第一話 心霊写真を撮る女

 桜咲く。大正浪漫は花開く。


 大正十八年、三月。帝都。満月の下、河辺に桜並木が咲き誇る。辺りは人一人おらず、静かなものだ。

 そんな光景を一人の少女が撮影していた。ショートカットに真っ赤なカチューシャ、袴に編み上げブーツという、どこにでもいる大正少女だ。

 そんな彼女に駆け寄る男が一人。

「お嬢さん。こんな夜更けに一人じゃ危ないですよ」

「ありがとうございます。でも仕事でして」

 写真家なんですよ、と彼女は自分のカメラを指した。男はじぃっとカメラを見つめる。

「ははあ。初めて見ました。舶来品外国製品なぞ私のような貧乏人とは縁がなくて」

「奇遇ですね。私も貧乏暇無しの身でして」

「暇無しなら上等ですよ。こちとら有るのは借金だけでね」

 しかし男は『はて』と首を一捻り。

「暗すぎて何も撮れんでしょう」

「いえ。工夫すればそれなりに」

 少女はちらりと目をやれば、月明かりが川面に映り、反射板となって桜を照らしていた。それに男はははあと感心の声を上げるも疑心は消えない。それにしたって光量足りないんじゃなかろうか。

 彼女はいったい、何を撮っている?

「……………」

 少女はちらとも見向きもせず撮影中。

 愛想も可愛げも……警戒もない。

 しかしあのカメラは素人目に見ても高価な物だ。

 さぞ、高く売れることだろう。

 男の借金を返せるほど……

「…………」

 男は少女の首に掛けられたカメラを見つめ―――無遠慮に鷲掴みにした。

「何…っ、するんですか!」

 動揺、荒げた声。このまま大人しくしてくれれば良かったものを。男は舌打ちしカメラを捥ぎ取りにかかる。

「騒ぐな。大人しく金目のモン寄越せッ」

「やめてください!やめて…!きゃあああああああっ!!」

「黙れっつってんだろ!!」

「いいよ」

 途端に少女の声は冷静さを取り戻した。と、同時に

「な…っ」

 いつの間に取り出したのか、男の顎に拳銃の銃口を当てていた。しかし男は鼻で笑う。

「ハッ…撃てるもんかよ!過剰防衛で人生破滅だ!」

「果たしてそうかな。私の悲鳴は近所中に聞こえたはずだ。世間の判決は『暴漢が若い娘を銃で脅すも暴発、暴漢死亡』だね」

 男の顔が引き攣るが、少女は更にぐいっと銃口を突きつけた。

「さて。最近の死神は足が速いんだ。引き金一つで来てくれる」

「脅しなんざ」

「試してみようか。五、四、三…」

「き―――気狂いかよ……!!」

 男はやっとその場から逃げ出した。溜息、一つ。少女はカメラに傷がないかあらためぼやく。

「せっかく助けてあげたのに酷い言い草だなぁ」

 彼女が持つのはポロライトカメラではない。

 なのに、底部から写真が一枚

 その写真は夜闇にぼやけた桜と、異様に痩せこけてるのに何故か腹だけが膨らんだ男女が何人も写っていた。彼らは写真の外―――先程の盗人に腕を伸ばして襲おうとする。もちろん辺りに誰もいない。

 なのにからかうような声がカメラから響いた。

緋真ひさなは優しい子じゃの……』

 そうしてカメラから純白の長髪と翡翠の瞳を持つ美人がするりと現れ、宙に浮く。

「祟っちゃ駄目だよ大鏡おおかがみ

「どうしようかの。くふ。退屈だ。ああ退屈だ。汽車でも転がし遊ぼうか」

「やめて」

「では暴け。人の世に隠れし怪異を」


 ―――彼女の名前は美録みろく緋真ひさな

 職業、写真家。

 十八歳。身長百五十八センチ。

 現在、付喪神・大鏡に憑りつかれ中。


 特技―――心霊写真撮影。



***



 話は二日前に遡る。


 大日本帝国の栄えある帝都。その中、柑橘市橘区には花番街・鳥番街・風番街・月番街の四つの街が存在するが、花番街は赤煉瓦あかれんがや石畳、瓦斯燈ガスとうといった最先端技術ハイカラな都市構造で有名だった。

