約束①

 私は今、雪音の部屋のベッドの上で横になっている。横になっているとは言っても、決して寝ているというわけではない。もう、日が沈み始め、夕方から夜へと変化しようとしている。その時間には流石の私も寝たりなどはしない。横になるとは文字通り、体を横たえているだけだ。


 だが、ただ休んでいるわけではない。私の視線は目の前にいる二人に向けられている。

この部屋の主である天白雪音とその幼馴染でもある黒地陽太郎、私の主人達に。今、二人が何をしているのかと言えば、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、映画を見たり、遊んでいるわけではない。


 この部屋に置かれているテーブルに二人は学校の教科書とノートを広げている。つまりは、勉強をしているわけだ。二人が勉強しているのを私はこのベッドの上から応援している、そういうわけなのだ。


 なぜ、こうなったのか。目の前の二人を見ながら、私は今朝のやり取りを思い出す。


 今日もまた日が昇った事を、外の雀達の声で気付く。私は閉じていた瞼を開ける。部屋の中はカーテンが閉まっているとはいえ、外からの朝日の光が漏れており、私の目がその光に慣れるまでに少し時間を要してしまった。


 私は自分に与えられた寝床から出ると、軽く伸びをする。我ながら今日も規則正しい生活をしている。ここであくびを一つすると、部屋のベッドに視線を上げる。


 この部屋の主は未だ夢の中のようで、昨日の私は天白家で過ごした。さて、このまま雪音を起こそうかとも考えたのだが、私の起床時間が早すぎたのか、まだ彼女を起こすには早すぎる。


 そう考えた私は、彼女の部屋から出て行こうとする。当然ドアは閉められているのだが、私にかかればこのくらいのドアを開けることなどわけない。


 いつもの要領でドアノブに向かってジャンプをして、ノブに掴まる。そして、そのまま体重を乗せながらノブを下に下げ、自分の体を振り子のように揺らしながら、ドアを開ける。もう、私にとっては慣れた作業だ。ドアをある程度開けると、ノブから両手を離すと、体是全体を使ってドアを押して閉める。


 さて、とりあえず一階に下りるか。私はそのまま階段を下りていく。すると、何やらリビングの方から音がする。私はその音のする方へと向かって行く。


 リビングのドアもほとんど雪音の部屋から出る時と同じやり方で開ける。リビングのダイニングテーブルでイスに座って、コップに口を付けていた夏雄と目が合った。


 その瞬間間違いなく時は止まった。そして、時は動き出す。


「ぶふぉー!」


 夏雄は盛大に吹いた。それはもう綺麗な霧状に。その霧は若干黒いので飲んでいたのはコーヒーだと判った。そして、残念な事に虹は出なかった。


「ちょっと、あなた!」


 キッチンにいた冬美は布巾を持って夏雄のところに来る。


「ごほ、ごほ! す、すまん。だが、あれは、ひ、卑怯だろ」


 そう言いながら、夏雄は未だドアノブにぶら下がっている私を指差しながら言う。冬美が布巾を夏雄に渡し、指差す方、つまりは私に視線を向ける。


 冬美は一瞬止まると、すぐさま私の方に来ると、来ているエプロンのポケットから

携帯電話を取り出すと、パシャパシャと撮影会が始まった。


「グレちゃん、可愛すぎ!」


 それはもう様々な角度から私を撮る、止めてくれ、恥ずかしい。それに、この体制はもう腕が…。案の定私は、ドアノブから手を離してしまい、床に向かって落下する。


「あっ!」


 冬美が声を上げる。そして、私を捕まえようと手を伸ばすが、このままでは間に合わない。私は背中を床に強打してしまうだろう。


 だが、私を侮ってもらっては困る。私は、体を丸めると、綺麗に一回転半して、無事に着地する。芸術点は百点だろうか。夏雄と冬美の私の華麗な着地を称える拍手が聞こえる。


「グレ、お前にこんな特技があったとは……」

「後で、春子ちゃんに送ろうっと」


 夏雄は冬美から渡してもらった付近でテーブルを拭きながら感心している。冬美は私のあられもない姿を、拡散する算段を企てている。いつも通りなら、誰かと一緒にドアを通るので、この開け方を人に見せたりはしないのだが、今回は不可抗力というやつか。


