蝶を捕まえられなかった女の子(No.10)

ユザ

(1) 西口陽菜

 強い風が吹いた。それはまるで滝をのぼる鯉のように吹き上げる、じめっとして生ぬるい風だった。雨上がりの空は、鍋蓋に穴が開いたみたいに湿気にまみれていた地上の空気を外に逃がしていた。まだ雨の匂いがする。決していい匂いとは思わないが、自然と肩の力が抜ける。どうしてなのかは自分でもよくわからない。雲間から差し込むカーテンレールのような光が好きだった。その向こう側に新しい世界が待ち構えていそうで胸が高鳴る。その一方で、当然のようにその新しい世界が美しいものだと思い込んでいる自分が、なんておめでたい人間なんだろう、とどこか俯瞰的になって呆れている私もいる。ひとつ深いため息が出た。

 まだ蝶々が飛んでいた。さっき捕まえられなかったキタキチョウだ。黄色く染められた羽の周りを黒く縁取り、羽ばたくたびに裏側に点々とした黒い斑点が見えた。吹き上げる風に煽られながら、懸命にその羽を動かしている。時折吹く横風に流されながらも、なんとか目の前の位置で留まってくれている蝶々を西口陽菜にしぐちひなはじっと見ていた。

 陽菜はベランダの柵に身を乗り出し、キタキチョウめがけて右手を伸ばした。ひらりひらりと指先を逃れるキタキチョウのすばしっこさに手を焼いた。意図的にこちらの手をかわしているのか、それとも運良く風に流されているだけなのかは陽菜にはよく判断がつかなかった。あと少しで届くのに。つい舌打ちが出てしまう。いい加減捕まってくれてもいいんじゃない? 陽菜はしぶとく逃げ回る蝶々に心の中で語りかけた。

 先に根負けしたのは陽菜の方だった。蝶々をたった一匹も捕まえられない自分が情けなくて嫌気がさした。またしてもため息が漏れる。もう何もかもが嫌になって、蝶々を追いかける気も失せた。骨を抜かれたかのように腕が柵の向こう側でだらんと垂れ下がる。不意に目頭が熱くなった。悲しいのか、悔しいのか、寂しいのか、虚しいのか、どれも当てはまっていそうで、どれにも当てはまっていないような気もした。自分のことなのに自分のことがよくわからなかった。私もいずれはなってしまうのかなあ。ふとそんなことを思った。根拠はない、けど、そうならないと言い切れるだけの道理もなかった。

 せっかく顔を覗かせていた日の光が徐々に薄れていく。空はまたもや薄暗い雲に覆われ始めた。でもきっと雨は降らないだろう。今朝の天気予報では午後から晴れると言っていた。

 宙を舞うキタキチョウは陽菜に何か大事なことを言い残すように一度だけ目と鼻の先まで近づき、じゃあね、とどこかへ旅立っていった。羽ばたいていく蝶々を眺めながら、途端にそれがまるで幸運の象徴であったかのように思い始めていた彼女は捕まえなかったことを今更ながらに後悔していた。

 陽菜は肘を折り曲げた左腕を柵の上に載せ、さらに手の甲の上に顎を載せて遠くを見た。視界の右隅には隣の部屋と隔てられた非常用の白い蹴破り戸、そして左隅には肌触りがザラザラとした白いのモルタル壁がうっすらと映る。その先に部屋はない。ここはマンションの角部屋だった。

 見渡す限り、周辺に視界を遮るような高い建物はなかった。前方には十数キロメートル先離れたM山の麓だって見えるし、大きな川の向こう側に広がっている田畑だって見える。顔を下げると、ここ最近ハイペースで勢力を拡大しつつある大手コンビニエンスストアがすぐそこの国道沿いだけで三店舗も構えていることがわかる。道路を走っている車は手のひらサイズで収まるくらいに小さかった。その国道の奥には、お好み焼きのヘラを逆立ちさせたような照明塔が目立つ市営の野球場があった。

 陽菜は背伸びをしてマンションの真下をのぞいた。アスファルトが一面濡れていた。目隠しの役割を任されたかのように等間隔で並んでいる植木も、シャワーを浴びた後のように水滴を地面に垂らしていた。地上を歩いている住人の姿は誰も見当たらなかった。当然と言えば当然か。平日の昼間はほとんどの人が仕事か学校で家を空けていた。

 高いなあ、と陽菜は地上を見下ろしながらつくづくそんなことを思っていた。遠くから見れば、今の自分の姿はベランダに干されている布団と見間違われてしまうのではないだろうか。どうでもいいことが心配になった。だからなんだよ、と自分で自分にツッコミを入れる。とはいえ、いっそのこと誰でもいいから私のことを見てくれないかなあ、と心の中で懇願していたこともまた事実だった。泣く気はないが、この現状を笑いたくもない。なんでこうなっちゃったかなあ。そんな後悔ばかりが懲りずに何度もため息を外に押し出した。

 地面から湿った風が勢いよく吹き上げた。頭に軽く載せていただけの麦わら帽が宙を舞う。あっ、と声が漏れ、陽菜は慌てて上体を起こして背伸びしたまま手を前に伸ばした。蝶々と違って意思のない麦わら帽は逃げ回ったりしなかった。だがしかし、陽菜は誤って帽子のツバを指先で弾いてしまった。くるりと縦に反転した帽子は縁の広い器のようなかっこうになり、重力に従って下へ落ちていく。その動きはまるで時が止まっているかのようにゆっくりに感じられた。陽菜は急いで上体を前に倒す。左手は柵を掴んだまま、軽く地面を蹴った。

 届け。お願い、届いて。

 そして今度こそ、見事に目の前のそれを掴むことができた。

 でも、もう遅かった。

 ヘソのあたりが当たっていた手すりを支点に、みるみるうちに前へ傾いていく身体の勢いは止まらなかった。誰かに後頭部を上から押さえつけられているみたいに頭は下へ落ちていき、やがてシーソーのように足が完全に浮かび上がった。左手になんとか力を込めてみるものの、ついには耐えられなくなって手すりから指が離れた。すると、ついさっき取りこぼした麦わら帽と全く同じ動きをなぞるように、今度は陽菜の身体が空中で縦に反転した。目の前を雨上がりの薄い曇り空が覆った。死ぬのかな、と呑気なことを考えていた。満足のいく人生とは到底言えなかったが、そこにうれいはなかった。死を目の前にして、陽菜は安堵のようなものを感じていたのかもしれない。

 陽菜はそっと目を閉じた。暗闇の中で、うっすらとしたカーテンレールのような光が差した。これでようやく新しいところへいける。でもやっぱり私はおめでたい人間だ。次は今度こそ上手くやっていけると新しい自分に期待しているんだから。また人間に生まれ変わる保証もないのに。

 背中に強い衝撃を感じる直前になってようやく溢れ出た涙を宙に残しながら陽菜は落下した。遅れて頬の上に自分の涙が着地する。耳の裏で卵が潰れたような音が微かに聞こえた。陽菜は痛みをほとんど感じる間もなく、一切の意識を失った。いつ死んでしまったのかすら自分ではわからなかった。

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