第三話 絲縁の瞳(下)
窓の外に、赤子が蔓延っていた。首が折れる。断面図がぱくりと現れた。
柘榴の血肉を晒す。
「あれは、
緋真は周囲を鋭く見渡すも、
赤子が窓に爪を立てた。
カリカリ。カリカリカリカリ。
カリ。
打ち破ろうと窓をひっかく。
また、一人増えた。
さらに、もう一人。さらに。さらにさらに―――気が付けば、赤子は大群となって
「真実宣言――—」
緋真はカメラを構える。
「この屋敷に潜むは笑般若!写し撮れ、大鏡!」
『ふぅむ。
シャッターを切れば、赤子は消滅―――途端に静寂が戻った。
和室には燦々と陽光が降り注ぎ、穏やかな午後を漂わせる。怪異の気配は無い。縁の瞳も光が収まり、ぱちぱちと瞬きを一つ。
―――日常に帰還した。
「えーーー……じゃ、依頼完了ということで」
『まだじゃの』
大鏡はふうわりと現れた。
「今の真実宣言も正確には当て損じだが、まあこの程度はサービスだ。見逃してやろう」
「どういうことだい」
「楓。解説しておやり」
楓は常のチェシャ猫めいた胡散臭い顔で『んふふ』と笑う。
「笑般若というのは、大元を正せば邪心を抱えた女が変じる鬼ですの」
「ヒトが妖怪に、ねえ」
緋真は狛獅を見る。狛獅は顔を顰めて否定、煩わしそうに手を振った。
「柘榴でできた赤子を連れているのが特徴ですわぁ。ですので今美録さんが除霊したのは子分の方。大元の笑般若はまだ萩原家にいるはずです」
「邪心……嫉妬とか憎悪とか?」
「そうじゃの。特に恋にまつわる
ちらりと緋真と縁を見て
「失敬。
「馬鹿にしないでくれ。私だって一応女なんだよ。なあ縁」
「僕だって美女に化けるぞ!」
「
笑われて緋真は
「しかもあの笑般若は
「ちょっと待ってくれ。それじゃ、なんだかまるで」
「まるでではない。笑般若はこの屋敷に暮らす生者よ。果たして
緋真は考え込む。
久子が新にプロポーズされた頃から膨れ始めた胎。赤子の手形が最もついた指輪。恋の邪心の鬼 笑般若。
とすると、
「
大鏡は空に腰かけ、緋真たちを見下ろす。
「さて 詰みまであと一歩」
***
夜の帳が落ちる頃。
美しく着飾った豊子が離れに緋真と楓を案内していた。母屋に負けず劣らず古いが、やはりきちんと掃除が行き届いてる。
「綺麗な部屋ですね」
「キヨが頑張ってくれるのよ」
キヨ。久子を案じるあの忠実な使用人。豊子はリビングを指し示した。
「キヨは元々、路上孤児でね。久子さんが拾ってきたの。以来、キヨは萩原家を……いえ、久子さんを第一としてるわ」
「んふふ。さもありなんですわぁ」
「彼女、久子さんのためなら本当に何でもするのよ。小さい頃から、しょっちゅう色んな物を贈ってた……」
例えば
恩があるから、と言って。
一瞬、遠い目。
「……久子さんって何でも持ってるのよね。自分の母親も。キヨも」
夜八時―――柱時計の鐘が鳴った。
一方。縁と狛獅。
「一日に二回も魔眼使って大丈夫なのかよ」
「そのための狛獅さ。いざって時は引っ張ってね」
縁は久子の元寝室の箪笥を物色していた。
「あったあった」
そして珊瑚とルビーで飾られた宝石箱を取り出した。中を開ければ、玩具の指輪や小さな石といったガラクタが詰められている。
きらり、
「それにしてもよぉ。誰なんだろうな、笑般若。存外、キヨが桐谷の若旦那に横恋慕してて―――」
「ああ。それは無いよ」
縁はじぃっと視て。色々なガラクタに触れていく。
「キヨさんは見たまんま。彼女の忠誠だけは信じてもいい。
