第2話 怪異

 両親を早く亡くした戸枝日和とぐさひよりは、七十歳になったばかりの祖父である戸枝雄一郎とぐさゆういちろうと二年前から二人暮らしをしている。

 この日、日和が作った夕食を食べている雄一郎に、夜の九時から青年部恒例せいねんぶこうれい肝試きもだめしに行くと言っても、人一倍ひといちばい可愛がっている孫娘の願いを断れず、彼は文句も言わず送り出していた。

 八月に入ったばかりの夜で、日中の猛暑もうしょをそのまま残しており、気温も三十度近くあるのではないだろうか。

 日和は肝試きもだめしの集合場所である、同い年で幼馴染である友澤翔吾ともざわしょうごの家に向かった。大沢地区で一番大きな家に住む日和とは違い、翔吾の家は集落の外れで、家も小振こぶりだ。彼は三つ年上の兄であるたけしと両親の四人で暮らしており、元は日和の祖父と同じ農業をしていたが、今は代が変わり、翔吾の両親とも東養老市で会社勤かいしゃづとめをしていた。

 翔吾の家に集合時間より少し遅れた日和が着くと、玄関で待っていたかのようにひょろりと背の高い翔吾が顔を出した。

「おせえよ、みんな待ってんぞ」

 とホッとしたような口調で翔吾が言った。

「ごめん、お祖父ちゃんの食事が長引ながびいちゃって」

 身体の前で軽く手を合わせながら、彼女はそう答えた。

「ま、それなら仕方ねえな」

 日和の事情を知っている翔吾は、そう言いながら近づいてくる日和を玄関の中に招き入れた。

 玄関の戸をくぐると広い三和土たたきがあり、今では使われていない農機具のうきぐなどが置かれている。その先の上り間口まぐちに高校生三人、そして幼馴染の宮下彩みやしたあやが日和を待っていた。

「おう、やっと来たな」

 と肝試きもだめしのリーダーかくである矢島友則やじまとものりが日和の姿を見て、はずむようにそう言った。他の高校生二人は、翔吾の兄で高校一年の友澤猛ともざわたけしで、もう一人は県道沿いに家がある添田克己そえだかつみである。

 矢島友則やじまとものりは大沢の集落から少し離れた「一ノいちのさわ」という集落しゅうらくに住んでいるが、集落自体が二棟ふたむねに減ってしまい、大沢地区に組み込まれていた。ちなみに残ったもう一軒が宮下家である。彼らは三人とも東養老にある県立高校の生徒で、ゆくゆくは日和や翔吾、彩もそこへ通う予定だった。

 互いに懐中電灯や虫よけをしたかを確認し、「さあ、行くべ」と「」と呼ばれている矢島が声を上げた。顔を見せに来た翔吾の母親の和美かずみに見送られて六人は外に出ると、矢島を先頭にぞろぞろと歩き始めた。

 日和は「」の後姿を見つめながら、また背が大きくなっていると思っていた。

 肝試しは地区の中高生が所属する青年部が行う年間行事で、いつもは地元で「諏訪様すわさま」と呼ばれる諏訪神社周辺すわじんじゃしゅうへんで行っていたが、この夜はいつもの諏訪神社の方向とは反対に向かっていた。このまま行くと山に分け入る事になる。

「ねえ、諏訪様に行くんじゃないの」

 と殿しんがりを歩いている翔吾に日和が訊ねた。畑が途切れ、森の木々が迫ってきていた。

「ああ、今回は観音堂かんのんどうの奥にしようってなったんだ」

 言いにくそうに翔吾が答えた。

「えっ、あそこの奥は立ち入り禁止でしょう」

 と日和の隣を歩いていた彩が声をひそめるように言った。

「まあ、そうなんだけど。……マンネリだからじゃね、諏訪様じゃ」

「……そうよね、諏訪様の辺りは、子供の頃から遊んで知ってるし、そんなに怖く無くなっているもんね」

 と彩は翔吾に言い、同意を得ようと日和に視線を移してくる。日和達の前を少し先行して歩いている高校生三人は、声高に高校の話題らしい話をしていて、こちらには目も向けない。

 観音堂は集落から一キロほど山に分け入った所にある藁葺わらぶき屋根の小さな堂宇どううで、この観音堂脇の小道の先が中止となった産業廃棄物処分場建設予定地である。そこまでの道は木々の枝葉えだはがトンネルのように張りだしたような昼なお暗い道で、確かに肝試しには向いているかもしれない。

