第6話 狼は誰だ

「大神くん、大丈夫かい?顔色が悪いよ」


「……いえ、大丈夫です」


 ふと気が付くと勇吾は深夜のファミレスの厨房にいた。目の前には同僚の灰澤が心配そうに顔色を窺っている。

 昼間に日奈子から話を聞いて以降、記憶が曖昧だ。ちゃんとバイトはこなすことが出来ていたと思うが…どうだろうか。

 何しろ衝撃的な事を知ってしまったのだ。勇吾にはもう――自分のことが、わからなかった。


 俺は、人狼になってしまったのかもしれない。


 その言葉が、勇吾の頭の中で早鐘のように鳴り響き続ける。自分はもう人間では無い。そんな自分の根幹を揺るがす事実に、勇吾は茫然自失となっていた。

 最悪、自分の身については、いい。

 だが、自分が人狼となってしまったらまず最初に誰が被害を被るのか。

 普通に考えたら勇吾の家族――そう、妹だ。

 人狼となった自分が有希を喰らおうと襲い掛かる光景を幻視して――胸が引き裂かれるような痛みを覚えた。

 そんな結末は断固として回避しなくてはならない。しかし――解決方法が分からない。

 神社にお祓いに行けばいいのか、教会で悪魔祓いをすればいいのか。事が収まるまで家族や知人からは離れた方がいいのか。

 異常な状況に、起こるかも分からない未来に怯え、現実的でない方法を模索し続ける。勇吾の心はまるで――あの日の夜空のように雲がかかっていた。


「本当に大丈夫かい?よかったら相談に乗るが…」


「ちょっと家庭の事情でして…」


「…そうか。無理をしてはだめだよ」


 そう言うと、灰澤はそれ以上何も聞いてこなかった。家庭の問題と言えば、灰澤は踏み込むことはしない。そう分かっていたからこその詭弁だ。

 もしかしたら灰澤に頼る方法もあったのかもしれない。しかし、知人にも危害が及ぶかもしれないとの危惧と――わずかばかりの意地が、それを拒んだ。

 自分はまだ――大人に頼り切りの子供のままだ。

 自分は早く大人にならなくてはならない。家族を守るため。自分自身を守るため。そうでなければ――今までの自分の努力が全部無駄になってしまう気がして。

 そんな子供じみた考えが、勇吾を孤立させていた。周囲の人の安全を口実に、現実から目を背けていることに――勇吾はまだ気づいていない。


「じゃあ俺、冷蔵庫の整理してきます」


「うん。分かった」


 勇吾は灰澤と別れ、バックヤードの冷蔵庫に向かう。今日も相変わらずファミレスは盛況で、食材の消費が早い。

 日替わりのポークソテーとグリルチキンを多めに引き出す算段を整えながら冷蔵庫に向かうと――冷蔵庫の前で、男性が一人腕組みをしながら立っているのが見えた。


「うーーん…」


「店長。どうしたんですか?」


 眼鏡をかけ、前髪を七三分けに整えている恰幅のいい男性――店長の黒山が顎を擦りながら唸っていた。


「ああ、大神くん。いや、どうもね、在庫の数が合わなくてね」


「在庫ですか?」


「うん。日替わりの在庫が妙に足りないんだよ」


「今日もよく出ましたからねー。計上忘れじゃないですか?」


 消費の激しいメニューはどうしても記録が追い付かないときがある。過去にも、季節限定デザートの在庫が帳簿の数と合わなくて騒いでいたのを勇吾は覚えていた。


「まあ、そうだとは思うけどね。…けどなぁ」


「?」


「日替わりのメイン――肉ばかり数が足りないんだよ。付け合わせは合ってるのに」


「……肉」


 ぐらり、と。視界が揺れる。思い起こされるのは昼間のこと――知らないうちに空になったサラダチキンの包装。 

 まさか。――俺が、また?