でも、笑般若候補だ」
「なんだそりゃ」
縁はガラクタに一つずつ触れて微笑むだけ。狛獅はフンと息を吐いて天を仰いだ。
「ま、気張れよ。首尾良く行きゃあ桐谷家から
「僕はそれより狛獅のご飯が食べたいな」
「野良犬の飯を美味い美味いと食う坊ちゃんはお前だけだよ……」
「どうして?狛獅が一生懸命作ってくれたものじゃない。どんなお店よりも美味しいよ」
「そいつはどうも。仕事だからな」
狛獅はぼそり、呟いた。
「……明日の飯はライスカレーだ」
ちなみにライスカレーは縁の最近の好物である。
一階。久子の現在寝室にて。久子は枕元に枕を立て、座椅子のように寄りかかっていた。傍ではキヨが付き、丁寧に爪紅を塗っている。
胎は相変わらず膨れたまま。
「ごめんなさい、キヨ……」
「大丈夫ですよお嬢様。探偵社の皆様を信じましょう」
久子は顔を伏せる。
「貴女に負担ばかり、かけて……」
「何を仰います」
真っ赤な爪紅を塗る。
一枚。また、一枚。
赤く
「貴女の幸せを願うのは当然です」
―――窓に 子供の手形がびたん、と
屋敷中に赤子の絶叫が轟いた。
***
赤い。赤い。赤い。
否―――赤子の群れだ。
未完成の体で這ってはぐしゃりと潰れ、柘榴を撒き散らす。
しかしそれでも構わない。緋真は赤い海を踏み躙り、萩原邸母屋をひた走る。楓は蒼い顔、緋真に手を引かれるしかない。
「大丈夫かい楓!」
「あまり…
楓の首にはびっしりと赤子の手形。動く度に、ギリリ、首を締めあげられる。
服に隠れて見えないが腹にも……
「もう少しで狛獅と合流できるからね!」
「貴方、やらなきゃいけないことあるんでしょう……」
びたびたびた―――赤子の足音が、背後から 迫って
「さ、美録さん。
「君は私の友達だ」
「……ふふ。お馬鹿さん」
「大鏡!狛獅はどこにいる!」
『目の前じゃな』
目の前の扉が開き、緋真はぐいっと手を引かれた。縁だ。
「やあ緋真!賑やかな夜だね!」
「ああ全く!楽しすぎて涙が出る!」
そして緋真と楓が飛び込んだのを見て、縁は即座に扉を閉める。扉に札を強く叩きつければ、暴風のように手形がびたびたびたびたびたん―――激しく揺すられる。しかし中には入ってこない。
どうやらここはかつてのサロン、ダンスホールらしい。部屋隅には気絶して長椅子に寝せられる母親、険しい顔の豊子、少し震える久子とその手をずっと握っているキヨが一塊となっている。
狛獅は飛び込んできた楓を抱き止め、その背をとんとんと叩いていた。
「頑張ったな」
「知恵さんの口伝奇談集を編纂するまで…ごほっ…死ぬわけには……」
「ブン屋よぉ、そろそろ
「あらぁ、貴方と付き合うのをやめろと……?冗ッ談じゃあございませんねぇ……」
「お前が俺をどう思ってるかよーくわかったぜ」
ダンスホールは一面ガラス張りの窓に囲まれている。しかし月は視えない。
赤い。
全面、朱塗りであった。
まるで赤い羊水にダンスホールが沈められたかのような……
縁は緋真を手招く。その手には珊瑚とルビーが嵌った宝石箱。
「緋真の推理、合ってたよ」
「……そうか。縁。三回目、大丈夫?」
「余裕余裕。狛獅はちょっと過保護なんだよ」
その瞬間、扉が一層強く叩かれた。
『破られるぞ』
「狛獅!」
「
扉から赤子が溢れた。縁の号令で狛獅は最前線に立ち、緋真はカメラを構えシャッターを切る。
「真実宣言―――」
