第3話

 父からの連絡にタイミングの良いときなんてない。


 明かしてしまえば、着信拒否の設定にしてある。

 スマホはもちろん、パソコンの方もだ。連絡用のアプリ自体、ミュートにしてある。本当なら、そんな機能は要らなかった。必要なのは、インターネット・ベースの繋がりで、リアルの繋がりではない。辛うじて意義を見出すとすれば、それはSNSだ。それすらも、最近は疎かにしている。

 この端末は、ぼくが自らデザインする対象としての何者かになるためのものだ。誰の子だとか、戸籍上の苗字が何で、その長子としてどう振る舞うべきかという問題は、この画面に相応しくない。そこにアイデンティティは感じていない。できれば排除していきたい。

 帰属意識とは生じるものだが、ぼくはそれを否定したい。そう考えるようになったのは、流れで属してきた組織に良い思い出がないからだ。

 居場所は自分で作るべきだ。ろくなものが与えられないなら、自分で作るしかない。

 運命とやらは信じていない。信じるに値しない。やってくる不運、訪れる苦難、そういったものに意義なんて見出せない。

 予定調和とか「神は乗り越えられない試練はお与えにならないのだ」といった言説も嫌いだ。居心地の良い場所で、悩むとしたら現実的な問題の方が良いではないか。恋愛とか資格試験の苦手分野というような、今は自分の内側にはなく、うまくいけばやがては自分のものになるもの。視野が広がって、自分にのみ依存している人生が変わったり、あるいは「我はこういう者である」と勇気づけてくれるようなもの。

 もっとも、恋愛に対する興味は枯れて久しいし、いくつかある語学資格が活用できるシーンも限られている。ほとんどない。なかった。それでも、理論上は希望がある。机上のこれらをそう呼ぶことはできる。本当にそれらを包摂することを求めているかは別だが、そうでもしないとあまりに救われないではないか。

 金髪のクラッシック・スタイルのメイドが、アタッシュケースに主人の遺産を詰め込んだ状態で、窓から飛び込んで来る展開を待ち望んでいる。


『連休中に顔を出しなさい。食事に行くぞ』

 その連絡があったのが、昨日の夕方だ。追加のリマインドが今朝にあった。けれども気づいたのは、今、つまりはほとんど一日後のことだった。

 遅すぎる。

 こうなると、すべてが億劫になってくる。返信もそうだし、気づかなかった理由を当たり障りなく脚色すること、再発防止のための施策を考案することなど、やることが増える。爆発と言っても良い。父からの連絡は、爆弾が送られてくるのに似ている。

 〈家族〉とのやりとりも満足にできない自分に嫌気が差すし、右脳の上に停滞している社会の影が避難の雨を降らせてくる。

 あの手この手で責め立ててくる声は、要約すると「人間失格」ということになる。


 地軸は傾いているらしいが、ぼくはさらに傾いている。その誤差が糾弾の的となる。正しい角度に戻ることが求められているが、これは簡単じゃない。

 白状すると、ぼくは長らくこのズレに苦しんできた。結局のところ、「みんなと同じ」が良かったのだ――とは、急ぎすぎだ。もう少しペースを落とそう。


率先して世間一般から離れたことをしてきたが、そのことについての理解は欲しかった。


 大したワガママっぷりである。

 せめて分かりやすく説明できるように、と心がけてきたが、大抵の出来事は自分にとっても理解し難かった。その場その場でなんらかの解釈は発明してきたが、結局、心の奥底では納得しきれなかったのだ。これは理論の隙のなさとかの話ではなく、理論の生きる世界の態度の話である。

 簡潔に記せばこうだ――


おれにはジンクスがある。なにかひとつのことを決めると、必ずそれが否定されるんだ。

 

 ぼくが自分に降りかかった出来事にひとつの解釈を与える。その瞬間は安定して見えるのだが、近いうちにそれが揺るがされたり、否定される出来事が起こる。ぼくだって自分の不安定さに倦んでいる。いい加減にしてくれ、と何度唱えたか分からない。叫ぶ気勢はすでに削がれている。

 環境が落ち着かないのだから、仕方がない。

 暫定的に定めた価値観も時間が経てば基盤になるだろうに、そうはならない。追試の嵐は果断なしに襲ってくる。物心ついた時から、後期重爆撃期の真っ只中にいるようなものだ。


 これを価値観のアップデートといえば聞こえは良い。

 もちろん、嵐の中で聞こえるというならの話だ。


 父とは疎遠だが、憎んでいるわけではない。探せば良い思い出もある。探さないとない。特段、しまい込んでいる訳ではない。見ないようにしているだけで、これも積極的なアクションではない。常日頃から、両親に対する感謝の気持ちと共に生きていない。というか、そもそも生きていない。生活とは何か。

 今ここにあるのは、各種支援、保険制度によって維持されている生存である。食費を極限まで抑えることには成功した。コーヒーとタバコだけが、唯一の娯楽である。であった。

 喜びなんてとうに摩耗している。コーヒーについては、飲まなきゃ頭が痛くなるからと、眠気が一向に取れないからだ。飲んでも取れない。タバコについては、はっきり言って不快である。自分が喫煙者であるにも関わらず、ぼくは副流煙が嫌いだ。しかし、惰性で過ぎ去る時間にいささかなりとも理由をつけるには、これが欠かせない。

