第8話 ヒキガエル事件

 まふゆの机の上にヒキガエルを置いた犯人、嵐山は嬉しそうな声を上げた。


「見ろよ、まふゆ。でっかいだろー!」


 制服の前を泥で汚しながら、えらそうに腕組みしている。


 まふゆは、カエルのぶつぶつ盛り上がった皮膚を見るだけで鳥肌が立った。


 だが、多くの男子たちにとっては、そこがたまらなく魅力らしい。


「すっげー。どっから取ってきたんだ?」


 感嘆の声を上げる仲間に、嵐山は鼻高々に説明した。


「うちの庭を掘ったら出てきたから連れてきたんだ」


「さすがだぜ。並の男は、まず自分ちの庭を掘ろうと思わないよな」


「それでこんな大物を見つけるなんてすごい!」


「動かないね。もしかして死んでる?」


「いやいや、冬眠してんだよ」


 学校まで抱えて持ってきた嵐山は、ヒキガエルなど怖くもなんともないらしい。


 ぬかるみのような色をした背中をぺんっと素手でひっぱたく。


 ヒキガエルは足先をぴくつかせただけで、まふゆの席からどこうとしなかった。


「な?」


 嵐山は顔がかっこいい。キザに片目をつぶるだけで周囲は盛り上がってしまう。


 そう、ヒキガエルの置かれた、まふゆの席を中心として。


 気の毒なまふゆは、やっと教室に着いたのに、荷物を下ろすこともできない。


「ん、どうしたぁ? まふゆ」


 小さな体を震わせる彼女の顔を、嵐山は今年一番の笑顔で覗き込んだ。


「びっくりして声も出ないのか? どうだ。オレはすごいだろ?」


 朝から暗い気分だったまふゆは、こんな意地悪をされて、もっと落ち込んだ。


 なんでこんな目に合わなければならないのだろう。嵐山は、まふゆを席に座れなく

してそんなに楽しいのだろうか。ヒキガエルだって冬眠を邪魔されて迷惑なはずだ。


 唇を噛んでうつむいたまふゆの顔を、嵐山はいかにも優しげに覗きこんだ。


「一言、どかしてくださいってお願いしてくれたら、いいよってオレ言うんだけどな

ぁ」


 まふゆは膝が震えた。


「そうだなぁ……。『どかしてください、お願いします、嵐山くん、だーいすき』っ

て。言ってみろよ。な?」


 下手な声真似まで使って、いったいなんのつもりなのか、まふゆは意味がわからな

い。


 教室にいる女子たちは騒ぎだしていた。


「ヤバすぎる」「先生を呼んだ方がいい」そんな声が上がったが、男子たちは「困っ

たら即チクるとか、さすが女子」と、手を叩いて笑っている。


「カエルなんか怖いのか」、「嵐山くんやめなよ」、「なにもできないくせに」な

ど、他にも様々な声が教室中に渦を巻いている。状況は、膠着していた。


 まふゆは自分で自分の肘を抱くようにして、巨大なヒキガエルと向かい合う。


 嵐山の言いなりになるくらいなら、自分でどかせばいい。


 まふゆはごくりと唾を飲んだ。


 嵐山が力いっぱい叩いても動かなかったのだ。噛みついてきたりはしないはずだ。


 非力なまふゆでも、抱えるくらいのことは、できる。きっと。だが、無理だ。怖

い。


 おずおずと両手を前に出すのに、そのたび腕が勝手に引っ込んでしまう。


 不格好な前ならえのポーズを繰り返すまふゆを、嵐山はうっとりと眺めている。


(あ、茜ちゃん、助けて……!)


 無意識に、ここにいない茜に助けを求めようとして、まふゆはかぶりを振った。


(違う。自分にできないからって茜ちゃんにお願いしようとするなんて、よくない)


 だが、体はこわばってしまい、もう一歩も動けない。


 もう恥を忍んで嵐山の要求に屈するしかないのか。


 まふゆが諦めかけたその時、ガラッと教室の引き戸が開いた。


 囲井だった。


 彼の席はまふゆの隣だ。囲井が現れたとたん、海を割るように人だかりが脇に寄っ

た。


「な、なんだよっ」


 まふゆと共に机のそばに取り残された嵐山は明らかにうろたえていた。


 対する囲井は、いつものように相手にもしない。


 ただ、泣き出しそうなまふゆを見て、その怖い顔を確かに一瞬くもらせた。


 その場で何が起きているのか、見てすぐにわかったのだろう。


 教室は静まり返り、囲井がかすかにため息をつく音さえ、大きく聞こえた。ポケットの中の左手が何かを握るしぐさが見えた。囲井は右手をヒキガエルに伸ばした。


 手が大きい。ラグビーボールでも取るような手つきで静かにすくいあげた。


 嵐山が口の中で「おい、勝手に」とぼやいたが、それにも答えない。


 そのまま大股で教室を出て行ってしまう。


 まふゆは急に膝の力が抜けてしまった。その場にへたりこんでしまう。


 脇にどいていた女子は、わっと話しかけてきた。


「まふゆちゃん、だいじょうぶ?」


「ウェットティッシュ! ウェットティッシュあるから、まずは机を拭こう!」


「嵐山、あんたサイテーだよ。マジで笑えないから」


 今まで話したこともない女子たちが、一気にまふゆを助けに来てくれる。


 ヒキガエルがいなくなったとたんに。


 当然だ。逆の立場だったらまふゆだってその場では尻込みしただろう。


 だがあの時、囲井だけは、そうはしなかった。


 彼はまふゆを助けてくれたのだ。


(床に座ってる場合じゃない。早く、囲井くんを、追いかけないと)


 頭ではわかっているのに、本当に人形になってしまったみたいに体が動かない。


(すみませんって。助けてくれてありがとうって、言わなきゃ……)


 だが、全身が熱を帯びたようにほてっているのは、どういうわけだろう。


 耳の奥で打ち上げ花火でもしているような動悸が鳴り、めまいまでする。


 女子の一人、奈々子が悲鳴を上げる。


「まふゆちゃん、どうしたの! 顔が真っ赤だよ」


「あ……あう……」


 ろれつも回らない。元が色白なので赤くなると本当にゆでたように赤くなってしまう。


 まふゆは恥ずかしくて思わず両手で顔を隠すようにおおった。


(か、囲井くんって……囲井くんって……)


 同じしぐさのはずなのに、お人形の気持ちには少しもなれない。


(王子様みたいで、かっこいい……!)


 まふゆは息も絶え絶えに、床にうずくまってしまった。


 一方、右手にヒキガエルを抱えた囲井は、ずしん、ずしんと廊下を歩いている。


 下駄箱の前に着くと再びため息をつき、ポケットから左手を出す。


 右手がふさがっていて、靴をはきかえられなかったからだ。


 上履きを下駄箱に押し込むと、何かを握りしめた痕がくっきりと残る左手を、もう

一度ポケットに戻す。昇降口を出たところで、用務員さんと行き会った。


 用務員さんは、囲井が大きなヒキガエルなんて抱えているから、なにごとかと思

う。


 なにかと生徒を気にかけてくれる優しい用務員さんだった。


「どうしたの」と親切に話しかけてくれて、囲井は問われるまま何回かうなずいた。


 ちょうど持っていたバケツにヒキガエルを引き取ってくれることになる。


「そこ、なんかゴミでも持ってるかい?」


「え……」


「左手。良かったら捨てとくけど」


 力を入れすぎて伸びきっているカーディガンのポケットを指さされていた。


 囲井は思わず、肩をびくつかせる。


 鋭く息を吸うような間をおいて「違う」と、力いっぱい首を振った。

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