赤子はたちまちカメラの中に吸い込まれ消滅した。が、フレーム内に収めきれなかった赤子がまだ残っている。彼らは一斉に跳梁し、緋真たちに襲い掛かかり―――
「はしゃいでんじゃねえぞ、ガキ」
全員、狛獅の拳に吹っ飛ばされ、そのまま消滅した。そして当の狛獅は
「成り掛けが本物に勝てるわけねえだろ」
頭上には狛犬の如き白い耳。腕には真白の鱗。唇には僅かに尖った犬歯。
特殊な術が使えるわけではない。ただ単純な殴る蹴るの暴力では探偵社一であり―――その出自故か、何故か怪異にも有効だ。低級霊なら拳一発で吹っ飛ぶ。
「もう行けるか写真屋」
「多分ね」
また赤子が湧く。その数、優に五十を超える。そして援軍はしばらく止む気配は無い。襲い来る赤子を狛獅は片端から返り討ちにする。
「ここは任せろ。時間を稼ぐ」
緋真は萩原邸の面々を見た。
気絶する母親。険しい顔の豊子。震える久子。じっと緋真を窺うキヨ。
「ご覧ください。これが萩原邸を蝕む
久子さんの胎が膨らんだのも、柘榴の赤子も、真っ赤な手形も、全てが全てこの怪異」
「早くしてくれ!お嬢様が!」
「無論。が、まずは引っ張り出さなきゃいけない」
ひとつ。緋真は指を立てる。
「全ては三ヵ月前―――桐谷新さんにプロポーズされた時から始まる。その日に、あの恋の邪心は生まれた。新さんと久子さんの結婚をぶち壊したい気持ちがね」
そこで緋真は気絶する母親を見る。
「この時点で御母堂は候補から除外していいだろう。結婚は彼女の悲願だ。
じゃあ、キヨさんかな。桐谷さんに横恋慕しちゃったんだ」
「なっ……!」
キヨは途端に気色ばむ。
「彼のこと好き?早く答えてくれ。楓が危ない」
「いえ、もう少し引き延ばしてください……笑般若の観察が……」
「嘘だろ、君……。まさか本当に怪異研究に命懸けてるのかい……?」
キヨは怒りに満ちた目で緋真を睨みつけた。
「横恋慕だと!?ふざけるな!!」
「本当?本当の本当に?今認めれば、ご主人の命は助かるよ」
「天地神明、我が主に誓い、私は新様に恋なぞしていない!!」
―――赤子が一斉に動きを止めた。
「………え?」
「この反応なら確定だね。信じるよ。でも君が元凶だ」
緋真がそう言った瞬間―――再び……否、先程よりも激しく活性化し襲い来る。狛獅はそれら全部を叩き落とし、再び防戦。
「写真屋ァ!!テメエ!!」
「うわ、ごめん!もっと激しくなるから少し踏ん張ってくれ!」
「後で
緋真は豊子を見た。
「さて……君、久子さんのお見舞いに来た桐谷さんに言い寄ってたらしいね」
「わ―――私じゃない!!久子さんの結婚、私―――」
緋真の脳裏に過るのは、新に言い寄る豊子。
―――『どうしても久子さんじゃないと駄目なんですか?』
―――『お相手なら……私の方がずぅっと上手くできますよ?』
豊子はそう艶やかに誘って……彼はそれを拒まなかった。
「―――だから、君は笑般若じゃない」
あれを見て緋真は彼女の無実を確信した。
「いや、最初は豊子さんだと思ったんだ。笑般若となり無意識に久子さんに偽りの不義を植え付けたのかな?って」
緋真は思い出す。
「でもよくよく考えたらおかしいんだ」
笑般若とは、恋の陰の情念を拗らせた女が成る鬼。
「桐谷さんは豊子さんを受け入れてるからね。情念を拗らせることない。豊子さんは笑般若になる余地がないんだよ」
ぐるり全員を見渡した。しかし人数は増えてもなければ減ってもいない。
「やあ参ったな。候補がいなくなった」
縁は緋真の横に立つ。
