第7話 人狼の声
⦅ひぃ、ひぃ、ひぃ⦆
頭に、耳障りな声が響く。ガラスの破片を耳に突っ込まれてこすり合わせているかのような不快な声は、あきらかに勇吾のものではない。
静寂が広がる深夜の駐車場の中でその声のみが頭に響く様は、声の主に包まれているようで――まるで、狼の腹の中に落ちてしまったような錯覚を覚える。
「なんなんだよ…これ…」
意味が分からない状況に勇吾は困惑するしかない。ただ、聞こえてくる声が事実を雄弁に伝えてくる。
人狼はいた。ただし、帰り道の暗闇の中にではなく、勇吾の頭の中に。
⦅お腹がへったろうぅ?夕餉に戻ろぉ⦆
語りかけてくる声はひどくしゃがれていて、獣の唸り声のようにも聞こえる。到底人のものとは思えない声は、否が応でもあの夜の人狼の大きく裂けた口を思い起こさせる。
⦅あの娘を、喰わせろぉ⦆
「ッ!!」
妹のことだ――すぐに気づく。人狼は、未だに有希を喰うことを諦めていない――!
そのことを認識した勇吾は、恐怖で震えている手を握りしめ、自分の中の人狼に向かって叫んだ。
「ふざけるな…!そんなこと、させるかっ」
喉も恐怖にやられているのか、上擦ったような声しか出てこない。人狼はそれを嘲笑うかのように大きく鳴き声をあげる。
⦅ひぃ、ひぃ、ひぃ⦆
まさか……こいつ、笑っているのか?
狼がニタニタと口を歪め、嫌らしく笑っている光景が思い浮かぶ。健気に反抗する哀れな子羊を、滑稽と嘲笑しているかのようだ。
⦅お前も一緒に味わおうぅ。あの娘の肉を⦆
「やめろ……」
⦅なあに、切り分けは俺がやってやろうぅ。お前は座っていればいい⦆
「やめ、ろ……」
⦅悩むことはないぃ――すぐに慣れるさ⦆
「やめろ!」
勇吾は力任せに、被っていた毛皮を強引に引き剥した。
人狼の声が遠のいていく。しかし、人狼が消えたわけでは無い。一時的に引っ込んだだけだ。
勇吾はそれを直観で理解した。人狼は毛皮にではなく、勇吾の中で舌なめずりをしながら潜んでいるのだと。
「……くそっ」
毛皮を握りしめた右腕を大きく振りかぶるが――手から離れない。無意識にブレーキがかかっているのか、中途半端に突き上げられた右腕がゆらゆらと揺れるだけだ。
毛皮を捨てることは、やはりできそうにない。
最早、猶予はない。このままでは近いうちに、再び人狼として襲い掛かってしまう。その確信が、勇吾にはあった。
(有希から……離れないと)
それしかない。解決方法は何もなく、行く当てもない。しかし、最悪の事態だけは避けなくては。
勇吾は誰もいない駐車場で一人、決意を固めた。
それしかないと。自分が半ば自棄になっていることに気づかないまま、そう思い込んでしまった。
◇
「……よし」
翌朝。リビング前の廊下で勇吾は妹に話す建前について目算を立てていた。おそらくはリビングで朝食を作っているであろう有希に、しばらく家を離れることを伝えなくてはならない。
筋書はこうだ。急遽泊りがけのバイトを紹介されたので、1週間程度家を空ける。紹介してくれたのはバイト先でお世話になった店主なので、どうしても断ることができなかった。
もちろん真っ赤な嘘な上に、人狼について1週間で解決できる当てがあるわけでもない。しかし、一刻も早く離れなくては――。
勇吾は口の中で作り話の台本を数回呟くと、意を決してリビングのドアを開けた。
「有希。話が――」
「お兄ちゃん。話があるの」
勇吾の声に被せるように、有希の方から呼びかけられた。予想に反して有希は、リビングのテーブルの席に待ち構えるかのように座っていた。
出鼻をくじかれ鼻白む勇吾だったが、有希は深刻そうな表情でこちらを見つめている。どうしても話を遮れる雰囲気ではなかった。
「ど、どうしたんだ?」
「お兄ちゃん。何か隠し事してない?」
「――」
思わず心臓が跳ねる。まさか昨夜の――人狼に身体を乗っ取られ、襲い掛かろうとしていたこと――が気づかれていた?
