口調に合わせて不満を思い切りぶちまけるところなのだろうが、あいにく彼には顔も知らなかった死人(しかも妹の同級生だった女の子)を痛めつけるような趣味はなかった。とはいえ、良識と遠慮をすべて取っ払ったような満の物言いのおかげで、落ち込みかけていた気分が割とすっきりしていたこともまた事実だった。たとえそれが不幸ごとだからといって、全く関係ない他人の勝手な事情で自身の楽しみが台無しにされることを仕方ないと割り切れるほど、健治はまだ大人にはなれていなかったのだ。

 ほんとだよな、マジで。健治はそれを口にはせず、心の中で本音を漏らした。

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