「そこで、ふと違和感を覚えたんだ」
縁の手にはルビーと珊瑚の宝石箱。そして婚約指輪の小箱を取り出す。久子は目を見開いた。
「この婚約指輪は文机の抽斗の中に入ってたんだ。他の文房具と一緒に、ぽーんってね。しかも指輪はピカピカ。まるで一度も指に通してないみたい。
一方、こっちの宝石箱は箪笥の一番一番奥深くに隠されてた。すごいね。本物の珊瑚とルビーだよ。さぞ素晴らしい物が入ってるんだろうね」
パカリ。開ければしかし、小さな石や玩具の指輪といったガラクタが顔を覗かせる。
「あれ…?あの指輪……」
キヨがふと声を上げれば、久子は一瞬で青ざめ、やめて、と藻掻く。だが緋真は首を振る。
「ごめんよ。荒治療させてもらう。―――縁」
「僕と緋真 僕と大鏡 僕と久子さん 僕と豊子さん 僕とキヨさん―――」
縁の魔眼が輝き、玩具の指輪にそっと触れる。
「縁を伝って見せてあげる。これが指輪にまつわる記憶だよ」
場面転換。
部屋の風景は和室になった。景色は夏の夜。十四歳頃だろうか。涼し気な浴衣になった久子にキヨが指輪を差し出していた。
「玩具で恐縮ですが、似合うと思ったので」
戸惑いと共に久子は目を丸くした。
「貴女……指輪を渡す意味、知ってる?」
思案、一拍。キヨは考え込んだが首を振る。
「欧米の風習とは聞いたことがありますが。何か深い意味がおありで?」
「いえ―――私も知らないの」
その返答にキヨはわずかに自嘲した。
「そう、ですか。いえすみません。出過ぎた真似だったみたいですね。……本当に、恥ずかしい」
「ううん!!嬉しい!!」
ひっこめようとすれば久子はその手を掴んだ。
「お願い……指輪、嵌めて……」
「しかし」
「いいの。お願い……。貴女の手で……」
キヨは久子の左手を取って、その薬指に嵌めた。
キヨの指はわずかに震えていて。
久子はそれに頬を染めて目を伏せた。
「ありがとう……嬉しい……。ずっと、大事にするね……!」
それを見て……キヨは深々と頭を下げる。
しかし下げる直前。キヨの顔は確かに、照れと高揚と……罪悪感が綯交ぜになった顔をしていて。
「指輪を贈る意味はわかりませんが、
失礼致します、お嬢様」
キヨは久子の手を取って、指輪に口付けをした。
「―――……
「やめて―――やめてえええ!!」
久子は
「……久子さん。君は…」
「言わないで!!お願い!!もう止めて!!」
「婚約者からの指輪を普段使いの抽斗に、使用人からの玩具の指輪を宝石箱に入れるんだね」
「止めて!!お願い!!言わないでぇっ!!」
「君にとってキヨさんはただの使用人じゃないんだ」
「やめてえええええええええ!!」
「桐谷新と婚約破棄したいのは君自身だ。―――そうだろう 笑般若」
***
幼い頃からキヨが好きだった。
キヨ。キヨ。強い貴女。でも本当は少し繊細で神経質で、頑固な貴女。優しい貴女。
ああ、嬉しい。貴女から指輪が―――
「貴女に永遠の忠誠を」
―――……ああ そう、よね。
そうよね。ごめんね…ごめんね、キヨ……。貴女を愛してしまってごめんなさい……!貴女はこんなにも清らかな忠誠を捧げてくれるのに。貴女を見ると、想いが溢れて止まらない。
私―――貴女にめちゃくちゃにされたい……。
「萩原家のために婿を取りなさい」
お母様……
「子供を 男児を 正当なる跡継ぎを」
いやだ―――嫌だ!!し、知らない男との子供なんてぞっとする!!嫌よ、キヨじゃないと嫌!!
