第8話 〜水浴び〜


   ◇◇◇【SIDE:リーシャ】



 ピチャんッ……



 森の湖でゴブリンの返り血を流す。


 身体は未だにふわふわしていて、まるで背中に羽が生えてるみたいな感覚が抜けない。


 アル兄の演奏が、まだ私の中に鳴っている。


 私は湖にパシャンッと倒れ込み、肌着一枚でぷかぷかと浮かぶ。


 太陽は高い位置。空は快晴。


「はぁ~……」


 言いようのない幸福感に息を吐く。


 ゴブリンとの戦闘中に見えたアル兄の深く集中した恐ろしく綺麗な紺碧の瞳。躍動する手足に滴る汗。


 アル兄が見えない鍵盤を弾く度に、光の粒がふわりと舞って、私の道を照らしてくれた。


「……綺麗だったなぁ」


 言葉で指示されなくとも、音は雄弁に指揮する。


 私の間合いに入るゴブリンは1匹ずつ。


 まるでゴブリンたちが屠られる順番を待っているかのような不思議な感覚。


 最後に左右からのゴブリンを斬り伏せると、ゴブリンロードへの道が一直線に伸びていた。


 吸い込まれるような音の波に私は身を委ねる。


 ――《瞬歩》、《狩首》……。


 意識せずともスキルを発動させてしまっていた。


 アル兄は指揮者(マエストロ)。

 アル兄の前では誰もが「音の奴隷」となる。


 ……ほんと……息もできない。

 自分の呼吸音すら邪魔に思えてしまう繊細で艶っぽい音色。


 思わず、拍手しちゃった……。

 やっぱり、アル兄のピアノは特別だ。


 ――ピアノの前では全てが丸裸になるんだ。


 昔から口癖のように言ってた。

 さっきの、アル兄のピアノは歓喜と解放に包まれていた。


「やっと……。また自分のピアノが弾けたんだ……」


 先見の明(センケンノメイ)での、トゲトゲしくて痛々しい音は無かった。泣きそうな顔をしながらピアノを弾くアル兄はもういない。


 ……よかった。

 ……こんな事なら、さっさと2人で脱退すれば……いや、根は優しいアル兄だから、それは無理だったかな……?


 ……ってダメだ……。さっきの感覚のまま、1人でも動けるようにならなくちゃ。


 身体の使い方はアル兄に教えて貰えるんだ。それを自分の血肉にして、まだまだ強くならないと、『あの男』には届かない。


 でも、でもね……。今は少し待って……。

 余韻に浸(ひた)ってたいんだ……。


 湖に浮かんでいると、自分の鼓動をより強く感じる。


 耳が水中に入っているから当たり前なんだけど……、


「……私、やっぱり、アル兄のピアノが好きだ」


 顔がじわじわと熱くなってくる。



 ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ……



 やけに心臓がうるさい。

 ……私がピアノを弾いてしまったら、きっとバレてしまうのかもしれない。


 先程の追放劇……。


 アル兄が側に居なくなるかもしれないという焦燥の正体に、私は気づいてしまった。


 ピアノだけじゃない。


 私は……、アル兄が……、



 バシャンッ!!



 唐突に水の跳ねる音が聞こえてスクッと起き上がると、そこには少しホッとしたようなアル兄がジャブジャブとこちらに歩いてくるところだ。


「……あ、焦らすなよ! なにぷかぷかして……」


 アル兄はそこで言葉を止めると、視線を下にして固まるので、私は「ん?」と首を傾げる。


「アル兄……?」


「は、張り付いてるぞ、色々……」


「……ん?」


「……お、大きくなったな」


 アル兄の視線は私の胸。

 下着は付けているけど、張り付いた肌着が下着の刺繍に沿って……。


「……!!」


 バッと背中を向けるけど、急速に顔が熱くなってくる。


 ふ、普通は視線を逸らしたり……しないかな? ……し、しないか。ア、アル兄だもんね……。



「……まだ見えてるぞ? パンツ……」



 アル兄の声にハッとしてザプンッと肩まで水に浸かる。胸元を手で隠し、アル兄を少し睨む。


 もう恥ずかしすぎて涙が出そう……。

 早くあっちに……!!


 私の視線にアル兄はニヤリと口角を吊り上げる。


「ハハッ! パンツ、売らなくてよかったな!」


「……へ、変態!」


「ふっ、オヤジが目を覚ましてるかもしれないぞ。早くあがれよ?」


「……うっ……ぅん」


 アル兄はまたジャブジャブと帰って行く。


 私はなんだか悔しくて、恥ずかしくて、妹としか見られてなくて……、なんだかよくわからなくて、湖に口をつけてブクブクと泡を作った。



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