 そんなはずは無い――とは言い切れない要因が、多すぎる。

 自分がまた人狼に意識を乗っ取られて、在庫の肉を食べたのではないか。そう疑心暗鬼に陥ってしまう。

 なぜなら、虚ろな目で冷蔵庫の中の肉を貪り喰う自分の姿が――容易に想像できてしまったのだから。


 グウ。


 腹の音が、鳴る。空腹を伝えるその音は――勇吾には、もっとよこせ、という狼の唸り声に聞こえた。


「まあ、あとで計算し直すよ」


 ショックを受ける勇吾のことは知らずか、軽い様子で黒山は手を振って去っていった。残された勇吾は、冷蔵庫の前でただ一人立ち尽くしていた。



「…灰澤さん、お疲れさまでした」


「ああ。お疲れ様」


 バイトが終わり、いつものようにロッカールームで挨拶を交わす2人。しかし、勇吾は少し後ろめたさを覚えた。先程のことが心に引っ掛かっていたのだ。

 (…親切心から声を掛けてくれたのに俺は…)

 理由があるとはいえ、少し冷たく突っぱね過ぎたのではないか。その自責の念が、勇吾を灰澤に向き直らせた。


「先程はすみませんでした」


「うん?何がだい?」


「あの…心配してくれたのに、邪見にするようなマネをして…」


「ああ、あのことか。いや、私の方こそお節介だったよ」


「いえ…そんなことはありません」


 勇吾は申し訳なさそうにするが、灰澤は気にしていない、という風に笑いながら手を振った。


「君もいろいろあるんだろう。そういうことに精一杯だと周りが煩わしく思えてしまうもんさ」


「すみません…。そう言ってもらえると…」


「何、私も昔の娘を見ているようでつい踏み込み過ぎてしまった。すまなかった」


「いえ、そんな…。娘さんがおられるんですか?」


「うん。もう結婚して家は出たけどね。昔は反抗期が酷くてねぇ」


 灰澤は懐かしむように笑った。


「手助けをしようとしても余計なことはするなってよく怒られたもんさ」


 苦笑してはいるが、その表情から家族を何より愛しているのが伝わってくる。


「…ご家族のこと、大切にされてるんですね」


「うん。君も、悩んだら家族に相談するといい。たとえ解決しなくても、心の拠り所になってくれるはずだよ」

 

 そう助言を残すと、帰り支度を済ませた灰澤は勇吾よりも一足早く帰っていった。


「心の拠り所…か」


 ロッカールームに一人残された勇吾は、妹のことを思い浮かべる。勇吾に残された最後の家族。明るく活発な性格で、文句も言わず進んで家事に取り組んでくれる良い子だ。時折ちょっと抜けたところがあるのが玉に瑕だが――勇吾の自慢の妹だ。

 ずっと小さな子供とばかり思っていたが、最近は背も伸びて、顔つきも大人びてきた。

 ――勇吾の守るべき存在。もしかしたら、その認識は自分の傲慢だったのかもしれない。少なくとも、有希のサポートに毎日助けられているのは事実だ。


(相談、か)


 もう少し、頼ってもいいのかもしれない。人狼のことを直接話すわけにはいかないが、不安を打ち明けるだけでも勇吾の助けになる。

 きっと有希も受け止めてくれるだろう。ああ見えて、意外と強かなのは勇吾も知っている。何しろ、家事に学業に専念しながら勇吾のことも気遣えるのだから。


(まったく、俺なんかよりもよっぽど大人だな)


 苦笑しながら帰り支度を済ませた。そういえば、サイズが合わなくなってきたから服を新調したいと言っていた。成長期ということもあってすぐ買い替えなくてはならなくて妹も大変だろう。


(昔はあんなにちんちくりんだったのになぁ)


 今は手足も長くなって、体つきも大人と言っても過言じゃないほど女性らしく成長して――





 とても――美味そうだ。





 がんっ、と。ロッカールームに乾いた音が響く。勇吾は頭をロッカーの扉に叩きつけていた。

 なんだ今のは。俺が考えたのか?

 ――家族が、美味そうだと?