動揺でうまく回らない口でなんとか聞き返す。
「な、何かって……?」
「最近お兄ちゃん、ずっと上の空なことが多いよね?」
「ああ……そう、だな」
どうやら昨夜のことを言っているわけではないらしい。一先ずそのことには安堵するが――自分の苦悩については、妹はしっかりと感じ取っていたらしい。
さて、どう言ったらいいものか。直前まで家を離れることばかり考えていたせいで、うまい言い訳を思いつかない。
有希はこちらの反応を予測していたようで、勇吾の動揺を見てすかさず追い込んできた。
「やっぱり。ねえ、悩んでるなら私に相談して?私だってたまにはお兄ちゃんの力になりたいの」
「いや……。大したことじゃないよ」
気の利いたことが言えない自分に思わず舌打ちしそうになる。元々勇吾は嘘が得意な方ではないのだ。
しかし、とてもではないが本当のことも言うわけにはいかない。正直に話したところで、過労による幻覚を疑われるのが関の山だろう。
だが、有希は勇吾が遠慮していると受け取ったのか、なおも食い下がる。
「そんなわけないでしょ!食欲だって無いみたいだし、何かあったんでしょ?」
有希は席を立って勇吾に詰め寄ってくる。
「お願い。悩みがあるならちゃんと打ち明けて?家族なんだから…」
すぐ目の前には切羽詰まったような表情の有希がいる。本気で勇吾のことを心配しているのだろう。
しかし、勇吾の視線はその表情ではなく――吸い込まれるように、少女の白い首筋に――柔らかそうな腕に――注がれる。
家族を心配する健気な少女の声は。今の勇吾には――届かな――
喰いたい。
喰いたい。喰いたい。喰いたい。
喰いたい――
「やめろ!!」
頭の中で人狼が顔を覗かせたのを感じ取った瞬間、勇吾は叫んでいた。
思考を支配しようとしていた獰猛な欲求を、声と一緒に頭から排除する。今のは、危なかった――しかし、そこでハッと気づく。
有希は悲しげな表情でこちらを見つめていた。
「ちが…っ、今のは…!」
「なんで…そんなこと言うの?」
ポツリ、と。こぼれ落ちるように紡がれる悲しみに満ちた言葉。有希の目の端には涙が滲んでいた。
「私じゃ…頼りにならない?」
あまりにも悲哀に染まった言葉に勇吾が二の句を言えずにいると、有希はこちらに背を向けてテーブルに立てかけていた通学鞄を手に取った。
「……もういい」
その言葉を最後通牒のように告げると、勇吾の言葉を待たずにリビングを出て行った。
妹を傷つけてしまった。その事実に、勇吾はただ立ち尽くすしかできなかった。
◇
「……」
公園の隅にあるベンチに腰掛け、勇吾は一人黄昏れていた。
公園の中は、テントの骨組みや運び込まれたプロパンガスのボンベが無造作に置かれており、数十人の作業員が忙しそうに動き回っていた。
勇吾はそれらをぼんやりと眺めながら今朝のことを反芻していた。
(私じゃ…頼りにならない?)
