第1章 鬼と桜

鬼と桜1

 すべての命が芽吹く春。


 山では色とりどりの花が咲き誇り、濃淡のある緑が我先われさきにと枝を伸ばし視界をいろどる。

 さわさわと、やわらかな下草したくさの生える山道をゆっくりとした歩みで娘がひとり登っていた。


 娘の名はかすみ。村の薬師くすしである。


 村人のためにできるだけ多くの薬草を摘みたいかすみは、小袖こそですそも歩きやすいように短めにし、脚絆きゃはん手甲てっこう姿で山歩きの準備に余念がない。

 長い黒髪も邪魔にならないように背で編まれていたが、その髪もずいぶんと歩き回ったため少しほつれ頬に触れる。

 彼女は、薬草摘みでみどりに染まった指も気にせずに髪を耳にかけた。

 現れた横顔は汗と泥にまみれてもなお、天女てんにょ見紛みまごうほどの美しい娘であった。

 絹のようになめらかな肌、長いまつげに縁取られた大きな瞳。形の良い桜色の唇はつややかに輝いている。

 けれど、幻のように消えてなくなるはかい印象は微塵みじんもない。

 薄紅うすくれないに染まる頬と真っすぐに前を見つめる強い眼差しが、生気せいきのみなぎる人間であることを教えてくれるからだ。

 慣れない山道に疲れが見てとれるが、額を流れる汗も花の香りのする風に吹かれると気持ちのいいものに感じ、かすみは微笑んだ。

 足元を見れば、春を心待ちにしていたとばかりに野の花が咲き誇っている。

 白い小さな花を咲かせるナズナや紫の花をつけるスミレ。

 手毬を小さくしたようなレンゲに、紅紫あかむらさきの五弁を持つゲンノショウコ。


 かすみはそれらを少しずつ摘み歩いた。

 なんの変哲もない雑草のようだが、それらはすべて薬草になる。

 少しずつというのには理由があった。根こそぎ摘んでしまうと来年に咲かない可能性があることと、もうひとつ重要なことがあった。

 大きく山の草木を変化させると、山に住む鬼に気付かれてしまうからだ。


 うわさでは鬼は人を食らうという。

 体は人間よりもはるかに大きく、頭には牛のような二本の角。

 夜目が効く目は雲母うんものようにギラギラと光り、力は熊ほどもあると聞く。


 恐ろしい異形いぎょうの姿。



 しかし、日ごろ薬師としてやまい怪我けがと戦っているかすみにとって実際に見たこともない『鬼』は、それらと比べると正直なところさほど恐ろしいものとは思えなかった。

 熊に出くわす可能性の方がよほどあり、危険な気がしていたからだ。

「おじいさまはこの山で鬼を見たことがあると言っていたのだから、気をつけないと……」


 油断してはいけないとかすみは気を引き締め、背負子しょいこかつぎぎなおした。


 

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