第7話 友達一号
前言撤回。きっと僕は釣りをしたことがないだろう。どれくらい時間が経ったろう、僕の竿はピクリとも動かない。
この池には魚はいないんじゃないかと疑ったが、試しにマスターが竿を握るとすぐにアタリが来てボーンフィッシュが一匹釣れた。
「今日は諦める?」と聞かれたが、モンスターを前に声も出せない僕が、釣りすら出来ないとあってはもう後がないと思った。
それに、ミケには自分で釣った魚を食べさせてやりたかった。
君の好きにしたら良いよとマスターは優しく言って、僕のことが見える範囲でキノコや山菜を集めたりした。それも終えて、今は草むらに寝そべって日光浴に興じている。
マスターの折角の休日を、こんなことに付き合わせて良いのだろうか…… もう切り上げようと諦めかけたその時、僕の竿にアタリがきた。良し! と思って巻き上げようとするが、いやはや大きい…… 大きすぎる!
「ま、ま、マスター!!!」
情けない声で助けを求めると、優雅に日光浴をしていたマスターが起き上がる。そんな悠長にしていないで! と思うが、それを口に出す余裕もなかった。今にも池に引き摺り込まれそうだ。
「こいつは大きいね。いいかい、僕が合図をしたら力を緩めるんだ。大丈夫、ちゃんと支えていてあげるから」
本当に緩めて大丈夫なのか? 不安でたまらないが、今この世界で唯一頼れる相手の提案を断るわけにもいかなかった。僕は何とか首を縦に振りオーケーの意思を伝えた。
「よおし、いくよ〜。三、二、一…… 今だ!」
言われた通りにすると、やはり思い切り池へと引っ張られる。突っ込む! そう思ったが、マスターに押さえられた僕の身体はびくともしなかった。ゴーストなのに実体があるって不思議だな、なんて考えているとマスターが大きな声を上げる。
「それ、今だ! 思い切り引っ張って!」
反射で釣竿を引っ張り上げると、それまでの攻防が嘘のように呆気なく獲物が宙を舞った。それは大きく弧を描き、地面にビタンと着地した。
それはとてつもなく大きな、タコだった。
「うわあ、クラーケンの稚魚だ! すごいよジョン君、良くやったね!」
クラーケンというのは、あの船を沈めてしまうという怪物のことだろうか。僕の胴よりも太い足が地面をピシャン!と叩いた。
「どうして池にいたんだろう? けどまあ、池からはみ出る前に捕まえられて良かったよ。いやあ、パスタにマリネにアヒージョに…… 来週の主役は決まりだね! お手柄だよジョン君」
マスターがルンルンしている。ものすごく、ルンルンしている。その姿を見られただけで今日は十分だ。そう思いたかったが、やっぱりボーンフィッシュを釣り上げたかった。
「……ミケはクラーケンも食べますか?」
僕の考えていることが伝わって、マスターはルンルンするのをやめた。そして慰めるような声音で言った。
「クラーケンは食べないかなあ」
「そう、ですよね。じゃあ次頑張ります!」
努めて明るくしようとした。マスターは励ます手立てを探すようにチラリとクラーケンに目を向けると、一瞬固まった。そして––––
「ジョン君、こっちへおいで」
「え?」
稚魚と言っても僕にとっては十分にタコのお化けと言える、そいつに近づくには少し勇気がいった。恐る恐るマスターの背中側に回ると、彼はクラーケンの足の一本を指さした。そこに何かが刺さっているのが見える。
「あ!」
ピチピチと身を捩らせるそいつは、他でもないボーンフィッシュであった。
◇ ◇ ◇
店へ帰ってくると、マスターは早速クラーケンを捌きに奥の大きなキッチンへ向かった。ミケはまだ店にいた。窓際のテーブル席の上で丸くなって、夕陽を浴びている。
マスター曰く、町全体で面倒を見ているのだが、餌が美味しいのでよくここに居座るのだそうだ。ちなみにミケは雌猫又だそうだ。
彼女は薄目を開けて僕と目が合うと、興味なさげにまた目を閉じた。キッチンからマスターが顔を出す。
「ジョンく〜ん、ボーンフィッシュ焼こうか?」
「あ、えっと、ご迷惑じゃなければ…… 僕が焼いても良いですか?」
マスターはニッコリ笑った。
「良いに決まってるでしょ。じゃあカウンターで焼こうか。持っておいで」
言われた通り、僕はボーンフィッシュが入ったボックスをカウンターへ運ぶ。二匹のうち、クラーケンに刺さっていた大きい方を取り出そうとすると、そいつは僕の手の中でジタバタと暴れ始めた。その度に鋭い骨で引っ掻かれるので、僕の腕は獣に襲われたような有様になってしまった。
「痛い痛い痛い!! 暴れないで。マスターどうしたらいいの!?」
僕のドタバタで目が覚めたのか、ミケはこちらに迷惑そうな眼差しを向ける。腕も痛ければ、ミケの大きな一つ目の視線も痛かった。
「落ち着いて、首と胴体の繋ぎ目の骨を折るんだ。そこじゃない、もうちょっと上、そうそこ。ポキッと、それ!」
マスターの助言のおかげで、やっと調理に取りかかれた。汚れを落として、薄く味付けをして、両面をこんがりと焼く。焼き目がつくのを待つ間、マスターが腕のあちこちに絆創膏を貼ってくれた。
美味しそうな匂いで完全に目を覚ましたミケが、ニ本の尻尾を揺らしている。可愛い。もう少し待ってね、という念を飛ばした。
「出来た!」
「上手に焼けたね。それじゃあ君の手で渡してあげて」
言われておずおずと彼女に近づいた。今朝威嚇をされた距離まで行くが、今度は大丈夫なようだ。彼女はニャアと小さく鳴いた。早く食べさせろと言っているようだ。僕はお皿を差し出した。
「まだ熱いから、ゆっくりお食べよ」
僕の言葉などお構いなしに、ミケはボリボリと齧り付く。様子を伺っていたマスターが、後ろからそっと話しかける。
「今なら撫でても平気だと思うよ」
僕も丁度その欲と戦っているところだった。ゆっくり慎重に手を伸ばす––––
すると、ミケが素早く顔を上げた。僕もピタッと動きを止める。大きな黄色の瞳と、じっと見つめ合う。やっぱりダメかな、そう思った時だった。
「わぁお」
ミケが僕の手を舐めた。ボーンフィッシュにやられて出来た小さな引っ掻き傷、まるでそれを労るかのように。そうして僕の手に顔を擦り寄せる、撫でないで良いの? とでも言わんばかりに。僕は堪らずミケを撫でた。
「おめでとう。友達一号だ」
マスターが自分のことのように嬉しがった。ミケは僕の手の中でゴロゴロと喉を鳴らしている。
幸せってこんな感覚だったな。
忘れていた感情を僕は一つ思い出した。
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