第10話 NITTYOKU!

 その日、五鈴まふゆは日直だった。


 日直当番は席が隣同士の生徒が二人一組で行うことになっている。


 つまり、囲井操真も日直だった。


(うわああああ)


 表情にこそ出ないが、まふゆの頭の中は完全にお祭り騒ぎだ。


(操真くんと日直。操真くんとわたしが二人で。日直!)


 日直の仕事は、そう難しいものではない。


①授業の開始と終了時、声を合わせて号令をかける。


 まふゆは、少しでも操真の役に立ちたくて、か細い声を一生懸命に張り上げた。


 操真はといえば本当に声を出しているのかどうかも疑わしい声量だ。


 結果として、クラスのほとんどは二人の号令を聞き取れず、苦笑いしていた。


②授業ごとに黒板をきれいにする。


 まふゆは空も飛びそうな気合の入りようだが、飛び跳ねても黒板の上の字は消せない。


 一方、操真は右手だけでゆうゆうと板書を消している。


 自分がいないほうがはかどるとまふゆが気づいたのは、四時間目の終わりだった。


③一日の終わりに学級日誌をつける。


 ②で自分の役立たずぶりを自覚し、まふゆは完全に魂が抜けてしまっていた。


 もともと小さい体から空気が抜けて、その姿はますます人形に近づいている。


 操真は相変わらず一言もしゃべらなかったが、そんな様子を見てはいた。


 隣で開きかけていた日誌を閉じ、まふゆの机にぽんと置く。


 まふゆが手元に来たそれをきょとんと見ると、ぼそぼそと呟いた。


「おれ、字が、下手だから……代わりに書いて……」


 ところどころかすれがちな声が、鼓膜に届いた瞬間、まふゆの顔から火が出た。


 しゃべった。すごい。操真くん、かっこいい。


「……はっ……はい!」


 目をぎゅっと閉じて力いっぱい答えながら、まふゆは自分で自分を叱っていた。


(何が『はい』なの……早くお礼を言わないといけないのに……)


 日直当番が回ってきたのは、やっと巡ってきたチャンスなのだ。普段はままならな

い会話も当番を通せばそれなりに成立する。現に操真は話しかけてきてくれた。


(わたしがダメな子だから、操真くんは気をつかってくれたんだ……)


 せめて日誌はきれいに書こうと、まふゆは新しいページを開く。


 放課後の教室に、操真とまふゆは二人きりだった。


 開いた窓から、吹奏楽部が練習している音が聞こえてくる。


 茜は今ごろ塾に向かっているだろうか。


 茜とは最近、あまり話せていない。クラスの女子に囲まれていることが多いから

だ。


 いつもなら寂しく感じるところだが、今日に限っては助かった。


 まふゆは操真のことを考えるだけで精一杯だったから。


 日誌は、日直が二人で職員室に届けに行くことになっていた。担任の男鹿先生は厳

しくて、そうしないと判子を押してくれないのだ。


 それで操真も無言のまま、まふゆが日誌を書き終わるのを待っている。だけどまふ

ゆは、もう少しだけ、この二人きりの時が続いてほしいと思わずにはいられなかった。


 横を向くと操真がいる。そんなの隣の席なんだから当たり前のことなのに、なんだか特別な気がして、心がふわふわしてしまう。


 今日まで何度も想像した。まふゆが『助けてくれてありがとうございます』と茜のように素直で明るい声でお礼を言って、操真が『どういたしまして』と返してくれるのだ。


(でも……操真くんは『どういたしまして』って、言うのかな)


 言わないかもしれない。『うん』とうなずくのかもしれない。


 まだまふゆは何も言えていないから、本当はどうなのかわからない。


 実は、どっちでもよかった。


 操真はただ、まふゆの感謝の言葉を受け取ってくれるだけでいいのだ。


 操真がヒキガエルを持ちあげてくれたあの瞬間、まふゆの心は電気が通ったようにビリビリと痺れたから。


(あの時の操真くん、本当に王子様みたいにかっこよかった)


 助けてもらえたことが、すごくすごく嬉しかったのだと、どうしても伝えたい。


 でも、その気持ちが伝わらなかったら、きっと、同じくらいつらい。


 それに『あんなカエルも自分でどかせないのか』とか『隣の席だから仕方なくやったけどとても嫌だった』とか言われたら、まふゆはもう絶対に立ち直れない。


 想像するだけで涙が出そうになる。そんな自分の身勝手さが、まふゆは嫌だった。


 助けてくれた人に感謝の言葉を伝えるなんて当たり前のことなのに、相手に期待通りのふるまいまで求めるなんて、本当にどうかしている。


(茜ちゃんにだったら、なんにも怖がらずにお礼を言えるのに)


 王子様みたいな操真に、まふゆは軽蔑されたくなかった。


 自分が、怖がりで引っ込み思案で鈍くさい人間だということはよくわかっている。周囲もそれをわかっているから、諦め半分で接してくれるのだと、まふゆは思う。


 それでも操真にだけは、よくできた素敵な女の子だと思われたい。


 むしろそう思うせいで、お礼の一つも言えないとはまったく矛盾した話だった。

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