第4話 勇気の不在
三時間の睡眠であれば、自分を説得できる。
起きたときに、眠らなかった方が良かったと思うとしても。
単純に時間が足りていないのか、質が劣悪だったのか、あるいはその両方か。それとも徹夜の疲労は、充填できるほどに甘くなかったのか。
とにかく体全体が怠い。頭が回らないだけならまだ良い。今日も予定は明確だし、それは前日とかそれ以前に決めたことだった。検討の必要なんてない。すべてがシンプル。あとは決めたことをやるだけ――しかし、勇気が足りなかった。
明確な目的があるわけではないが、おそらく良い方向に転ぶだろうことがある。おそらく無数に。部屋の掃除があなたを殺すことはない。舞い散るハウスダスト、発掘される黒歴史によって呼吸器あるいは精神に支障をきたすことはあるかもしれないが、それはどちらかといえば、稀な不運だろう。我々は、英単語を十個覚えたことで刺される世界には住んでいない。そのはずだ。
不吉な予感が兆していた。
根源は不明、輪郭も茫としてわからない、しかしだからこそ純度が高いと言える、そういう不安。
これを乗り越えて、予定をこなすには勇気が要る。
勇気とぼくは書いた。アリストテレスの話はしない。「単に意気地とか気合いの話じゃん」とまとめられても仕方がないが、それでもやはり、こいつのことは〈勇気〉と名づけるべきだと思う。
不安に面して、その先に向かおうとするとき、不在を強く感じるのであれば、そいつは勇気だったに違いない。当然過去形だ。今ここにはいないのだから。
どうせぼくらは、ほとんどいつも、この場にいないものの話をしている。
たとえば、履歴書を送ることを考える。転職用でも就職用でもいい。うまくいけば、少なくとも経済状況は改善する。うまくいかなくても、現状以下にはならない。傷つくことはあるかもしれないし、全然耐性がつかないが、なに死ぬことはない――そう言いたいところだが、今度こそ死ぬことになるかもしれない。ぼくはそれほど自分の耐久性を信じていない。
とはいえ、自分の死についての関心も薄いのだから、結局、この話は無価値だ。
履歴書の作成と送付については、自分で決めた。だから「やらねばならない」と思っているだけだ。それ以上でも以下でもない。実に純粋だ。この予定には気持ちの挿す余地なんてない。
けれども、それらがダメな方向に転ぶ気がしてならなかった。
書類選考に通らないことで、自分が丸ごと否定されたように感じたことはあった。得意なひとに何度も添削を頼み、アドバイスを反映させるのみならず、さらに良いものにしようとしたのだから、あれはひとつの作品だった。それがお祈りされ、多分シュレッダーにかけられた。
そういう過去が再現されるのが怖いのではなかった。
これから作ろうとしている書類は、必要最低限かそれ以下の水準を目指しているから、通らない可能性は十分にある。予防的にそういう手抜きを目論んでいるのだ。ちゃんと自覚はある。だから、それは起こりうることだろうと理解している。
期待値の話をしてもいいし、選ばれるものと選ばれなかったものの話をしてもいい。しかし、しない。ぼくは覚悟などという立派なものについて語るつもりがないからだ。単にその行動についての価値を見出しておらず、これは無関心と言う。否定も肯定もしない。興味がないのではなく、興味を持たない。
それでも、不安はそこにいる。あるいは、そこにある。この室内に、それともぼくの頭の中に――輪郭が描けないのだから、対象として捉えることも難しい。残念ながら、現象としてはどちらも同じだ。
存在は感じているが、存在しているのかはわからない。実在までを認定するには、もちろん時期尚早だ。とにかく頭が回らないのだし、錯覚に過ぎないものにまでリアリティを許せるほど、ぼくのパーソナル・スペースは広くない。
現に霊感が強かったり、そう信じ込んでいるのであれば、悪霊の仕業とでも言うのかもしれない。あるいは、一旦そう名づけて外部化し、客観視することで、対処可能なものにする心理的な技術もある。どちらもぼくには使えなかった。
三時間では足りなかった。不安を祓うだけの勇気もなかった。
なので、ぼくはもう一時間眠ることにした。これ自体は簡単だ。体の力を抜けば良い。全身のどこに気づかないうちに力が入っているかを意識して、それを繰り返し溶かしていくのだ。自分の輪郭など、たかが知れている。それらを縫解いていくこと。不安よりももっと正体不明になること。
車が住宅地を吼えてまわっている。学生が大声で呼び合っている。カラスの反響。夏は今日も寝坊した。だからどうした、と問うのは適切でないし、付き合う義理もない。勇気でさえ不在なのだ。
次に目を覚ましたとき、頭は少し晴れていた。
履歴書は手付かずだ。
それでいい。
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