 流石にこのままでなんとも居たたまれない。


「にゃあ」


 私にも水をと冬美に言う。冬美は私の声から何を求めているのかを察したのだろう。


「ちょっと待っていて」


 そう言うと、キッチンに戻っていく。しばらくすると、私専用の皿に水を入れて持って来てくれる。冬美が私の目の前に皿を置くと、私は目覚めの一杯とばかりに豪快に……は無理なので、舌で少しずつ飲んでいく。いくら私でも、コーヒーは飲む事はできないが、水も十分に美味しい。


 先程の出来事が嘘のように、いつも通りの朝に戻る。今度からあの方法でドアを開ける時は気を付けねば。しばらくすると、上から物音がする。どうやら、雪音が目覚めたようだ。


 階段を下りる音がしたかと思うと、先程私が開けたドアが開く。当然、ぶら下がった猫がいるわけもなく、雪音がドアを開けて入ってきた。


「ふーあ、おはよう」


 未だパジャマ姿の雪音が、あくびをしながら、ダイニングテーブルの夏雄の対面に座る。


「おはよう

「おはよう、コーヒー淹れるわね」

「おねがい。砂糖多めで」

「はいはい」


 冬美はそう言うと、雪音専用のマグカップにコーヒーを注ぎ、砂糖を多めに入れる。

そのマグカップを雪音の前に置くと、雪音は軽く息を吹きかけて冷ますと、マグカップに口を付ける。一口飲むと、ふぅーと一息吐く。


「今日はバターといちごジャムがあるけど、どっちにする?」

「うーん、今日はいちごジャムで」


 冬美は雪音のオーダーを聞くと、パンを二切れ、トースターで焼き始める。キッチンからパンの焼ける香ばしい匂いがしてきた。なんだか、私もお腹が空いてきた。


 ほどよく焼けたパンに、いちごジャムを塗り、それを皿に乗せて、冬美は雪音の前に置く。匂いとジャムを塗られたパンを見て、お腹が空いてきた私は、冬美の足元まで行くと、冬美の足に縋り付き、朝食をねだる。今の空腹の私には、プライドというものが無い。私の天白家での朝食を握っているのは、他ならぬ冬美なのだから。


 頼む、あのお高いフードを、お高い缶のフードを私にくれ! 頼む! しかし、無常にも私の皿に乗せられたのは、健康に優しい、低脂肪高蛋白質のキャットフードだった。嫌いじゃないが、あの缶のがいいのに、あれが美味しいのだが。

 私は、出された朝食を食べる、うん。


「ご馳走さま」


 雪音は食べ終わったのか、キッチンに皿とマグカップを持って来て、流し台に置くと、部屋を出ていく。そのまま、制服に着替えたり、身支度を整えるのだろう。


「僕はそろそろ行くよ。ご馳走さま」


 夏雄は、皿とカップを冬美に渡すと、夏雄はイスの背もたれに掛けていた、スーツのジャケットを羽織り、鞄を持つと、部屋を出て行く。私と冬美は見送りの為に玄関先まで一緒に行く。


「じゃあ、行って来るよ」

「行ってらっしゃい」

「にゃあ」


 軽く私の頭を撫でると、玄関のドアを開けて夏雄は仕事に行く。しかし、人

は大変だな。決まった時間に決まった事をしなくてはならないとは。だが、これも生きていく為、家族を養う為だと、思えばこそだろう。そう考えると、私は夏雄に敬意を表して、敬礼をする。


「どうしたの、グレちゃん? 頭痒いの?」


 …………敬礼だ。


「お父さん、もう仕事に行ったの?」


 入れ違いに、二階から制服に着替えた雪音が下りてくる。


「ええ。今しがたね」

「そっか。行ってらっしゃい、言いそびれちゃった」

「ほら、雪音もぼんやりしていると、陽太郎君が先に行っちゃうわよ」

「ちょ、陽太郎は別に関係ないでしょ!」

「はいはい、学校に遅れるわよ」


 冬美はリビングの方に戻っていく。その様子を納得のいかない顔で雪音が見ているが、私も正直同じ事を……。


「グレ、違うからね」

「にゃあ」


 そういう事にしておこう。

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