でも お母様の望みは
「お前には萩原家男児を産む役目があるのです」
お母様が お母様が悲しむ。キヨへの想いがバレたら駄目だ。絶対に駄目だ。誰にもバレないようにしないと。お母様ならキヨを追い出す。駄目だ駄目だめだめだめだめだめ。だめ。我儘言っちゃいけないわ。お母様の夢が 私には萩原家の そうよ 駄目駄目 新様と結婚しなくちゃ そう。大丈夫。駄目。新様はとっても優しい人よ。好い人じゃない。みんなが羨むわ。そうよ。そうよ。これが女の幸せなのよ。
「ご婚約おめでとうございます、お嬢様」
ほら―――キヨは私の結婚を止めない。
ほら ほらあ!!
気持ち悪いのは私だけ!!
さあ。今日こそ結婚指輪を嵌めるわ。嵌めてみせる。キヨがそのために爪紅を買ってくれたんだもの。新様もきっと喜んでくれるわ。そうしたら私もキヨも、大切にしてくれる。
「どうしても久子さんじゃないと駄目なんですか?」
豊子さん?どうして豊子さんが…新様の隣に座ってるの?
だめ
駄目なの
だって お母様が
結婚しないと
子供 そう 萩原家には跡継ぎが必要なの 家名を守るために おかあさまが
いやだ
我儘言っちゃ駄目
子供
早く子供を産まないと 嫌!!嫌嫌嫌!!子供なんて産みたくない、そういうことキヨ以外としたくない!!違う!!我儘言っちゃ駄目!!
(子供―――産まなくちゃ―――)
キヨ……私、貴女が―――
―――久子の胎がぼこん、と膨らんだ。
「ぁあ、ああぁあぁああ――――」
絹を裂く悲鳴。久子の体から、どぷり、と。胎から般若面の女鬼が産まれた。
笑般若だ。
股からだばだばと柘榴が溢れ、床一面に甘酸っぱい羊水を撒き散らす。
「あああ、キヨ、キヨ、いやあ―――おねがい―――お母様見ないで―――!」
「なるほど。母親と豊子さんが怪異を信じないことも引っ掛かってたんだ。赤子や手形なんてわっかりやすい現象が出てるのに。
違うね。無意識のうちに母親と豊子さんの前では怪異を出さないようにしてたんだ。……そこまで、君は追い詰められていた」
「ごめんなさい―――見ないで―――……お母様には……言わないで……!」
「もちろん。引っ張り出した以上、ちゃんと消してあげるよ。真実宣言―――」
女鬼は体長三メートルは優に越す。あの胎にいったいどれだけの物が詰まっていたのか。緋真はカメラを取り出―――
「キ、ヨ」
ケタ、と笑般若が
「久子さん―――っ!」
『やりすぎたのう緋真。暴走しておるわ。ほほ。久子が完全な笑般若となるぞ』
「なったらどうなる!」
『どうもこうも。人間の理性なぞ全部消えて鬼に生まれ変わる。本人もそっちの方が楽しく生きられるのではないか?』
「早く言ってくれ!そうしたらもう少し手加減した!」
ず、ず、と。笑般若は十本腕で這って、ケタケタ嗤う。赤子も嗤う。ここに産まれて泣く命はいない。生誕の喜びに嗤い、解放された歓喜に身を任せ尾を振れば、豊子と母親が窓に叩きつけられた。そして二人の首を締めあげ……その腹に、ひた、と手を当てて
「ガアゥ……?!あっ…ぐぅ、あああ…っ」
「くそっ、一瞬で良いからこっち向いてくれ」
顔が見えないと魂を吸い取れない。しかも笑般若は暴れ回る。これじゃフレームに収まらない。
「狛獅!」
「こっちは手一杯だ!!」
狛獅はほぼ息が出来ず苦しむ楓と、楓を抱える縁の前に立ち塞がり、赤子の大群を一人で押し留めていた。
『だから言ったであろ。緋真。お前と縁にはちとわからん話じゃな、と。常人にとっては子を為すのは女だけの特権で、女同士の恋は禁忌。それが普通になるのは……百年後か
「悪かったね!完全な女じゃなくて、がっ―――」
気を取られた隙に、思い切り腹を殴られた。床に二回転、転がる。
カメラが手から離れた。
『おや』
(まずい―――!)