 信じられない。いや、違う。心の底から、

 ついに自分は人狼になってしまったのだ、と。

 でなければ、ありえない。――家族の肉を喰らいたい、だなんて。


 グウ、とお腹が鳴いた。


 まるで、食事の準備を始めるかのように。

 勇吾はふらふらとした足取りでファミレスの裏口を出る。ふと顔を見上げると――頭上には、煌々と輝く満月が浮かんでいた。


「――」


 勇吾はそれをしばらくの間見入るように眺め――月光に魅入られたかのように、酔ったような足取りで帰路を歩き出した。

























 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。


 お腹がすいた。

























 丑の刻も過ぎた夜更けごろ。マンションの一室で、少女が一人眠っていた。寝苦しいのか、掛布団ははだけられ、少女の手足や白い柔肌が覗く。真夏夜が続いてるためか、部屋のベランダに当たる窓は半開きとなっていて、そこから夜風が部屋をそよいでいた。

 その部屋の扉が、ゆっくりと開かれる。音も立てず、開いた隙間から何かが忍び寄ってくる。

 窓から差し込み月光を反射して爛々と目を光らせて――ヒタリ、ヒタリと。ゆっくりと少女の眠るベッドに近寄ってくる。

 少女はそんなことはいざ知らず、いまだに眠りこけたままだ。その様子を見た何かは――口を釣り上げて、笑った。


 美味そうだ。


 口から熱い息を吐き、牙を剥く。

 ベッドに手を掛けてわずかに軋ませ、大きく開かれた口を少女の喉へと近づけていく。

 待ちかねた食事だ。早く牙を突き立てて喰らいつきたいが――せっかくのごちそうだ。ゆっくりと楽しもう。

 この肉はさぞ美味いのだろう。柔らかそうな肌は、力を込めなくても引き裂けそうだ。その中の肉も、内臓も、骨も。きっと、口の中で蕩けるように溶けて消えるはずだ――。

 ゆっくりと、ゆっくりと。よだれが滴る牙が少女の喉元に食い込んでいき――ふと、部屋の隅にある姿見が目に入った。そこには、




 醜く歪んだ獣のような笑みで、妹の有希に喰らいつこうとする――姿




 瞬間――勇吾の瞳に意識の光が戻る。

 猛烈な勢いで、勇吾は体を妹から引き剝がした。だが、体は未だに人狼に乗っ取られているのか、反発するように妹に再び迫ろうとする。

 

(やめろ――やめろッ!!)


 心の中で、自分に巣くう人狼に向かって叫ぶ。妹に、手出しなどさせるものか。

 すると――食事を邪魔されたことを怒るかのように、頭の中で獣の唸り声が聞こえたような、そんな気がした。


「ッ!!」


 何か打算があったわけじゃない。だが、このままでは確実に妹が襲われる。それだけは――何としてでも防がなくてはならない。

 だから勇吾は、家族の敵を排除するために――




 




 勇吾の部屋は3階。着地するならともかく――それでも大怪我は免れないが――考えなしの頭からの飛び込みだ。きっと、自分は助からない。それでも勇吾は――どこか家族を守れた安心感を感じていた。

 最後に目に映ったのは、夜空の月。

 

(ああ、綺麗だな…)


 そんな思考を最後に、勇吾は地面に激突した。







「……?」


 ハッと目を開ける。目の前にはアスファルトの地面と、自分の両手。


(生きて、いる?)


 そう認識した勇吾は、自分が部屋の階下の駐車場に両手と片膝を立てて着地していることに気づいた。

 体に痛みは無い。そしてこの格好からして、自分は空中で体勢を立て直して着地を成功させたことになる。

 そんなことは、ありえない。訓練を積んだ軽業師や、軍人ならあり得るのかもしれない。しかし、一般人の勇吾には不可能だし、何よりも傷一つ負っていないというのもありえない。

 それはもう――人間の所業では無い。


(一体、何が――?)


 勇吾が困惑していると――それに応えるかのように、何かの声がした。


⦅それは、困るなぁあ⦆


 脳内に、しゃがれた様な、擦れた声が響く。


「……ッ!?」


 思わず、身が縮こまる。人の声とは、とても思えない。まるで、ヴァイオリンの弦を引っ掻けた音が偶然人の声に聞こえたような――到底、人の意思が乗っているようには聞こえないような声が、頭の中に響く。


⦅まだ、何も喰ってないんだぁ。死んでもらっちゃ困るんだよ⦆


「人、狼……!」


 勇吾の戦慄する声のみが――深夜の駐車場に響いた。



 

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