 コーヒーとタバコをやめれば、もう少し食生活も豊かになるのではないか。そう考えたこともある。けれども、最近の節約生活を見れば、それも望めない。何を食べても美味しくない。何を食べても同じだ。同じものばかり食べている。本当は、食事こそをやめてしまいたい。しかしそうすると、また頭痛が来る。

 今回の食事のあとからは、心機一転、元気を出して、やらねばならないこと、やりたいことに取り組もうと思うこともある。そこから少しでも人生を好転させようと思いもする。そういう時は、コンビニの弁当かレンチンのラーメンを食べたりする。けれども全ては徒労に終わる。

 チョコレートの横に一列を、1/8の食パンに挟み、味のしないコーヒーで流し込む――それが基本的な朝食だ。たまに昼食として、120円くらいのカップ焼きそばを食べるが、ほとんどは一番安いパスタに納豆を和えて、和風パスタなどと言い張る。夕食も同じ。稀に、パスタにマヨネーズと胡椒をかけて食べる。何を食べても同じなら、味なんてどうでもいい。


 人生を無駄にしていると思う。

 問いをひっくり返して、無駄でない人生とは何か。

 こう考えてみると、そもそも設問自体が歪だと気づく。人生は後づけの呼び方であり、その良し悪しを評価するにあたって、はじめて内容が問われる。どのように過ごそうとも人生は人生だ。

 では、どうしてこういう設問を立てるのか。

 こちらの問いに対しては明確だ。今の生活に不満があり、焦りがあり、哀しみがあって、それらから離れたいからだ。脱却するには何らかの行動が不可欠だが、そんな気力はない。気力だけなら誤魔化しようもある気がするが、制度上の制約があり、さらには反動もある。肉体的な反動なら納得できるが、精神的な反動が辛い。それは極度の鬱状態に繋がる。これが恐ろしい。

 この恐怖こそ克服すべきだろう。

 多くのひとは、嫌なこともやっているに違いない。業務中の緊張とそれからくる止まない冷や汗、集中力が切れたときに襲ってくる無価値観、サルトルの言った自己欺瞞の苦しみ――そういうことに折り合いをつけているのだろう。美味しいものを食べて、趣味に興じ、一晩寝ればそれらを忘却できるのかもしれない。明日、同程度かそれ以上の嫌なことが待っていたとしても、緊張とか冷や汗、無価値観を「当たり前」として処理できるんだと思う。

 そこには、安定剤も睡眠薬もないに違いない。もちろん、副反応としての虚脱や自己否定もないだろう。喜びがあって、天啓とか、本能に基づいた使命のようなものがあるのだろう。「何のために生きるのか

」あるいは「なぜ働くのか」に対して、明確な答えがある。たとえば生活であったり、趣味であったり――どちらにしても、本質的だ。真理といっても良い。目の前の利益を追い求めることは、賢いひとからすれば近視眼的と言われもしようが、これにも否と言いたい。それはきっと正しい生き方だ。少なくも、楽しさを望めるならば素晴らしい。

 

 幼い頃、たしか父は言った。

「ひとのためになることをしろ」

 その例として出されたのが、外交官だった。小説家でも学者でもなかった。ぼくは当時から語学が好きだったし、そこそこ得意でもあったから、外交官という職業はひとつの目標にもなった。しかし、よく考えれば当然だが、あの試験には他のいろんな能力が必要とされている。ぼくは論理も数理もダメだった。時を経るごとに、そもそも国家などという壮大なスケールの責任を負うことなんてできないとも思うようになった。

 大体、語学が好きだったのは、自分の所属している世界とは別の法則で成り立っているからだった。見ているものはきっと同じでも、見え方が違う。表現も異なるし、文法からして別物だ。そういう、当たり前が崩れるのが好きだった。そんなぼくには、合意を求める職業になんて就くことはできない。


 コールセンターはやったことがある。あれは丸め込む仕事だった。奉仕の精神はあったが、責任なんてなかった。あれを合意とは言いたくない。相手の焦りや理不尽な怒りは理解できた。彼らも仕事で忙しいのに、それを妨げるトラブルが起きる――心中察するにあまりある。でもぼくにはどうしようもできなかった。

 ひとの役に立ちたいという気持ちはある。ひとと会うとき、必ずぼくはそう言うようにしている。しかし同時に、自分にそんなことができるわけないとも思っている。心理士やカウンセラー、相談員にそういうようなことを言うとき、嘘が混じっていたのも事実だ。そういうひとになりたい――この気持ちも、ひょっとしたら、親に吹き込まれた考えだとする者もいるだろう。

 正直に言えば、ひとの役に立たない自分は、この世に存在する価値がないのだと思っている。他者はどうか知らない。勝手に、自由にしてくれと願っている。ぼくの自分に対するこの考えは、誰が悪いわけでもない。頭の中の社会が要請してくるわけでもない。


 異なる言語間で、最低限の合意可能な認識を作るのは楽しい。そこを基盤に、たとえば観光案内をしたり、ホスピタリティを発揮するのも面白い。日本語も話者によって異なるのだから、意思の疎通を目指して対話を重ねるのも興味深い。そのはずだった。いつもではない。今のぼくには無理だ。


 父からの連絡を無視して、十日が経った。

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