有希の悲しそうな顔が頭を離れない。
何があっても守り抜こうと誓った大切な家族。だが実際はどうだ?人狼として襲い掛かろうとした挙げ句、手を差し伸べてくれた有希を自らの手で傷つけてしまった。
人狼のせい、といくらでも言い訳は出来るだろう。だが、そんな言葉では有希を守ることはできない。
自分は、妹の最大の敵となってしまったのだ。
(……もういい)
その言葉が鐘のように鳴り響く。
ついに、自分は見捨てられたのだと。もはや家族に近寄る意味も義務も無いのだと。勇吾は自責の念に押し潰されそうになっていた。
「おいーす!何してんの?」
そんな状態だからだろうか。いつもは敬遠していた声がやけに鮮明に聞こえたのは。
「小代田さん…」
そこには、プリンのような色合いの金髪に作業つなぎといった出で立ちの小代田がペットボトル片手に立っていた。
「奇遇じゃんこんなとこで」
「…小代田さんこそ。どうしたんですか?」
「俺はバイトだよバイト。明後日ここでフードフェスティバルやるだろ?その設営」
「ああ…」
今になって気がついた。そういえば毎年この公園でフードフェスティバルを開催しているんだった。
茫然自失状態の勇吾には何かやってるな、ぐらいにしか感じ取れていなかった。
「そんで?どうしたんだよボーッとして。お前も休憩中?」
小代田は持っていたペットボトルの水を飲みながら勇吾の隣に座りこんだ。
「…ちょっとバイトまで時間が空きまして。ここで時間を潰していたんですよ」
「それにしちゃ顔が暗かったけどな。自殺でもするのかと思ったぜ。…なんかあったのか?」
相変わらずズケズケとした物言いだな、と思いながらも勇吾は会話を止める気にはならなかった。もしかしたら、自分は誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。
「…実は妹と喧嘩しまして」
「妹ちゃんと?」
「はい。今朝少し口論になって――それで、傷つけてしまいました」
喋りながら子供染みているな、と自分の事ながら思う。まるで家出した小学生のような言い分だ。
流石にこれは笑われてもしょうがないな――そう思いつつ小代田を見ると、予想に反して小代田は腕組みをしながら難しい顔をしていた。
「そうかー…。そりゃ大変だな」
「…笑わないんですか?」
「何でだよ」
こちらが意外そうな顔をしていたのが気に入らなかったのか、しかめっ面をする小代田。
気を取り直すようにペットボトルの水を口に含むと、小代田も設営の喧騒を眺めながら語りかけてきた。
「俺もよく兄貴や親父と喧嘩するからな。そういう悩みはよく分かるよ。家族相手だと仲直りするのもなんだか恥ずかしいよな」
「そう、ですね」
「考え無しだった子供のころよりも難しいよな。大人になって、喧嘩になるのもお互いのこと考えてるからってのが分かってる分余計にな」
しみじみとした口調で喋る小代田。その言葉からは実経験から来る感慨が滲んでいた。
普段のおちゃらけた態度からは想像できない真摯な回答に小代田という人間の認識を改めていると、小代田はこちらに向けてニッと笑顔を作った。
「だからさ――こういう時は素直に行くのが一番だぜ」
「素直に…」
「ああ。思い切って自分の思ってること全部言って、すぐに謝る。単純だけどそれが最適解だ。何度も仲直りしてる俺が言うんだから間違いない!」
小代田は立ち上がりつつポケットに手を入れた。中から丸められた小冊子を取り出すとこちらに差し出してくる。
それはフードフェスティバルのパンフレットだった。
「美味いもん食いながらなら言いやすいだろ?やるよ。明後日ここで仲直りするといいんじゃね」
「…ありがとうございます」
「いいっていいって!」
小代田は照れくさそうに手を降ると、飲み切ったペットボトルをベンチ横のゴミ箱に突っ込んだ。
「仲直りできたら教えろよ!お礼は飲み奢り一回でいいからな!」
そう言うと駆け足でバイトに戻って行った。ひょっとしたらお礼を言われ慣れていないのかもしれない。
「仲直り…か」
確かにその通りだ。傷つけてしまったなら謝らなければ。家族なのだからそれが当然だ。
勝手に落ち込んでいる暇があるなら、さっさと人狼の問題を解決して謝りに行こう。
もちろん解決の目処が立ったわけではない。だが、勇吾の折れかけていた心に活力が宿った。
「よし…」
勇吾は立ち上がり、スマホのラインアプリを起動させる。もうなりふり構っている場合ではない。先輩に洗いざらい喋って協力を仰ごう。
『すみません、相談に乗って欲しいことがあるので、お会いできませんか?』
日奈子へのメッセージを打ち終えると、勇吾はバイトへ向かうために歩き出した。
怯えるのはもう止めだ。安息を取り戻すため。家族を守るため。人狼と戦うのだ。
人狼という怪物に立ち向かうのだ。どんな危険が待ち受けているかは分からない。だが、妹と仲直りするまで死ぬわけにはいかない。
「負けるものか」
決意を固め、勇吾は一歩を踏み出した。
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