第20話 十年という月日

 店内の掃除を済ませ、店の前を軽くほうきで掃き、日曜はランプを磨く。

 ドアの札を営業中にひっくり返して店を開けるのは、爺さまがいたときと同じ、朝の八時。


 爺さまは四年前に亡くなってしまった。僕が困ることのないよう、様々な手続きの準備をしてくれていた。

 父と二人、それを引き続き、今に至る。

 わだかまりを吐き出すように、時に言い争いをしながらも、父とはたくさんの話しをした。

 最近はようやく父との関係も安定してきて、時折、仕事の合間に訪ねてくれるようにもなった。


 カラコロとカウベルを鳴らして入ってくるのは、同じように店の準備を終えた和馬と准だ。

 和馬と准、慧一は三人とも数年前に結婚した。和馬は冬子と、慧一は葵と、准は笑子と別れたあとに知り合った志村薫しむらかおるさんと。僕たちの関係は昔のままだ。ただ、結菜だけがいない。

 和馬と准は、あさってからの商店街の慰安旅行について話していた。


「それより悠斗は本当に来ないのか?」

「うん……どうしても調べたいことがあるから……今回は残るよ」

「それならこっちでも手を回して調べてるって言ったろ。もう少しかかりそうだけど、必ずわかるってうちの奥さんは言ってたぞ」

「准、ありがとう。でも、少しでも早く知りたいんだよ」


 あれからいつの間にか、十年が過ぎていた。結菜の転院先は、どうやら東京だとわかり、一度はどうにか探し当てた。

 行ってみると、それより一年も前に、また転院をしてしまっていて、それからは手がかりもつかめていない。

 准の奥さんが看護師をしていて、伝手を頼って探してくれているけれど、それもなかなか難しいようだ。


 コーヒーを点てていると、耳鳴りがした。

 こうなるときには必ずと言っていいほど、が店にやってくる。

 昨夜のうちに用意しておいた水出しコーヒーをグラスに注ぎ、店内に視線を走らせた。


(誰もいない……か)


 カウンターの一番端の席にも、今日はまだ結菜はいない。ただ、和馬と准の話す声だけが聞こえている。

 不意に背後に気配を感じ、そっと後ろを見ると、爺さまがサイフォンでコーヒーをたてていて驚いた。

 そのせいで手が滑り、ガシャンと大きな音を立てて床でグラスが弾けた。

 亡くなっている人が現れたのは、これが初めてだ。


「おい、どうした? 大丈夫か?」


 和馬が心配そうにカウンターを覗き込んでくる。


「うん、大丈夫。ちょっと手が滑ってさ」

「……そっか? まぁ、他の客ならともかく、俺たちなんだからのんびりやってくれて構わないぜ?」

「わかってるよ」


 苦笑いで和馬に返し、もう一度、新しいグラスにコーヒーを注いで出した。

 二人がまだ旅行の話しに夢中になっている内に、割れたグラスを片付け、濡れた床を拭いた。

 あさっては、商店街に残るのは僕と冬子とその子どもたちだけだという。

 ひとしきり話しをしたあと、二人は仕事に戻っていった。

 それを見送って、カウンターを振り返ると、今日も結菜が来てくれていた。


 けれど――。


「結菜、早く戻るんだ。今すぐ戻って」

「なんで……」


 姿が薄れていることに、結菜も気づいたようだ。


「悠斗、もう長く会いに来てくれないよね。私は会いたくてここへ来てしまっているけど、本当は会いたくなかった?」


 と聞かれた。


「そんなわけないでしょ……来てくれて本当に嬉しいと思っていたよ。だからこんなに長い間、来るのを拒むことができなかったんだから」


 どうして会いに来てくれないのかと問われ、僕は言葉に詰まった。

 結菜の両手を握り、結菜が転院してしまって居場所がわからないことを伝えると、驚いた顔のまま、フッと姿を消した。


 どうやら戻ってくれたことにホッとする。十年は長かった。やがて薄れてしまうことがわかっていたのに、どうしても会いたくて……。

 翌日も結菜は透けた姿のままやってきた。


「どうしてまた来たの! 昨日より透けているじゃないか……早く戻って! お願いだから!」

「どうしても悠斗に会いたいんだもの。一緒にいたい。ただ見ているだけで、それだけで……」

「だからって……もしも結菜になにかあったら、僕はどうしたらいいの? たとえ会うことができなくても、僕は結菜が生きていてくれれば、それでいいのに!」


 涙があふれて止まらない。結菜の両手が僕の頬を包む。


「ねえ悠斗、まだちょっとでも私を思ってくれるなら……私にチャンスをくれるなら……最後に私のお願い、聞いてくれる?」

「最後だなんて言わないでくれよ……お願いなんていくらでも聞くから……」


 結菜の手を取って思いきり抱き締めた。以前のような温かさはどこにもない。

 結菜の手が僕の背中に回り、明日会いに来て、という。

 居場所は探しきれていない。明日なんて無理だ。そう伝えようとしても、結菜は必ず来てという。朝一番の電車じゃなきゃ駄目だという。


「……私は」


 結菜が何かを言いかけたとき、携帯のベルか鳴った。


「東京と――の境の――附属病院にいるから。待っているから。約束だからね」


 いつの間にかあの子も来ていた。結菜が「今までありがとう」と言うと、あの子もそれに答えていた。

 僕の頭を優しくなでたあと、フッと結菜の姿が消える。


「結菜! 待って!」


 携帯の音にかき消され、肝心の病院の名前を聞き取れなかった!

 東京とどこの境だというのか。附属病院は一体、何件あるというのか。こんなときに、なんで携帯が!

 僕はその場に崩れ、ただ嗚咽した。

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