 それだけではなく、観音堂辺りには幽霊が出ると地区では噂されており、何故なぜか建設用地の周辺は土地が白く変色し、木が枯れているとさえ言われていた。

「うちのお祖父ちゃんに知れたら大変だよ」

 そう日和は翔吾に言った。

 観音堂奥の処分場建設予定地跡に行くのを禁止したのは、日和の祖父である雄一郎である。

「黙ってれば大丈夫だって、日和がな」

 翔吾は前後左右に懐中電灯を向けながらそう答えた。

「話せるわけないよ、大目玉食おおめだまくらうの確実だもの」

「な、だから秘密にしておいてくれって……」

 そう翔吾に言われ、しぶしぶといった感じで日和はうなづいてみたものの、彼女自身も観音堂の奥の様子を覗けることには興味があった。あれほど祖父が厳しく立ち入り禁止といっている場所である、何か日和の知らない事情があるのかもしれない。同じように高校生達も禁止されている場所に足を踏み入れるスリルを味わいたいようだ。

 観音堂までの道は舗装されているものの、車一台が通れるほどの道幅しかなく、曲がりくねった上り坂が続く。森も深いし地形も険しく、足元の底からは水の流れる音が聞こえてくる。それに合わせるように寝ぼけたせみや、知らない鳥が鳴く声が思いだしたように聞こえた。

 日和は辺りの物音に一人耳を澄ませていた。高校生三人のお喋りに加え、さっきからずっと翔吾と彩が話し込んでいるので、日和は黙って歩くしかなかったからである。

 三十分もしないで、目的地に到着した。観音堂はヘアピン状に道が左に大きく曲がる山側法面やまがわのりめんの上に立っているのだが、暗闇の中では良く見えない。先頭を歩く矢島が持っていた懐中電灯を観音堂が建つ辺りを照らすと、ぼんやりと藁葺わらぶきの屋根が見えた。

 カーブを曲がり切ったところに観音堂とそのさらに奥へと続く小道がある。六人は迷わず小道に足を踏み入れた。数メートル入った観音堂へ昇る古びた石段を通り過ぎると、空気感が変わった。

 なんと形容すれば良いのか判らない、よどんだ空気に取って代わったとでもいうべきなのかと日和は思う。辺りの暗さも急に増してきたように感じた。

(お祖父ちゃんが、入っちゃ駄目だめだと言ったのも分かる気がする)

 そう日和が思っていると、高校生三人が「おっ、肝試きもだめししらしくなったぜ」などと言い合っており、その中の猛がこちらを振り返った。

「大丈夫か、怖いんじゃないの」

 と声を掛けてきた。

「怖かねえよ」

 と翔吾が反論はんろんした。

「なら、ちゃんとついて来いよ、この夜中に迷子探まいごさがしは御免ごめんだぜ」

「分かってるよ……」

 妙に兄貴風あにきかぜを吹かしてきた猛に反発するよう翔吾はぶっきらぼうに答えた。

「……でも、なんだか雰囲気が出てきたんじゃない」

 彩が翔吾のひじつかみながら、甘えるように言っている。

 そんな二人を見て、日和はかすかに疎外感そがいかんを感じていた。翔吾と彩は幼馴染だ、それこそ赤ちゃんの頃から一緒にいる機会が多かった。幼稚園、小学校と絶えずつるんでいた気がする。日和に女性なら必ず起こる現象が起きてからは、自分から翔吾との接点を減らしてはいたが、それでも毎日のように顔は合わせた。決して彼が嫌いな訳ではない、むしろ好きだった。それは彩も同じらしい。

 だから、たとえ同じ幼馴染の彩だとしても翔吾と親しくしているの見て、心穏こころおだやかにはいられなかった。それに彩は翔吾への好意を隠さない。天真爛漫てんしんらんまんといったふうで、翔吾に甘えている。それが少し「忌々いまいまし」かった。

「おおい、みんな懐中電灯を点けてるな」

 と「とも」が言った。

 ふと見ると日和は懐中電灯の明かりを消していたのに気づき、あわてて点灯させた。

 木々の枝葉が小道を覆い、トンネルの中を歩いているようだった。そして懐中電灯で照らされた木肌が白々しらじらとして見え、それが白骨が地面から生えてきているようにも思えた。