 その美麗な街並みの中でも一等目を引く真っ白な擬西洋風建物ビルヂングこそが『八雲やくも探偵事務所』―――緋真の日雇バイト先である。

 その応接室に緋真含む四人の人物がつどっていた。

「―――『たま喰いの桜』?」

 銀髪ポニーテールの美青年が面白そうに声を上げた。彼こそがこの八雲探偵事務所の所長あるじ八雲やくもえにしその人である。

 それに対し『んふふふふ』と笑うのは本日の依頼人・香深かふかかえで。常に丸眼鏡と胡散臭い笑みを浮かべる小柄な女だ。

「はい。風番街にて変死体事件が発生しておりましてねぇ。皆一様に河辺の桜近くで死んでるので、桜が魂を喰ったと噂になり、魂喰いの桜の名が付きました」

 彼女は帝都新聞社の記者であり、普段から奇妙オカルトな事件を探している。神出鬼没、チェシャ猫のような女である。

「ご存知です?」

「知りたくもねえ」

 そうぶっきらぼうに返すのは、縁の横にどっかと腰を下ろした黒髪男・近衛このえ狛獅こまじ。鋭い目が示す通り、縁の用心棒(兼付き人)だ。

「風番街の死体なんざどうせ阿片あへん絡みだ。好奇心は猫を殺すぞ、ブン屋」

「ありがとうございます。けれど猫は九つ命がありまして。んふふ」

「お前な…」

「阿片だとしたら、少々妙でしてねぇ」


 ―――魂喰いの桜。

 二週間前から風番街の河辺で死体が出るようになった。

 当初は阿片や風土病を疑われたが、それにしては様子がおかしい。死体があまりにも綺麗すぎるのだ。まるで突然魂だけ抜き取られてしまったかの如く、外傷なく死んでいる。

 しかも被害者は学生から地元の名士金持ちの妻まで幅広く、共通点はただ一点『河辺の桜近くで死んでいる』ということのみ。

 解剖医も警察も原因不明と匙を投げた。

 拠って楓は心霊関係だと睨んでいる。


八雲探偵事務所ここの十八番でしょう?」

 『こちらはご遺体のスケッチです』と添えながら、楓は茶封筒を応接室の机にトンと置く。縁は微笑みながら中をあらため、緋真は冷静に楓を見、狛獅は頭を抱えた。

「もちろんだよ楓。任せて!」

「楓。入手方法を問うのは野暮かい」

「聞くな写真屋。この馬鹿は調べ過ぎだ。どんだけ危ない橋を渡った」

 通常、遺体の絵画スケッチなぞ警察の管理下に置かれている。どこから買ったか貰ったか。いずれにせよ、渡る橋は綱渡りだろう。

「企業秘密ですわぁ。んっふふふふ…」

 しかし楓は口々の視線をさらりと躱し、飄々と紅茶に口を付け。念仏も説教もどこ吹く風で、狛獅は再び頭を抱えた。

美録みろくさんが撮った写真もぜひぜひ買い取らせていただきたく存じます」

 緋真はぼやく。

「君は本当に強かというか……」

「貴方は真面目というか愛らしいというか」

「喧嘩売ってるのかい」

「おやぁ?おやおんやぁ?照れてますの?そういうとこ、ですわよ」

「……ばかじゃないの」

「わあ見て狛獅、楓と緋真が仲良しさんだ。僕たちも仲良ししよう!」

「俺はお前が嫌ェだ」

「ありがとう!僕も好き!」

「耳付いてる?」

 楓はころころと笑い、懐から小切手を取り出してテーブルに置く。

「では真相究明手伝ってくださいまし」

 小切手の金額欄は白紙。

「言い値で真実を買いますわ」


***


 風番街の河辺のすぐ傍、桜を一望できる場所に純喫茶ミルクホールが一軒建っている。小じんまりとしてるが洒落た店だ。

 その中、一番見晴らしが良い席にえにし緋真ひさなは向かい合って座っていた。開け放した窓からは春の陽光が降り注ぎ、縁の月長石の如き銀髪と紫水晶アメシストの瞳を輝かせる。長い睫毛まつげで瞬きをする度ぱちりぱちりと光が溢れた。まこと、宝石人形のような男である。おかげで着物にフリルエプロン姿の女給ウエイトレスはぽうっと見惚れ、注文を今か今かと待っている。

 緋真はぎこちない手つきで品書メニュー表を開き……流れるように縁に渡した。品書はハイカラな店内に相応しく、珈琲と紅茶ばかりで占められてたのだ。

「ごめん、庶民には馴染みが無くてね。オススメある?」

「ミルクティーかな」

「みる……?」

「牛乳で煎じた紅茶だよ。とても甘いんだ」

「この世にはそんな洒落たものがあるのか…。……いいなぁ」

「ウチにおいでよ!毎日飲ませてあげる!」

 砂糖も蕩ける甘い声。しかし緋真は動じない。彼に意図はないのだ。残念なことに。あるいは、幸運なことに。

「ありがとう。幼馴染として忠告するけど余所よその人には言わない方がいい。洒落にならないよ、八雲やくも財閥ざいばつ御曹司」

「僕は僕だよ。実は好意を示すのに名札はいらないんだ。知ってた?」

「身の程なら知ってるね。私は所詮しょせん没落子爵だ」

「僕は知らない。緋真。二度と身分を盾に僕を遠ざけないで。ああ、それとも追いかけられたい?」

「さてね。君の楽しい方でいいさ」

「地の果てまで探すね!」

「恐悦至極……」

 緋真はゆるやかに苦笑い。この幼馴染は誰にでも直球クソデカ感情を剛速球で叩き込む。いつか誰かに刺されやしないか、それだけが心配だ。そんな二人に女給がソワソワしながら注文を取りに来た。縁は指を二本立てる。

「ミルクティー二つお願いします。ところで女給さん」

「は、はいっ」

「僕は大学で郷土史の研究をしてるんだけど、あの河辺に何か口伝いいつたえはありますか」


 二時間前。探偵社にて。

 楓は緋真が撮った写真―――痩せこけてるのに腹だけが妊婦のように膨れた男女が犇めく光景―――を見、楽しそうに分析した。というか彼女は常に楽しそうな薄笑いだ。チェシャ猫のような女だな。

「―――餓鬼がきですねぇ」

 餓鬼。私利私欲で人を陥れた地獄の亡者。食べ物や水は全て火になり、飢餓に苦しむ罰を受けるのだという。

 狛獅は怪訝な顔。

「なんで地獄の亡者がこんなとこに」

「さぁて。脱獄したのでは?」

 楓の軽口に緋真は首をひねった。

「別のあやかしが偶然こういう姿の線は」

「有り得ますねぇ。餓鬼の姿を取る妖は多いですもの」

 狛獅は顎に手を当てて難しそうな顔。

「進展無しか」

「いいえぇ?おかげで調べる指針が立ちました。でしょう?」

 縁が穏やかに肯く。

「餓鬼を形取るなら飢餓と関連があるだろう。でも風番街で大量餓死の噂は聞かないし、恐らく明治以前の霊だ。となれば新聞や裏社会よりも郷土史や口伝いいつたえ、被害者周りを洗った方がいい。僕と緋真、楓と狛獅に分かれて調査しておくれ。異論は?」

 誰も手を挙げない。

「では決まり。―――所員諸君 夜を暴くぞ」


 そんなわけで縁は大学生を装い緋真を連れ、河辺近くの純喫茶で情報収集に勤しむのだった。

 女給はパンと手を合わせて顔を輝かせる。

飢饉ききん地蔵の話があります」

((大当たりビンゴ―――!))

 二人は刹那、目配せアイコンタクト

文久ぶんきゅうの御代にこの一帯で飢饉がありました。毎日餓死者が山のように荼毘だびに伏されたそうです」

「へえ…」

「そしていつしか餓死者は生者を祟るようになりました。どんなに腹が膨れててもかつえ、生気を失い、死に至る祟りです。しかしある日、さる高僧が河辺に地蔵を建て弔ったところ祟りが鎮まった……と」

「なるほど……」

 背景はよくわかった。しかし……

(また一つ謎が増えた……)

 緋真の思案をよそに、少女はおずおずと緋真に話しかける。

「大学ではそういうお勉強ができるのです?」

「ああ……私は大学生じゃないんだ」

「ウチの書生になれば毎日ミルクティー飲み放題!」

「縁、お口チャック。私は写真家で…」

 途端、女給はぎょっとした顔で後退った。

「浅学ゆえお許しくださいね……そのう……写真機キャメラって魂を吸い取るんでしょう……?」

「よく知ってるね。明治の御代に流行った怪奇譚だ。でもデマだよ」

 見たところ女給は十五歳前後。緋真は驚いた。ずいぶんと古い話を知っている。

「そ、そうなのですか……。ごめんなさい」

「気にしてない。怪奇譚が好きなのかい」

「はい!体系立てて共通点を見つけ、因果関係を調べるのが楽しくて……」

「君は学問に向いてる」

 しかし彼女は諦めきった顔で微笑んだ。

「それが……父が『女は勉強なんかしなくてもいい』と言うから女学校行けなくて。祖父が建てたこの店も守らなくちゃいけないし……」

「じゃあ君一人で切り盛りしているのか」

 しかも父親が誰にも見下されないようメニューも値段も高級なものにしろと煩いらしい。幸い、祖父と付き合いがあった問屋が無料同然の値段で融通してくれるらしいが、それでもほぼ儲けは出ない。

「大変だね」

「僕に出来ることがあれば言ってね」

「ありがとうございます。でもあの桜が……」

 開け放した窓に視線を向ければ、眼下には河辺の桜並木がいっぱいに広がっていた。溜息が零れるほど立派な古木なのに、眺める者は誰もいない。

「不吉な噂のせいでお客様も来なくなって」

 言われてみればテーブルは全て空席、寂しそうに埋まるのを待っている。

「それは……桜が恨めしいね」

「いいえ。あの桜が悪いもののはずありません」

 彼女は切なさを帯びて俯く。

「幼い頃、怪奇譚好きの変人といじめられました。父に相談しても『薄気味悪いお前のせい』の一点張り。だからよくあの桜の下で泣いてたんです」

 ふわり、女給が浮かべるのは草臥くたびれた笑み。若い少女が浮かべるには、あまりにも大人過ぎて……。

「泣いてると、いつも私を慰めるように桜の周りでそよ風が吹いて…。ふふ。あの桜になにかがいると無邪気に信じていました……」

「なにか」

「ええ。うんと優しいなにか。だから噂はあり得ません。本当に魂喰いの桜なら、私とっくに死んでますもの」

 その時。店内の奥、階段の上から男の怒声が飛んだ。

知恵ちえェッ!!油売ってんじゃねえ、酒持ってこいッ!!」

「あっ…ごめんなさい!!父上!!」

 女給―――知恵の顔に一瞬走るのは怯えの色。それでも彼女は緋真たちに深々と一礼する。

「ごめんなさい。ミルクティーもすぐにお持ち致しますね。だから―――また、お店に遊びにきてください。おねがいします……」



***



「なぁんだ。ヒダル神ですか。んふふふ」

 夕方。四人は探偵社に戻り、再度情報を共有していた。

 そして緋真たちから飢饉地蔵の話を聞き、楓はチェシャ猫スマイル。あっさりと怪異を特定したのだった。

「ヒダル神。餓鬼の姿をした餓死者がししゃの悪霊です。人に憑りつき、目的地まで連れて行き、どんなに満腹でも飢えさせて殺す。あるいは生気を吸い取りますねぇ。

 ほら、ご遺体も全て綺麗だったでしょう?」

 なるほど正体はわかった。緋真はふぅむと腕を組む。最低限分かればどうとでもなるが、謎が新たに浮かんだままだ。

「だがおかしかねえか?そいつらは地蔵に封じられたんだろ?」

 それである。

「うん。僕もお地蔵さんを実際に視たけど、不審点は何もなかったね」

「んじゃ、なんで今になって暴れてんだ。冬眠でもしてたのか?」

「私は河辺傍の純喫茶が犠牲になってないのが気になる」

「意外ですねぇ。貴方、不憫な知恵さんを疑うタイプですか」

「不憫な人間は罪を犯さないのかい?」

 そんなことはない。『可哀想な少女が健気さを貫く』なんて酷い幻想侮りだ。黙って殴られるのは美徳じゃない―――少なくとも緋真はそう思う。だから知恵が復讐目当てでヒダル神を解き放っても『なるほど。君は強い人だね』と言ってやるさ。

「疑わしい点がある以上、信じていいのは飢饉地蔵みたいに裏取りが取れる話だけだよ」

 狛獅は申し訳なさそうに溜息一つ。

「悪いが俺らは空振りだ。被害者周りの聞き込みをしてたから河辺の情報は無え」

「『たま喰いの桜』の噂のせいで、そもそもだぁれも河辺に近づかないようで」

「手詰まりだね……」

 縁がそう呟いた時―――ふと緋真の脳裏に夜桜が映った。

 夜。河辺。カメラを盗もうとした男。借金があると語る口元。男に手を伸ばすヒダル神の心霊写真。

「カメラ……奪われそうになった……」

「は?!いつ!?大鏡さんは無事ですの!?」

『案ずるな。せつを殺すは退屈のみよ』

 カメラの中から付喪神・大鏡の声が響く。それに楓はほっと一息つき直す。逆に険しい顔をするのは狛獅だが、緋真は構わず語って聞かせた。

 あの昨夜の出来事を。

 そしてぽろり、疑問が零れる。

「彼は何しに来たんだ?」

「あ?そりゃお前のカメラを奪いに……」

「それは偶然の事故だよ。本来は不吉な噂のせいで河辺には誰もいないはずなんだ。

 そんな場所に何の用があるんだ」

 全員がハッと息を飲み、大鏡のくすくす笑いが辺りに響いた。カチリ、パズルのピースが噛み合って。

 緋真の瞳に光が灯る。

「その男、何か知ってるかもしれない」

「金目の物をちらつかせれば釣れるんじゃねえか」

「けれど私はもう拳銃持ちだってバレてる。だから―――」

 緋真の顔がまっすぐ縁に向いた。



***



 夜。十六夜いざよい月が河辺を照らす。

 無精髭の男はそろりそろりと辺りを見回しつつ、警戒心も露わに現れた。昨夜、少女からカメラを奪おうとした際、拳銃で抵抗されたのだ。

 そして河辺へと一歩足を踏み入れる。今宵の夜桜も息を呑むほど美しいが、男は桜なぞ目に入らなかった。

 絶世の美人がいた。

(なんだあ…ありゃ…!?)

 人形とまがうほど美しい。特に長い長い睫毛に縁どられた紫水晶アメシストの瞳は何よりも透徹で吸い込まれそうだ。しかしそれよりも目を引くのは、宝石を贅沢にあしらった指輪や首飾ネックレス。夜目でもわかるほど大粒のダイヤが盛り込まれてるではないか。男は思わず鼻息を荒くする。

(こ、これで借金も返済できる……!!)

 男は衝動のまま美人に飛び掛かり―――

「汚ねぇ手で触るな」

 地面に引っ繰り返された。一拍おいて走る激痛。男が振り仰ぐと―――狛獅が男を取り押さえていた。狛獅は絶世の美人―――縁に鋭く声を掛ける。

「怪我無えか、所長殿」

「ありがとう。おかげさまで」

「なら上々だ。手前てめぇに死なれると仕事が無くなるんでな」

「狛獅は本当に優しいね!」

「……写真屋。こいつは昔からなのか?」

「残念ながらだね」

 狛獅の声に、古木の影から緋真と楓が顔を出す。男は緋真を見るなり喚いた。

「てめえっ、昨日のクソ女!!」

「お。確認の手間が省けた。ありがとう」

 人違いならどうしようかと思ったが、自分から白状してくれた。良かった良かった。しかし緋真は首を傾げた。この声、どこかで聞いたことがあるような。昨夜カメラを盗られそうになった時以外にも……。

「あっ……君、知恵さんの父親、か?」

 縁と緋真が知恵と話している時。階上から『酒を持ってこい』と知恵を怒鳴りつけた父親の声と同じじゃないか。

「ああ、確かに同じだね」

 縁も肯定する。男は途端に顔を顰めた。

「なんだァ…?てめえらあの愚図グズの知り合いか?」

「成程。知恵さんは本当に一人で店を切り盛りしてるようだ」

 緋真はともかく縁ほど目立った客を覚えていないということは、そういうことなのだろう。

「なら容疑も多少は晴れるかな。客がいなくて困るのは彼女だし。君、毎日何して生きてるんだい?」

「目上の人間には敬語を使えメスガキィッ!!気安く話しかけ「情報くれたら謝礼を出すよ」

 男はピタリと止まった。文字通りの現金だ。

「縁。経費で落ちるかい」

「百万円くらい必要?」

「ふふ。狛獅。絶対縁に財布を持たせないでね」

「写真屋…。お前、難儀してたんだな…」

「緋真は酷い奴だよ。ダイヤの腕輪を贈ろうとしたら僕をスッ叩いたの」

「写真屋…!お前、難儀してたんだな…!!」

 縁は良い奴だが、ちょっとだけ好意の力加減ブレーキが下手くそである。ちょっと?ちょっとかな。ちょっとかも。緋真もそろそろ麻痺してるのかも。

 緋真は男に淡々と問う。

「河辺についての情報、全部出してくれ」

 男は縁の羽振りの良さを聞き、へらへら笑った。

「へえ、お嬢さん。地蔵にハッ付けてある札を買い取るって男がおりやしてね。良い値で買ってくれたんでよ、他にも地蔵がいねえか探してたんでさ」

「楓」

「十中八九悪霊封印の札ですねぇ。おそらく地蔵はフェイクでしょう。札より地蔵の方が大事にされ易いですもの。貴方、それっていつの話か覚えてます?」

「二週間くらい前ですね、ハイ」

 変死体事件もだいたい二週間前から起こっている。―――当たりだ。

「その男についてもう少し……」

 緋真が言いかけた瞬間、地中から黒い何かが這い出た。

 枯れた指。地中から半分だけ出した頭。

 落ち窪んだ眼下と目が合って―――ニタァ…と細められた。

「……ッ!?」

 即時、俊敏。狛獅は本能的に男から飛び退さがった。その一拍後、黒い群れが溢れかえる。まるで蟻の如くうぞうぞと蠢き、波となり群れ……

「これは…っ」

「酷いねえ…!」

 気が付けば辺り一面、ヒダル神に囲まれていた。

 次いで涌くのは死臭と腐臭、えた匂い。胃も脳も掻き乱され、吐き気が上がる。眩暈すら覚えるようだ。緋真たちは顔を顰めながら、背中合わせで周囲を見遣る。

「ふぅむ。あの男、情報抱え落ちで死なれるのは困りますねぇ」

「いや……数が多すぎる。撤退だ」

「でも何とかしないと犠牲者が出てしまうね」

「知るか。俺はクソと心中する趣味は無え」

 反応は四者四様。そんな四人をヒダル神たちは嘲笑った。

「おお―――若くて美味そうな」

 目があえば

 ぞわ、り

「……っ!」

 総毛立った。霞む視界。途端に襲う渇きと飢え。腐臭がぐらり、眩暈となって苛んだ。まずい。これはまずい。

(生気を吸われている……!)

 噴出する冷や汗は見て見ぬ振り、首から下げたカメラをしっかと抱える。

(数が多すぎる……これじゃ何もできない……!)

 くすくす、くすくす。笑い声はさざめき、緋真はますます総毛立つ。四方八方、嘗め回す視線。退路は……ない。ならば、注意を引きつけてスキを……!

「その男を返してくれるかい」

 緋真は冷静を装い男を指した。彼は既に失神し、ヒダル神に捕まりぶらんと垂れ下がるだけ。ヒダル神はにちゃついた笑みを浮かべる。

「皿の上の肉をみすみす逃がすと思うか?」

「野に放した羊は太って戻ってくるよ。何事も食べ時ってあると思うな」

「ふは。本当に戻ってくる保証があるものか」

「念書でも書こうか」

「そして判子はんこを忘れたから家に帰せと言うんだろう?―――そら、どこへ行く」

 ヒダル神が縁の前を塞ぐ。緋真が話してる隙に駆け出そうとしていたらしい。縁、無言で足を止める。

「油断ならんなぁ」

「浅知恵よな」

「愚かよの」

 右見ても左見ても、黒々とした群れ。冷や汗、たらり。生気が吸われ、視界が霞む。このまま眠ってしまえば最後死だと―――そう膝は震える。否―――足掻く。探せ。打開策。作れ。足掻け…まだ死ぬわけには…!!

(―――ん?)

 ふと―――昨夜撮った心霊写真をもう一度思い出した。

(何か……おかしくないか?)

 しかし緋真の疑問をよそに、ぶわり。ヒダル神が重なり、融合し、膨れ上がり……夜桜を覆うほどの巨人と化した。

「……!?」

 緋真の目が見開かれる。

「驚いたか?」

「これが人を喰い得た力よ」

「さて———そろそろ食事と行こうか」

 おおよそ常人では敵わないだろうそれはまさに怪異と呼ぶにふさわしい。

 どんなに瓦斯燈ガスとうが照らしても

「ああ……」

 人が畏怖する原初の闇は変わらず―――

 

 緋真は瞳には、一点の恐れも無かった。

「な……?!」

 ―――瞬間、ヒダル神がよろめいた。

「しゃらくせぇ」

 狛獅は蒼い顔をしながら、拳を握っていた。

「な……は?!な、なんだその威力…っ」

 そしてさらに一発、巨人と化したヒダル神の足に叩き込む。ぐらり、よろめく。それでも三発目。彼も生気を吸い取られ眩暈と吐き気が止まらない状態のはずなのだが。

「ぐぬ―――なら女を祟り殺して―――」

 ヒダル神が楓を探す。いない。いや、いつの間にか桜の枝の上に退避していた。どうやらヒダル神が緋真と狛獅に気を取られてる隙に登ったらしい。

「どうもヒダル神の皆様方。十二分に観察させていただきましたので―――」

 そうしてウエストポーチから小瓶を取り出して

「もう還って結構ですよ。ではごきげんよう」

 振りまいた。―――塩だ。ふわり、木上から撒けば、春風が粒を攫って、より広範囲に広がっていった。その粒がヒダル神に付き———悲鳴。怒号。辺りの木々を揺らす。融合していたヒダル神たちが塩に触れるたび、消滅した。

「な―――何故足掻くのだ、人間!!どうせ無駄だ!!」

「それはこっちの台詞ですねぇ」

「あ、ああ、そうだ。女給を捧げれば助けてやろう」

 ヒダル神は河辺近くの純喫茶を指す。

 知恵のことだろう。

「どうせ死ぬぞ。なあ。あそこの女を持ってきたらお前だけは―――」

「まあ!どうしてそんな酷いこと仰るの!?」

 楓は目を丸くして非難した。

「聞くに知恵さんは怪奇譚にお詳しいご様子。となれば先の大地震で紛失したオカルト話を知ってるかもしれません。それを貴方、殺すなんて。どうしてそんな酷いことが言えますの?」

 楓は今日一番良い笑顔。

「知恵さんを拷問してでも全部吐かせなくては」

「えっ……?」

 緋真は―――カメラをしっかり握ってヒダル神を見つめていた。隣で縁が常と変わらない柔らかさで問う。

あげようか?」

「いや。君の負担は無い方が良い」

「そう。じゃあ幕引きをしておいで」

 ヒダル神は吠える。

「人間どもが舐め腐りおって。矮小なる分際で「こんな怪奇譚、知ってるかい」

 唐突な問答に彼らは動きを止めた。

 そう 律儀に。

(…………)

 だから―――緋真もわざわざ口にする。

「曰く―――写真機カメラは魂を吸い取る」

「ふははは!!明治に流行ったデマではないか!!」

「本当だとしたら?」

「は…?」

「もちろん普通ただのカメラには無理だ。けれど……」

 ふうわりと 大鏡がカメラから現れ、緋真の頭上を浮遊して

「付喪神が宿ったならどうかな」

「なっ―――」

「固まったおかげでフレームに収まるね。―――大鏡!」

「良いぞ。さあ此度の連続変死事件。その犯人を当てて見ろ」

「変死事件、真犯人 正体その名はヒダル神―――」

 フィルムが巻き終わった。緋真は叫んでシャッターを切る。

「真実宣言!写し撮れ、大鏡!」

御明察ごめいさつ

 シャッターが切り終わる。その瞬間―――ヒダル神は渦潮に飲み込まれるが如くレンズに吸い込まれていく。

「あ―――」

 カメラの方に手を伸ばして。

「あぁ―――……」

 ………そして、完全に消滅した。



***



 静寂。

 はらり、はらり。夜桜が舞う。

「終わりましたぁ?」

 ひらり、楓が猫のこなしで軽やかに跳び降り、薄笑い。やはり彼女の正体はチェシャ猫なのかもしれない。

「お疲れさまでしたねぇ、美録みろくさん」

「…………うん」

 緋真は考え込む。しかしふと、縁が顔を上げた。

「いや。まだ解いてない謎がある」

 縁が振り向けば、痩せたヒダル神が二人 知恵の父親を引き摺って立っていた。

 四人は顔を合わせる。緋真が代表して一歩、歩み寄って。

「聞きたいことがある」

「………」

「どうして、自殺なんて目論んだんだい?」


 しん、と静寂が満ち満ちる。

「途中からおかしいと思ってたんだ」

「僕は最初からおかしいと思ってたよ!」

わたくしは美録さんとほぼ同じですかねぇ」

「俺は所長に囁かれてから」

「全員お口チャック。君たちはヒダル神。邪悪な悪霊。それはいい。

 じゃあなんでその邪悪な悪霊が、私をスルーして知恵さんの父親に殺到したんだ?」

 緋真は昨夜、一番最初に撮った心霊写真を取り出す。そこには父親を襲おうとするヒダル神が写っていた。

「私の方が先に河辺にいたのに、なんでカメラに向かってくる写真が撮れないんだ」

 順番として父親より先に緋真が襲われてないとおかしい。

「二つ目の違和感は私たちを囲んだくせに別段手を出してこなかったこと。

 かなり苦しい感じで生気を取られたけど……」

 それにヒダル神は苦笑い。

「苦しくさせないと本気で抵抗してくれぬからな」

「決定打は、カメラの説明をおとなしく聞いてたことだ。あれやると大体、途中で察して殺しに来るんだよ。以上で『もしかしたら私に退治されたいのかな?』と推測した」

「―――本当にさと女子おなごだなぁ…」


 ―――彼らが地中に封じられし悪霊となり、早幾年はやいくとせ

「最初は上を眺めては、妬み恨み復讐を窺ったが……」

 しかし、次第に飢えた。

 誰にも気づいてもらえない。

 誰も語り掛けてくれない。

 誰も……

「我らは孤独であった……」

『もういやだ』

『いやだ』

『ここからだして』

 ヒダル神。飢える悪霊。祟りの罰は、人のぬくもりに飢えること。

 永劫続く地獄。しかし発狂すらできなかった。

 そんな時

 ―――うわああああん、うわあああああん。

「桜の下で六歳ほどの少女が泣いておった…」

 ―――おとうさん、おはなし、きいてよお…!

「知恵だ」

「彼女もまた孤独であった……」

 彼らはせめてもの慰めに、桜の枝葉を揺らすくらいしかできなかった。

 しかし……

 ―――そこに、誰かいるの……?

 ―――桜さんは写真機キャメラって知ってるかしら。人の魂を吸い取るのよ…

「歓喜した」

「知恵は我らを勘違いした」

(ああ…そういえば)

『泣いてると、いつも私を慰めるように桜の周りでそよ風が吹いて…。ふふ。あの桜になにかがいると無邪気に信じていました……』

『ええ。うんと優しいなにか。だから噂はあり得ません。本当に魂喰いの桜なら、私とっくに死んでますもの』

 知恵はそんなこと言っていた。

「けれど知恵はいっそう虐められた」

「桜に話しかけるおかしな子供と」

「我らは枝を揺らすのを止めた」

「あの子が来なくなる」

「だが我らを救ってくれた知恵を不幸にさせるものか…!」

 そして時は流れ、知恵の父親が封印の札を剥がした。

 解き放たれたヒダル神は我先にと溢れ出した。

『知恵を虐める奴を地獄に送ってやろう』

『一人も残さん、どこに逃げても祟り殺す!!』

『あの子が笑って暮らせるために―――』

「つまり今回の死体は全部知恵さんを虐めてた人か……」

 れど緋真は哀れんだ。

 彼らは骨の髄まで悪霊だ。

 どんなに善意と慈愛を持っても、殺意に変換されてしまう。

 だから―――………

「……最初は良かった」

「純然たる知恵への献身だった」

「けれどその内……祟るのが、た、たのしく、なった…!」

 ヒダル神は頭を掻きむしる。

「今は奇跡的に保ってる理性もいつまで続くか」

「知恵の敵がいる内はいい。だが全部殺し尽くしたら?」

「我らは……果たして祟るのを止められるか?」

「そして白羽の矢が立ったのが私か」

 二人は緋真を見た。……正確にはカメラを。

「見た瞬間、怪異殺しの呪具だとわかった」

「だから脅せば我らを殺してくれると思った……」

「知恵を殺す素振りを見せれば、義憤に駆られてくれると……」

 そこまで言い切って、両手を広げる。

「復讐は果たした。お前たちの誰でもいい。僅かでも慈悲の心があるならば、どうか……」

 狛獅が一歩前に出ようとする。それを緋真は押し留めた。

「君たちはそれでいいのかい」

 脳裏で知恵が肩をすぼめていた。孤独で、誰からも愛されなくて、勉強すらさせてもらえず、未来がない彼女。

 それでも、生活たつきより桜に不吉な噂が付くことに胸を痛めた彼女。

 ………桜の思い出を―――ヒダル神を心の拠り所にしている彼女。

「君たちは邪悪な悪霊として死んでいく。知恵さんは何も知らず記憶にも残らない。本当にそれでいいのか?」

「無論!」

「望むところよ!」

 はらり、はらり。夜桜が舞う。

「我らは所詮、化物だからな!」

 涙のように舞い散っていく。

「―――君たちは一つ、大事なことを忘れている」

 緋真は花弁をそっと拭って大切に掌に包んだ。

「私は写真家なんだ」



***



 一週間後。

 緋真は知恵がいる純喫茶へと足を運んだ。店内を見渡せば、今日も閑古鳥が鳴いてるらしい。彼女は緋真を見つけるや否や、パアッと顔を輝かせ、メニュー表を持ってくる。

「いらっしゃいませ!」

 席に案内されるなり、緋真は指を二本立てた。

「ミルクティー二つ」

「二つ?」

「君の分」

 知恵は目を丸くしてたが……ガラガラの店内を見て苦笑し、ミルクティーを二つ持ってきて緋真の真向かいに座った。

「では……他のお客様が来るまで」

 緋真はミルクティーに口を付ける。とても美味しい。

「そういえば、連続変死事件って結局寄生虫のせいなんだって?」

「ああ、はい!」

 知恵はパアッと顔を輝かせて、新聞を引っ張り出してきた。『八雲財閥所属博物学者が水質調査をしたところ、外来種の寄生虫を発見。財閥は殺虫剤散布を決定。三ヵ月徹底洗浄すれば元の川に戻るだろう』―――と締められている。

「本当に良かったです…。魂喰いの桜なんて悪い噂も消えそうで……」

 ちなみにその記事の記者は『香深楓』と記されてあった。

「良かったね」

「本当に。……良いことばかりではありませんが」

 あれから。緋真たちは『カメラを盗まれそうになった』という名目で知恵の父親を警察に突き出した。今頃留置場で冷や飯を食べてることだろう。

「私、一人になっちゃいました……」

 しゅん、と彼女は肩を落とす。将来への不安。父ですらいなくなった孤独。彼女の顔色はいよいよ陰鬱を帯びる。

 しかし緋真は懐から写真を取り出した。

「一人じゃない」

 知恵はきょとんとしながら写真を受け取る。

「実は私は心霊写真を撮る能力ちからがあってね」

「はあ…?」

「君は間違ってない。本当にあの桜には『優しいなにか』がいた」

「まさか…そんな」

「六歳の君は桜柄の着物がお気に入りだったんだって?」

「―――!」

 知恵は目を見開いた。

 手にした写真には、朝日に包まれた桜と満たされたように微笑むヒダル神が写っていた。

 春風よりも優しい優しい眼差しで。

「彼らは事情があって遠いところに旅立った。でも、心はいつでも君に寄り添ってる、君の幸せを願ってると言っていた」

 ―――君を、愛していると。

 知恵は写真を食い入るように見つめ……ぎゅうっと抱きしめた。

 ぽろり、ぽろり。大粒の涙が溢れてく。

 奇しくもそれは、桜の花びらによく似ていた。



 ―――三日後。彼女は緋真の紹介で八雲本家の書生となった。到着初日に知恵専用の書庫を贈られ、衣食住ともに満たされ、毎日ミルクティーを飲んでいるらしい。……満たされすぎないといいのだが。あの血族は気軽に洪水並の愛情を捻じ込んでくる。というか初日で書庫プレゼントの時点で感情がちょっと重たかないか?、と緋真は心配だ。ちょっと。ちょっとかな?ちょっとちょっと。きっとちょっと。

 一方。父親はどんなに満腹になっても飢える飢えるともがき苦しむに罹ったそうだ。そしてそれは続く。この先何十年も。彼は正気を擦り減らし、遠からず精神病院に担ぎ込まれるだろう。

 春風に消えた愛情の爪痕だ。甘んじて受けてもらおうじゃないか。

「―――桜花さくらばな 咲きかも散ると見るまでに 誰かもここに 見えて散り行く……」

『別れの歌か。感傷的じゃの』

 風番街の河辺にて。緋真は丸太のように太い桜古木の枝の上に腰かけ、写真を撮っていた。今日の仕事は代行花見である。どうやら依頼人は腰を痛めて花見ができなくなったらしく『いやあすいませんね。どうしても桜の写真が欲しいんだけど、その、ウチの犬がね。そう。じゃれかかってきて……フェレス!!開けちゃだめ!ああーっ!』…と実に賑やかな依頼電話をくれた。犬好きな緋真には羨ましい話である。

 カメラの中で大鏡はくすくす笑った。

『ヒダル神の写真なぞ贈って良かったのか?怪奇オカルト好事家マニアにバレたら面倒どころの騒ぎではないぞ』

「んー……」

 その時、ふうわりと風が吹いた。

 まるで優しいなにかが緋真を包み込んでくれたような―――……

(……ふ)

 桜咲く。大正浪漫に春満ちる。

「いいに決まってるさ」

 緋真は桜にカメラを向けた。

「私は写真家だからね」


 ―――彼女の名前は美録みろく緋真ひさな

 職業、写真家。

 十八歳。身長百五十八センチ。

 現在、付喪神・大鏡に憑りつかれ中。


 特技―――心霊写真撮影。

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