第5話 スクイーズ・スティック&キドニー=ハーフ

 現実問題。それはひとつの尺度であって、当人が自身の存在基軸をどこに置くかに拠る。なにを問題とするかとは、そのひとの関心事が反映されることで、もっと言えば、集中力の話である。ひとは好きでもないことに意識を向けることができるし、気が重くなるような仕事をやっていけるのも、そういうことだ。


 社会の多くが――とは、もちろんあなたの頭の中の現実的虚像を示すが――是とする関心事を、ここでは暫定的に「現実問題」としておこう。近しい問題として、金銭問題とか健康問題とかがある。これらが「課題」でなく「問題」であるとすれば、それらが畢竟自分の目前にはなく、手の届かない高度に存在している点にある。


 リズムが乱れることを承知で、給料の話をしよう。それは課題にならない。課題だった、と後から振り返ることはできる。ここには捻れがある。なぜそんなものが生じるか。


 あなたがどれだけ心血を注いで働こうが、効率化を達成しようが、計画を立て、実行し、評価されようが、そういった手続きには時間がかかるからだ。


 瞬間的な努力などというものが自己矛盾であるのと同様に、「課題」が課題として成立するには、定義以上の時間がかかってはならない。あるタスクないしプロブレムが解決したと言えるのは、総体としてのあなた(あなた方)の成果である。微分して、毎瞬間のあなたを求めることはできるが、微分されたあなたに『課題』全体を解決する能力がないのであれば、これも誤った判断だと言わざるを得ない。

 分かりやすくしているだけだ。あなたはその瞬間には『課題』とやらを解決できなかった。


 課題が「課題」たる有効期限がある。

 それを超過すると「課題」は「問題」となるのだが、それもやはり一観点からの見方に過ぎない。他の要素も絡んでくる。たとえば、"そのタスクないしプロブレムを解決する裁量は自分にあるのか"など。


 金銭問題、もしくは健康問題――これらは同様に、自分の努力だけでは解決しないという点で共通している。「自分の努力」というこの点で、そこには継時的な取り組みが(離散的であっても)あるだけ尊いのだが、「問題」というのは、努力とは関わらない在り方していることもある。


 個人的な経験則に従えば、むしろ努力とは裏切られる運命にあり、もはや絶滅してしまった。「努力」とは禁じられた名であって、口に出すと必ず検出され、その単語・表現に紐づいた全ての試みが否定される。そればかりか、その先に見ていた夢、夢を見ていた心身、時代、環境など、まあこちらも想像すらしていなかった資産すら破壊される。「がんばる」も同様。「◯◯が好き」もそうだ。

 ところで、一体全体、どこのどいつがそんな非道な真似をするのか? その主体については、気が向いたら論じる。今ではない。あるいは、直接訊いてくれ。あなたが親しくて、ぼくの体調が良ければ答えるだろう(ここには平坦なトレードオフ関係がある)。


 また脱線した。ポイントだけ記そう。、それはあなた単独で解決できない。そういう構造をしていない。


 お小遣いの何%を何に使うか、というような自己判断とは異なるのだ。あなたがどれだけの感情を寄せようが、そのプロブレムはいくつかの意思決定プロセスを経由する。道すがら姿が変わることもあるし、再会した際に記憶の姿と異なるということが起こりうる。

 そいつのアイデンティティだと思っていたものは、ほんとうにアイデンティティだったのか?  

 我々は大抵の場合、限られた数の側面しか見ていない。常にゲームの情報は不完全だ。


 さて、このような問題――ぼく単独では解消できず、コンプレックスとして存在している――について意識すると、胃から背中までが〈凝り棒〉で貫かれている気分になる。日頃の姿勢の悪さが出ているだけだと思いたいが、世話になっている人は言った。


「背中はマズいですよ」

「マズいんですか」

「腎臓はマズいです。腎臓じゃなきゃいいんですが」彼はどこを見ていたんだっけ。「内科に行くのも手ですね」


 行くとすれば、今日か明日だった。今日はもう用事を済ませてクタクタだったので、明日に受信の予約を入れて行くしかなかった。もちろん、週明けという選択肢もある。しかしそれは現実的じゃなかった。そんな先のことは分からないし、というか実行できる保証なんてできない。となると、やはり明日だ。


 そういうことを考えていくと、〈凝り棒〉はより効果を発揮する。胃から暫定的腎までをグッと握りしめてくる。言い忘れていたが、〈凝り棒〉というのは、ブラックホールを棒状にしたようなイメージだ。とにかく引きつけて、締めつける。ギュッとして、グッとする。呼吸は浅くなり、鼻が詰まり、咳も出るわけだが、みんなもよくあることなんだろう? 意識が遠くなり、歩く身体と感覚の間に0.5秒の差が生じることも「あるある」なんだろう?


 ここ一月でコツを掴んだのは、こういう時は思考を停止する、というものだ。


 ぼくは考えることを止めた。

 まあ意識の遠のきは仕方なかったので、一時間程度眠ったわけだが、その後は作曲をすることにした。音楽は良い。作曲も簡単だ。課題はあるが、問題にはならない。全てが自分の裁量に任されているし、その「裁量」とやらも実に感性的だ。ただ気持ちの良い音の並び、メロディの展開を探すだけで良い。全然コンプレックスじゃない。


 良い曲もできた。酒を飲んだ。今日は寝る。腎については忘れる。


 器用貧乏はこうして死んだ。


 

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