 高校生三人と日和達三人の間に十メートル程の間隔ができてしまっていた。そのため、後ろの集団は日和を先頭とした形になっている。

 初めは空耳そらみみと思った。空耳そらみみは「この先は行かない方が良い」と告げたのである。そして見るとはなしに、視線を左の森へと移すと、何かがこちらを見つめ立っていた。

 いわゆる二度見で何かが立っていた森の中を見たが、ただ漆黒しっこくの闇があるだけである。しかし、何かの気配が今度は右手から感じられ、慌ててそちらに振り向いた。確かに誰か木立こだちの間に立っている。それも見慣れぬ着物を着た少年のようだった。

「この先は行かない方がいい」

 と少年のような姿の者は再びそう言い、闇の中に溶け込んだ。

 それでも三人は歩くのを止めなかった。日和は立ち止まりたかったのだが、翔吾と彩は言葉を聞いてなかったのか立ち止まらなかったし、逆に足を止めようとした日和に「何、どうしたの」と言ってきた。

 どうもこうも、少年のような者がこれ以上行くなと言っているのに、二人は聞こえないのだろうかと日和は思っていた。ひょっとして、自分しかみえていないのでは、そう感じた。

(えっ……)

 顔を前方に戻した日和の目の前に、立ちふさがるように少年が現れた。上半身は裸で、左肩から斜めにかけた布に首飾り、腕輪を着け、形良い頭を坊主刈りにした均整きんせいのとれたおだやかな表情をしていた。

「俺は、行くなといっている」

 完全に日和の足が止まった。小道の真ん中から少年が動こうとしないからだ。

「おお、急に止まるなよ」

 そう言いながら、翔吾は立ち止まった日和にぶつかりかけ、何んとか身をよじって通り抜けようとした。咄嗟とっさに彼女は翔吾の腕を掴んだ。

「止まって、だめ、止まって」

 大柄の翔吾に引っ張られかけたが、力を込めてその場に踏み止まった。

「なんだよ……、どうして」

「なんか、変……」

 そう答えた瞬間、先行していた高校生三人から悲鳴がひびいた。

 翔吾は日和の腕を振り払って、悲鳴の方向へ駆けつけようとしたが、彼女は彼の腕を掴んで離さなかった。

「……駄目」

 それでも翔吾は三人のもとへ行こうとしている。

「兄貴たちが……」

 そう翔吾が叫ぶように言った時、前方からばたばたと走る足音がした。一人の両脇を抱えるように高校生が引返してきたのだ。

「逃げろ、……早く逃げろ、追いつかれる」

 三人は尋常じんじょうじゃない様子であった。「逃げろ」という言葉が引きがねになった、日和達は全速力で元来た道を走った。その間中、両脇を支えられている矢島友則が耳をふさぎたくなるような悲鳴を上げ続けている。

「追ってくる」

 右腕で矢島を支えている添田が悲鳴のように叫んだ。

 暗闇の背後で木がぎ倒されるような音が聞こえていた。それは六人を追ってきているように日和は感じられた。

「う、腕が熱い……」

 翔吾の兄である猛が、走りながらうめくように言った。

「早くっ」

 すぐ背後で木々が何かに押しつぶされるように道に倒れ込んでくるのを、日和は咄嗟に照らした懐中電灯の明かりで見ていた。一人を両脇から介助かいじょして走っているためか、高校生三人の足が遅くなっている。彼女は猛の腕を飛びつくように掴むと思いっきりひっぱり走った。彼女の前では彩の手を引いて翔吾が後ろも見ずに走り続けていた。

(こっちの手は握ってくれないの)

 彩と翔吾の懸命けんめいに逃げる後姿うしろすがたを見てそう思った。

「……日和、先に行け、わないから逃げろ」

 かすれるような声で友則が言った。彼女は構わず、猛の手を引き続けた。たぶん、日和が聞いた友則の最後の言葉だったかもしれない。

 高校生の三人はひどい有様ありさまであった。もっとも状態が悪いと見える矢島友則が着ていたTシャツは原型げんけいたもたずベロベロで、上半身の皮膚は溶けているといって良いし、両脇の友澤猛と添田克己も互いに上半身左右どちらかが同じような症状を見せていた。何をどうしたらこんな状態になるんだろうと日和は思った。