ずしんと笑般若は緋真に伸し掛かる。かしゃん、カメラは一メートル先まで飛ばされた。わずか、届かない。爪は宙を掻く。
笑般若はケタケタ嗤う。嗤いながら泣き叫ぶ。
「あは、あはははははは!!もう終わり!!もう終わり!!キヨにこんな気持ち悪いの見られたんだからさぁ!! キヨ ああああ ちゃんと産まなくちゃ 結婚 萩原家の跡継ぎをちゃんと ちゃんと 嫌だぁ キヨ 嫌だよお―――」
緋真の腹を撫でる。
「あ」
くす。くすくすくす。笑般若は玩具を見つけて喜ぶ子供のように
「この胎を 借りれるね」
笑般若は自らの胎に手を入れて、柘榴の実を取り出した。それを緋真の口元に詰め込もうと屈んで
「―――お嬢様」
キヨが笑般若を抱きしめる方が早かった。
あ と思ったらキヨが笑般若の頬を包む。
そして口付けを一つ、重ねて
「貴女はもう、産まなくていい」
キヨの手には玩具の指輪があった。
キヨはずっと、桐谷新が―――あのクソ男が憎くてしょうがなかった。
久子が優しい人だと言う度に、私の方がずっと優しくできると歯噛みした。
でも貴女が幸せになれるならと そう、自分の心を押し殺して。
「だから爪紅を塗った。少しでも貴女の心に残りたかった。結婚指輪を眺める度、私の紅が見えるよう……」
笑般若は呆然。キヨは彼女を愛おし気に見つめた。
「気持ち悪いなんて言わないでください。この姿は私を想ってくれた証じゃありませんか」
ぼろ、と笑般若の瞳から涙がこぼれた。
「子供を産めなくても。人間止めても。
何もできなくったって
貴女という存在が、私の喜びなんですよ」
キヨは再び、久子の左の薬指に、玩具の指輪を―――
「―――真実、宣言……!萩原久子を呪っていたのは、笑般若…っ!」
緋真は笑般若がキヨに注意が惹かれた隙を突き、拘束から抜け出しシャッターを切る。
「写し撮れ、大鏡―――!」
『
シャッターを切れば、成り掛けの笑般若は消える。
後に残るのは、指輪を交わした恋人たちだ。
胎はすっかり、へこんでいた。
***
「この度は、誠にお世話をお掛け致しました」
半刻もしない内に話は纏まり、キヨと久子は探偵社一行に頭を下げた。
母親が失神してる間に駆け落ちすることにしたのだ。
これからは萩原を捨て、新しい名前で生きて行くのだという。
正確に言えば久子は激しく狼狽えた。母親に逆らうなんてとんでもないと―――しかし、キヨが全部口付けで黙らせていった。物理的に。いやあ、熱いね。
「あの
無論、誰も止めなかった。豊子に至っては手切れ金とばかりに母親の貴重品その他をキヨと久子に押し付けていった。まあそうだろうな。後々、金の無心なぞされて一番困るのは豊子である。
「叔母さんには久子さんもキヨも財布も怪異に喰われたって誤魔化しておくわ。あと、私の生徒の友達にお琴の先生を探してる家があるの。久子さん琴上手でしょ。紹介状書くから死んでも京都に来ないで」
そういえば豊子は京都で良家子女に華道を教えていた。
久子とキヨが深く深く感謝したのは言うまでもない。そんな二人に豊子は盛大に複雑な顔。
「あの―――感謝しないで久子さん!!わかんないの?!全力で追い払ってるの!!私、貴女に意地悪してるの!!貴女っていつもそう!!何もかも持ってて、鈍感で、頭お花畑で!本当にイライラする!!だから……だから……そのイイコちゃん顔止めなさいよ!キィイイイイッ!!」
これこそが嘘偽りない本音なのだろう。まこと、この従姉妹は役者である。
……さて 緋真は一つ気になってることがある。
新の見舞いの花束のことだ。
(確か、ピンクと白のライラックの花言葉って『無邪気』とか『青春の喜び』とか―――あとは……)
友情、だった気がする。
婚約者への花束に相応しいだろうか?
