episode.35 恋する製錬技師
「ここのFは16進数で設定されているから、こっちの数値にも16進数を適用して計算すると正しい数値が出るわよ。」
ミシェルはパネルと仕様書の該当部分を交互に指さしながらエリンに説明する。
「なるほど。ということは、ここは……”21B“でいいってこと?」
「そうね。それで合ってるはずよ。」
エリンとミシェルは互いに計算してみてはそれぞれの答えが一致していることを確認した。
「これでよしっと。」
最後の数値をポチポチ打ち込んでは、ようやくすべての入力欄が埋まる。
それを確認すると同時にエリンは深い深い溜め息をついては倒れるように座り込んだ。
「まだ気を抜くには早いわよ。ここまではあくまで個々の数値をそれぞれの理想式に当てはめただけ。ここから更に全体のバランスを考えて数値を微調整しないといけないわ。一息つけるのはそれからよ。」
「分かってるわよ!少しくらい休ませてくれてもいいじゃない!」
ここまでずっと頭を使い続けて来て流石に集中力が切れてしまった。それに、何だかどっと疲れが全身を襲って体が鉛のように重くなった。
「それは結構だけど、今4時よ。ウェイ達は恐らく8時には来るだろうから、もうそんなに時間はないわよ。」
ミシェルはエリンの疲労を理解しつつも、現状を淡々と告げた。
それは良くも悪くもエリンの為になると思っての発言だった。
「そっか。そうよね。」
エリンは真剣な顔つきでおもむろに立ち上がった。
「私、約束したんだから。」
誰に言うでもなくそう呟くと、エリンは再びパネルへと視線を落とした。
目につく数値を見つけては、その違和感の原因を探る。
「ここの数値、このままだと38番の数値に埋もれちゃうんだわ……。そしたらこっちの数値を少し下げて……ああでも、そしたら今度はこっちのバランスが悪くなるのね。えっと、えっと……。」
一人ブツブツ言い始めるエリン。
その顔の真剣さといったら目を見張らずにはいられない。
「貴女、本当にウェイのことが大好きなのね。」
「…………はあ⁉」
ミシェルの唐突な発言に、それまで頭をフル回転させていたエリンの表情が崩れた。
最早何が何だか分からなくなるほど顔も耳も熱い。とにかく熱い。
しかし、発言した当の本人は口元に手を当ててクスクスといじらしく笑っている。
「もう!何なのよ!」
ムキになるエリンに、ミシェルは余計に口角を緩ませた。
「ごめんなさい。悪気はないの。」
「まったくもう!馬鹿にして……。」
「馬鹿になんてしてないわ。」
「馬鹿にしてないって、じゃあ何だっていうのよ!」
エリンは恥ずかしさと怒りが混じった感情に振り回されながら、ミシェルの思惑に嵌っているようで不快に感じた。
「素敵ってことよ。」
しかし、その一言でエリンの心の中にあったそれらの感情が、ぐちゃぐちゃに混ざっては不思議と綺麗に抜けていった。
「ホラ、手を動かして。」
ミシェルに釣られてエリンも再び手を動かす。
先程注目した箇所の数値を少し下げてみる。
「今の貴女は、製錬技師にとって一番大切なものを持ってる。」
「一番大切なもの?」
手は止めず、視線もパネルに落としたままエリンはミシェルに聞き返した。
「初めて会った時のこと覚えてる?」
「初めてって……ルイスと勝負した時のこと?」
首を傾げながら答えるエリンに、ミシェルは首を縦に振った。
「そう。あの時の貴女のルーンにはその大切なものが入ってなかった。」
「大切なもの……。」
「その答えを貴女は既に持っているはずよ。」
ミシェルに促され、エリンはあの時のことを思い出す。
あの時、私はルイスに負けた。
負けた理由は明白だった。
あの子のルーンはお母様への贈り物だったけど、私のはただのルーンだった。
あの時の私になくて、今の私にあるもの――。
「誰かのことを想うこと。」
エリンがそう呟くのに、ミシェルは大きく強く頷いた。
「私達製錬技師は技術を持っている。けど、それは独りよがりでは何の役にもたたないわ。商売における需要と供給のように、製錬技師と使用者は二つで一つでなければならない。」
「でも、私は今使用者のことっていうよりは……だいぶ邪な理由だけど、いいのかしら……。」
「もちろんよ。」
そこでミシェルは手を止めてエリンと目を合わせた。
「恋は他のどんな要素よりも想う気持ちが強いと私は考えるわ。たとえ使用者という直接的な対象ではなかったとしても、そのルーンに込める想いが強ければ強いほど、そのルーンは丁寧に作られ、結果より強い効果を発揮する。」
「貴女って意外とロマンチストだったりする?」
「悪い?」
「別に悪くはないわよ……。」
エリンはそこで顔をそらした。
ミシェルの言っていることは、単純な技術というより精神論のように思える。
けれど、それでいいんだ。
私は今、過去一番に真剣に製錬に取り組んでいる。
だからこそ、夜明けまで経っても投げ出さず、諦めずに手を動かしている。
技術は勿論大切だけど、それはあくまで前提あっての話なのだ。
それは、エリンの中で価値観が変わった瞬間だった。
「ねえ、あなたって何級?国認じゃないわよね?」
しばらく二人で手を動かしては、ふとエリンはミシェルに話しかけた。
「ええ。私は一級よ。それがどうかした?」
「別に。一級なのに、どうして製錬機に詳しいのかなって思っただけ。」
相変わらず手は動かしながらも、気になるとエリンは口と耳はミシェルの方へ向ける。
「それはまあ、製錬機の管理は評議会が受け持っているから。それに、国認製錬技師になって初めて使う人に教えるのも評議会の仕事の1つよ。まあ、評議員の全員が全員扱えるわけではないけれど。」
「なるほどね。でも、評議会の仕事って基本的に商標登録でしょ?自分でお店持とうとは思わなかったの?製錬技師の本分はルーンの製錬でしょ?」
それは最早今の状況とは全く関係のない世間話だったが、それを不思議に思わないくらいには気づけば二人とも心を許していた。
「確かに評議会の仕事のほとんどは製錬技師達が作ったルーンを商用利用する場合に、そのルーンに危険がないかを調査することとそれらの商標登録。自分で製錬することはほぼないわ。」
ミシェルは淡々と話すも、そこでエリンの方へと振り返った。
「でもね、逆に言えば王国中のルーンが集まる場所でもあるのよ。」
そこでエリンもミシェルの方を向いては再び手を止めた。
「この仕事をしているとね、色んな製錬技師の作ったルーンがいくつも見られるの。魔石は何を使ったか、結晶化に何を使ったのか、銘彫された術式を見ては、その人が何を考えて、どんな想いを込めて製錬したのかが見えてくる。私はそれを見て感じるのが好きなの。」
ミシェルは優しく微笑んでみせる。
自分の仕事に誇りは勿論あるが、それ以上にこの気持ちを誰かと共有したかった。
「ちょっと分かる……気がするわ。」
エリンも自然と口角を上げていた。
製錬技師にも色んな仕事の仕方があるのだと、新鮮さを感じていた。
「興味あるなら採用試験のリーフレット渡すわよ。一級以上じゃないと受けられないけど。」
「いらないわよ、今は。」
「そう。残念。」
互いにはにかんでは、三度二人は手を動かす。
もうすぐウェイ達がくる。
調整もミシェルのおかげで何とか終わりそう。
エリンは心を踊らせながら最後の作業に入った。
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