「だめだ、……つかまっちまう」

 添田が甲高い悲鳴にも似た声を上げた。

 日和がその声に振り返ると、三人の背後に巨大で漆黒しっこくの何かが迫っていた。それには複数の巨大な長い足も備わっているようである。その距離は十メートルもない。時折、漆黒の身体に電気パルスのような青白いきらめきが走りぬけている。

「もっと、もっと速く走って」

 そう日和は叫んだ。

「……追いつかれる、日和、先に逃げろ」

 今度は猛があえぎながら彼女に叫んだ。それには答えず、日和は必死に足を前に出している。

(だれか、だれか助けて……)

 そう思いながら、追ってくる何かをもう一度確認しようと、後ろを振り返った。どうしても森の木々をなぎ倒して追ってくる物を見たかったのだ。死ぬかもしれない、本当にそう思った。でもそれならば、恐怖で気が狂いそうであっても自分を殺すであろう物の正体を見たかった。

 追ってくる物の前に、あの少年が浮かび上がる様に現れた。化け物は構わず、少年に向かって迫ってきている。森の木が押し倒されていく音とともに何やら怒号どごうのような咆哮ほうこうが聞こえた。

(あの子が、つぶされる)

 そう思った瞬間、少年が発光した。まるで大型のフラッシュライトをいたような光である。余りのまぐしさで、日和は少年の姿を見失っていた。少年が光の玉になったとその時思った。

 いきなり光が終息し、同時に追ってくる物が起こす騒音も少年も消えていた。怒号ではなく、人の悲鳴のような咆哮が六人の耳朶じだを打ち、それを最後に辺りには静寂せいじゃくが森を押し包むように戻った。まるで何も無かったようにである。

 それでも六人は走り続け、観音堂の石段が見えるところで、ようやく足を止めた。止めたというより、それが限界だったのだ。六人は思い思いの恰好かっこうで地べたにへたり込んでいて、最もひどい状態の友則は、小さく呻くだけで、日和が見たところ顔にあるべき物や髪の毛、耳たぶなどは溶け落ちているようだった。

「救急車を、……翔吾、家に戻って助けを呼んでこい、なあ、添田、水持ってないか、矢島がどんどん酷くなってるぞ……」

 兄の猛が矢島をのぞき込み、あえあえぎそう翔吾に叫び、同じようにへたり込んでいる添田に声をかけた。力なく首を横に振る添田を見つめながら、次に猛は自分の携帯から119を押した。

 六人の中で体力的に大丈夫そうなのが翔吾で、兄の猛がそう命ずるのは順当じゅんとうだと言える。翔吾も状況が状況であるので、大きく頷き、飛び上がる様に立ち上がると、下のさとに向かって走り始めた。

「待って、わたしも……」

 自分も連れて行ってくれと言うのだろう、彩は翔吾に声を掛けた。

「彩は足が遅い。翔吾の足手あしでまといになるから残れ」

 と添田がいらいらした口調で怒鳴った。

 119番に通報し終えた猛は、力尽ちからつきたようにその場に横たわっている。

「……だって」

 と彩が泣き声を上げた。化け物が再び追ってくるかもしれないと思っているようだった。

 翔吾の足ならばさとの家まで十分そこらであろう。そして再び助けを呼んで戻ってくるには二十分から三十分ほどかかると思われた。

「ここで待つんだ。……ばらばらになるのも危ないかもしれない」

 猛が苦痛を堪えて地面に横たわっていた上半身を起こした。

 皆、あの化け物が再び追ってくるのではと恐怖に駆られているのだ。逃げ戻ってきた小道を見つめ、あのおぞましい姿の化け物が現れるのではないかと思っている。

 日和だけはあの化け物が来ないと確信していた、少年が留めてくれた、何故だか自分を犠牲にするかのように行く手をはばみ、自分と共に消失させたと思っていた。

 そう思っていたため、心の安定性を一足早く手に入れた日和は三人の高校生を見つめた。三人の状態は薬品による火傷やけどのように思え、それならば水を掛けなくてはと考えた。

 どこに水はあるのか、さとへと続く道の下にある沢まで降りるのは無理そうだった。後は観音堂だ。そこまで想いをめぐらせ、この観音堂にまで水道が通っているのを遠い記憶から引っ張り出せた。観音堂は大沢地区内にあるので、定期的に掃除などをさとの人間で行っている。日和も小学生の低学年の頃、行方不明になっている浩二郎に伴われて掃除当番をした事がある。

 そういった作業用の水道栓すいどうせんがあったはずなのだ。

 やにわに立ち上がると日和は懐中電灯を摑んで石段を登り始めた。

「どこへ行くんだ」

 と猛が聞いてきた。

「ここに水道が通っていると思う」

「そうか、そういえばそうだった。……彩、日和を手伝え」

 添田が横たわったまま、そう彩に命じた。

「……ええ、嫌よ、怖いもの」

 彼女は泣いていた。役に立ちそうもないと思ったらしく、左の上半身に火傷のような傷を負っている猛が立ち上がろうとし始めた。

「俺がいく……」

「いい、大丈夫。わたし当番でここへ来ていたから、たぶん場所覚えている。待ってて……」

 そう言い残すと石段を駆け登り、辺りを懐中電灯で照らした。しばらく掃除の手が入っていないようで、落ち葉や枯れ枝が堂の周囲に散らばっている。

(……確か、燈篭とうろうの脇に蛇口じゃぐちまっていたよね)

 記憶を辿たどりながら、堂宇どううの前に立つ少し傾いてこけむした燈篭とうろうの足元を照らす。

 ない。

 あせりを覚えながら、さらに記憶をしぼり出す。

燈篭とうろうって一つだけだったろうか、二つあったんじゃ)

 あっと思い出した。確か大風おおかぜで観音堂周囲に立つ古木こぼくの何本かが折れ、その一つが燈篭とうろうこわしたと聞いたことがある。懐中電灯を振り、立っている燈篭とうろうと対の部分に台座だいざのような石を見つけた。その台座だいざの横に金属製で長方形をしたボックスが見えた。

 飛びつくように金属製のふたに乗っている枯葉を除き、それを開けようとした。びているのか固かった。指を突っ込んで開けようと力を込めると少しずつふたが上がり始めたのだが、そのせいで右手人差し指の爪ががれてしまい、その痛さで指を手で押さえ、小さな悲鳴を日和は漏らした。

 それでも彼女は指の痛さで乏しくなりつつある気力をふり絞り、金属製のふたをなんとか開け、がれた爪の傷から出血させたまま蛇口のせんひねってみた。

 水道は生きていた。勢いよく噴出ふんしゅつする水を見て喜ぼうとしたものの、どうやっても三人の所まで水は届きそうもないのに気づいた。

(ホースがいる……)

 吹き出す水を見つめながら、四年前、行方が分からなくなってしまった叔父の浩二郎がホースで水を巻き、観音堂の石畳いしだたみを洗っていたのを思い出した。

(叔父さんはホースを使っていた、あれは観音堂に備えられたホースじゃなかったけ、……そうだ、叔父さんは観音堂の後ろからホースを持ってきたんだっけ……)

 日和は観音堂を見つめ、堂宇どううを巻くように張り出た縁の下に様々な備品びひん仕舞しまわれていることを思い出していた。


 救急車が全身濡れネズミになった矢島達三人を乗せて病院へ走り去っていった。

 事態じたいを聞いた大勢のさとの人が観音堂に集まってきていて、その中に日和の祖父もいた。彼は孫が危険な目にあったことに激怒しており、同じようにやってきていた翔吾の父親や矢島、添田の親に食って掛かっている。

 何人かが観音堂の奥に入っていき、道に沿って何かが樹木じゅもくを押し倒しながらやってきたとしか思えないことを告げた。そして、化け物が少年と共に消失した辺りには大量の土塊つちくれが散らばっていたという。

 両親と共に戻ってきた翔吾は、父親からこっぴどく叱られたらしく悄然しょうぜんと肩を落としており、看護士をしている翔吾の母親である和美に謝られながら日和は指の治療を受けていた。自分の息子も救急車で運ばれたのだから、そっちを心配しないわけはないのだが、和美はそのような気振けぶりも見せないで、日和に謝り続けていた。そして、彼女は日和が三人に水を掛け続けたのは正しかったと告げた。

 日和は手当てを受けながら、あの少年のことを考えている。自分たちを襲った化け物より、助けてくれたであろう少年の消息しょうそくが気になって仕方が無かったのだ。日和は少年をどこかで見たことがあると感じている。それがどこであるのかは、分からないのだが、絶対にどこかで会っていることは確かだと感じられた。

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