(いや……花言葉なんて知らない人も多いし、偶然だと思うけど……)
しかし、新の豊子の誘惑をあっさり受け入れた顔を思い出した。ふぅむ。ふぅーーむ……?
「縁」
「なあに?」
「桐谷さんって勘が鋭い方?」
「うん。
「それで火事でお姉さんを亡くしてて。執着心が強い」
「そうだね!」
「…………」
執着心が強い彼が、簡単に心変わりするだろうか?
(もし―――)
『あの……新様は……キヨも大事にしてくれるって約束してくださったの。本当に……とても優しい方で……』
そう言っていた久子。実際、キヨにも優しくしていた新。もし、もしなのだが……
(母親からの重圧も何もかも全部わかった上で、久子さんとキヨさんの関係を守るために婚約したとしたら……?)
だったら、彼は豊子の誘惑も受け入れるだろう。
新にとって久子はそういう対象ではないのだから。
「縁。桐谷さんのお見舞いについて一言」
縁はにっこり笑った。
「新らしい花束だね!」
……類は友を呼ぶ。この型破りだが頭が切れる縁の友人ということは、まあ―――そういうことも、ありえるだろう。
***
明け方。緋真は駆け落ちする二人を駅まで見送りにきた。念のため二人の写真を撮る。
心霊写真は出なかった。
「うん。本当に笑般若は消滅してるね。……いや、その。君たちにしてみれば珍妙な話かもしれないけど……私はその…心霊写真が撮れて……」
しかしキヨは首を振った。
「いえ。
「凄い……。よく五代前の話知ってるね」
美録家。八雲の血を引く
そのせいかおかげか、緋真にも心霊写真を撮るという特殊体質と……あとはまあ、肉体的にささやかな特典を持つ。他の美録も似たり寄ったり、各々自分の特殊能力や特典を活かして頑張っているようだ。
しかし現在の美録一族はすっかり没落しきり、血族は散り散りとなった。緋真も知らない美録もいることだろう。
しかし、そもそもの話を言えば、八雲家が
「美録と八雲の関係を知る人なんかほとんどいないぞ……。君、何者?」
「いや、私も受け売りなんです」
「誰からの?」
「赤―――」
大鏡がふうわりと現れた。ぎょっとするキヨと久子に構わず、彼はキヨの胸の中に手を捻じ込む。
手はキヨの胸を透過し…あっさりと埋まった。
「放しなさい!」
久子はキッと睨みつけるが…大鏡はすんなりと手を引く。
その手には、
「ああ、もう話しても良いぞ。これで爆発することはなかろうて」
「は、え この人は……?」
「私の使い魔で……。ごめん。それで、誰からの受け売り?」
「あ、ああ。火傷のような赤痣が付いた行商人です」
(火傷のような赤痣―――)
待て。確か、知恵の父親も、その男に唆されてヒダル神を解放した。
じり、と。緋真は肌にまつわりつく嫌な予兆。
「その行商人、他に何て」
「三ヵ月ほど前だったかな。飴を売りに来たんです。お嬢様も私も飴が好きだから買って、食べて……」
「その飴の瓶、どこ」
「あれ、そういえばどこだ……?お嬢様、知ってますか?」
「いえ…。その後すぐ、その……お胎が変になっちゃったから、それどころじゃなくて……。とても美味しかったのに……」
ぞわ、と。鳥肌が立った。
「その時、その男が『もし困ったことがあれば八雲探偵事務所にお願いしなさい。八雲の方は素晴らしい力をお持ちだから……』と言って、色々と教えてくれました」
そこまで言って、汽車が来た。二人は晴れやかな顔をして乗っていく。
しかし緋真は……
「ふふ ふ―――」
大鏡は黒い尺取虫を潰した。
「
「…………」
緋真は暁の空を眺める。
不気味なほどに、紅かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます