第2話

 滞りなく進んでいく毎日。それ自体が存在するだけで貴いという意識がの中にはある。そして、それ自体がすぐさま失われてしまうということも、たかだか十数年の人生ではあるが、骨身に染みて実感していた。

 一方、毎日の価値を重々承知しつつも(あるいは非日常といった方が幾分かわかりがいいかもしれない)に対する焦がれというものが、確実に弘の心にあった。これ自体、あるいは普通のことであるのかもしれない。表向きにはは世界平和を望みつつも、日夜対岸で行われる戦争の趨勢に心を躍らせている機序がどこかしら人間にはあるものと、弘自身は認識している。退屈を破ってくれるなにか、を弘は常に望んでいた。


 こうしたとるに足らない考えに、放課後の教室内でふけっていると、

「矢吹」

 どことなく嫌々といった風に名前を呼ぶ声が耳に飛びこんでくる。振り向けば、眼鏡をかけたボブカットの少女が睨みつけてくる。

「どした、桃山ももやま

「日直」

 尋ねて返ってきた一言に首を捻ってすぐ、眼鏡の少女こと桃山は教室前方の黒板を指し示す。たしかに出入口寄りの下側にある白い日直という文字の片側には、矢吹弘と記されている。

「そういえば、あったなそんなの」

「そんなのじゃないの!」

 仁王立ちで怒りを露にする同級生の少女。その際、動いた勢いでスカートが揺らめくのを、弘はほんの少しだけはしたないと思ったものの、口には出さずに、ただただ大きな声を防ぐべく耳を塞いだ。

「今日の仕事、全部ウチがやったんだからね」

「そりゃご苦労様。偉い偉い」

「半分はあんたの仕事なの! なんで、いちいち他人事なわけ!」

 犬みたいにキャンキャンと吠える桃山に、元気がいいなぁ、といつも通りの感想を抱きつつも、仕事って言ってもほとんど終わったんだろ、と尋ね返す。すると、少女は眼鏡をほんの少しあげてから、バンと学級日誌を机の上に置いた。

「それ、書いて」

「ええぇ」

 小学生かよ。そんな感想を持ったものの、一日分の仕事をしていない手前、弘としてはただただ断りづらく、パラパラと日誌を捲り、本日のページにたどり着く。もっとも、上の方にある日にちや時間割や授業内容といった欄はほぼほぼ桃山が埋めてくれたらしく、弘が書くべきところは、今日の出来事のところくらいだった(出来事欄の右横に設けられた本日の出席状況の欄は、こちらも桃山が埋めてくれていた)。

「今日って何があったっけ?」

「自分で考えなって」

「いやぁ、休み時間以外寝てたからさ」

「逆でしょ、普通」

 眼鏡をかけた少女の甲高い声は、弘の耳にはほんの少しばかり刺さるように感じられた。とはいえ、弘個人としては、元気があるのは嫌いではないが。そんな感慨とともに眠気の中でほの見えた授業中の記憶などをまとめそれらしい話を書き込んでいく。

「なあ、桃山」

「ウチは書かないからね」

 反射で答える桃山はそれでいて、一向に帰ろうとはしない。監視のつもりか、あるいは面倒見の良さゆえか。中高を通した短いとも長いとも言い難い付き合いを通して、おそらく両方だろうと判断した弘は、ささっと済ませてもいいかな、と考える。

「なんか、面白いこととかなかったのか」

 一方で止められない好奇心というものも存在するらしく、ついつい余計な口を出してしまう。

「日誌に面白い面白くないなんて関係ないでしょ」

「いや、今日だけじゃなくて、最近、なんかおもろいことがなかったかっていう世間話」

「わざわざ、あんたと世間話をするために居残ってるわけじゃないんだけど」

 薄っすらと青筋が浮かびそうな形相をする眼鏡の少女。弘は、また怒らせてしまったなと思ったものの、放課後の高揚感からかついつい口は軽やかに開いたり閉じたりする。

「いいだろ別に。もうすぐ終わりそうなんだから、世間話に付き合ってくれても」

「あんたがちゃんと仕事をこなしてくれてたら、ウチもそんな気分になったかもね」

 桃山の声ににじむ怒りの気配を察しつつも、いいじゃん級長なんだしクラスメートのして欲しいことに付き合うのも仕事なんじゃないのか、と食い下がる。弘本人も少々、強引ではないかという自覚はあった台詞だったが、案の定、くどいと返されたので、諦めた。

 それから少しの間、近くからのシャープペンシルが紙の上を細かく叩いたり滑ったりする音と、教室外の生徒や道路からの喧噪ばかりが聞こえるようになった。弘は、ほんの少しでも面白くならないか、と日誌の文章を捻ったが、結局、下手に受けを狙うのも冷めそうだという結論に落着き、ごくごく当たり障りのないことでお茶を濁した。

「終わった?」

「ああ。待たせて悪かったな」

 そう言ってから弘が日誌を閉じて抱えると、桃山が意外そうな顔をした。

「なんだよ。鳩豆みたいな顔して」

「略すな。いや、てっきりウチに任せるんだと思ったから」

「そこまで筋金が入っためんどくさがりじゃないんだよ」

 サボってたのは、面白くなさそうだったからだ。そう内省する弘のことを桃山は訝しげな目を向けたが、そっ、と吐き捨てるように言ってから、素っ気なく踵を返す。弘もまた、少し後ろに付き従った。


「やあ、矢吹君。元気にしてたかい」

 職員室を出ると、整った顔立ちの少女がどことなくわざとらしい笑みを浮かべて立っていた。

「近衛さぁ。いきなり、出てくんなよ」

「いいじゃないか。君と私の仲なんだし」

「まだ、お前と知り合って一年くらいしか経ってないんだが」

「一年もあれば充分だ。もちろん、もっともっと仲を深めていくつもりではあるのだがね」

 言ってから肩の辺りまで伸びた髪を搔きあげる。いかにもといった癖だったが、美人であるせいか妙に様になると、弘はいささか悔しさに近い感情を抱いた。

「あのさ」

 後ろからの低い声に振り向くと、どことなくうんざりとした様子をした桃山がいる。そういえばいたな、などとついさっきまで一緒にいたにもかかわらず、いささかどころではない失礼な述懐を抱く。

「矢吹、邪魔。退いてくれないと出られないんだけど」

「すまん」

 そそくさと横にずれてすぐ、眼鏡をかけた少女は職員室の外に出る。途端に近衛がニヤニヤし出す。

「やあやあ、桃山君。今日は機嫌が良さそうだね」

「そう見えるんだったら、あんたの目は節穴なんじゃない」

 振り向いた桃山の眉には、こころなしか皺が寄っている。一方の黒い長髪の少女は、より興味深そうにしていた。

「そうかな。私には、なんだかいいことがあったように見えるんだけど」

「気のせいだよ」

「試しに当ててみようか。う~ん、そうだな。私と同じ理屈でいいというなら、矢吹君の時間をもらえたという辺りになるんだけど、当たりかな?」

 眼鏡をかけた少女は一瞬、無表情になったあと、なぜか近衛から目線をずらして弘の方を見やる。

「あんた、この女のどこがいいわけ」

「どこって言われてもな」

 あんまり考えたことがないな、と思いつつも、弘は頭を緩やかに回転させ、

「割と面白そうだから、かな」

 ポロっと漏らすように答えた。答えてから、たぶんそれで正解だと、時間差で確信を深める。比較的退屈寄りじゃないというだけで、弘の中では価値があった。

「面白そうって、ただ単に変わってるってだけじゃないの」

「おいおい。本人の前で随分とずけずけ言ってくれるじゃないか。自覚はあるけど、改めて言われると傷つ……かないな、うん。どっちかといえば、誉め言葉かもしれない。ありがとう、桃山君」

「ほら。やっぱり、変なだけだってば」

 困惑する桃山と、それをどこか楽しむように見つめる近衛の二人。残りの一人を置いてわちゃわちゃしだす姿に、弘はほんの少し羨望と、退屈そうでなくていいな、という気持ちを持った。


 結局、二人は職員室から教師が出てくるまで、どうでもいいやりとりをかわし続けた。ついでに、弘も怒られた。ただ一緒にいただけなのに理不尽と感じつつも、どことなく悪くない気がした。

 それよりも印象に残っているのは別れ際の、

岩成いわなりといた時のあんたってこんなやつじゃなかったよね。近衛さんとつるみ出してからなんか変」

 桃山のひそひそ話と、

「ああいう平凡な女はつまらなくて嫌になるね。そうだろ、矢吹君」

 帰り道の途中で虫も殺さないような顔で、はっきりと口にしてみせた近衛の感想だった。

 もっとも、弘も負けずに、桃山って割と面白いって、と反論して、長い黒髪の少女に不満げに口を尖らせられたが。

 




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