第5話 空腹

 ボンヤリと目を覚ます。目の前に広がるのは見慣れた自室の天井。しかし、その光景はまるでガラス越しに見ているかのようにどこか現実味が薄い。

 視線を動かして部屋の壁を見る。壁の衣装掛けには当然のように毛皮が掛かっていた。


「……」


 諦観の混ざった溜息が漏れる。人狼の悪夢からはすでに3日が経過していた。あの後も、何度も処分をしようと試みたが――その全てが徒労に終わっていた。

 ゴミに出すだけでなく、街のゴミ箱に突っ込んだり、窓から放り出したりもしたが、そのたびに勇吾自身の手で取り戻していた。

 山や川に捨てに行こうともしたが、その時に限って毛皮を忘れたまま外出してしまうなど、あきらかに精神的な妨害を受けていた。


『呪い』


 最早そうとしか考えられない。自分の手で処分するのはおそらく不可能なのだろう。一度、妹や知り合いに代わりに処分してもらおうとも思ったが――呪いが転移するかもしれない上に、呪いを受けた自分がその人に対してどのような行動をとるのか未知数なため断念していた。

 もう自分自身すら――いや、自分自身だからこそ信用できない。今でさえ無意識に毛皮を取り戻す行動を行っているのだ。このままだとさらなる奇行に走りかねない。そうなる前に何か手を打たなければならない。

 おそらく、これ以上毛皮に対して自分ができることは無い。ならばやるべきことは一つ。


「今日は……先輩シフトに入ってたよな」


 情報収集。それが勇吾に残された手段だ。そもそも人狼の都市伝説は日奈子から聞いた話だ。何か有益な情報を知っている可能性が高い。

 流石に呪いの解き方、なんて直接的な解決方法が出てくるとは思わないが、人狼にもオカルトにも疎い勇吾には日奈子しか頼れる相手がいなかった。


「よし、そうと決まればバイトに行こう」


 ベッドから起きて支度をする。寝巻から着替えて、外出用のリュックサックに着替えを詰める。その際にビニール袋に包んだ毛皮も一緒に入れた。あまり近くに有ってほしくはないが――妹の傍に置いてあるよりはマシだ。


「お兄ちゃん、朝ごはんできたよー」


 部屋をノックしながら妹が呼びに来た。勇吾は返事をしつつ、手早く支度を済ませてリビングに向かった。



「いただきまーす」


「…いただきます」


 食卓について手を合わせる勇吾と有希。美味しそうに食べる有希とは対照的に、勇吾の食は進んでいない。

 目の前には妹の手作りの朝食。卵焼きと漬物、白米とみそ汁が並んでいる。普段ならば美味しそうに見えるはずなのに…勇吾にはそうは思えなかった。


(腹は、減ってるのに……)


 味覚障害は未だ続いていた。むしろ、3日前よりもさらに酷くなっている。普通の食事が美味しそうに見えない。無理に食べても旨味が感じられず、苦味や辛み、青臭さや生臭さといった味のクセばかりを鋭敏に感じ取ってしまう。

 その反面、空腹感は日に日に強くなっている。食事をとっても、なぜか満たされない感覚がするのだ。

 自分はもう普通に食事は取れないのか?――いや、違う。食べたいものは、ある。そのことから目を逸らそうとはしたが…しかし、食欲はごまかせない。


(……肉。肉が食べたい)


 唯一、肉だけは勇吾の食欲の対象だった。今の味覚の状態でも、肉だけは美味しく食べることができたのだ。いや、むしろ美味しく感じすぎるくらいだ。夕飯で出た、スーパーの特売の鶏肉の味に感動したのは生まれて初めてだった。

 そのせいか、気が付いたら肉のことばかりを考えている。肉が食べたい。今から買いに行こうか。早くかぶりつきたい。もう生のままでいいから――そんな思考に囚われるようになっていた。

 しかし、それを勇吾はそれを認めることはできなかった。それではまるで――獣のようではないか。


「お兄ちゃん?どうしたの?」


 食事に手をつけていない勇吾に不思議そうな顔をする有希。

 

「ああ……ちょっと考え事をしてた」


 怪しまれないように無理やり食事をかきこむ。途端に口内に不快な味が広がるが――それを無視して飲み込んだ。

 勇吾に残された猶予は、思っている以上に少ないのかもしれない――。



「おはよー大神くん」


「おはようございます」


 午前8時過ぎの喫茶店くろねこ。その厨房にて挨拶を交わす勇吾と日奈子。

 今日のシフトは2人とも1日中だ。加えて小さな喫茶店だから他にバイトはいない。オカルトのような他の人に聞かれたくない話をするときには好都合だった。


「あれ、それ今日の昼食?」


 勇吾が手に提げているビニール袋を指さす日奈子。あまり触れてほしくない話題なだけにバツが悪そうに目を逸らす。


「ええ…はい」


「今日はまかない食べないの?」


「ちょっとダイエット中でして…」


「ふーん?」


 日奈子がビニール袋の中を覗き込んでくる。袋の中には、コンビニで買ったサラダチキンが入っていた。

 高たんぱく低カロリーで主婦だけでなくアスリートにも人気が高い商品だが……勇吾は純粋に肉が食べたいがために購入していた。


「太ってるようには見えないけどなぁ。炭水化物を抜くダイエットは体に悪いよ?」


「ははは……」


 愛想笑いでごまかして支度をする。今はそんなことよりも聞かなければならないことがある。昼食を冷蔵庫にしまい込んだ後、日奈子のところに話をしに行った。


「先輩、聞きたいことがあるんですけど」


「うん?何?」


「この前話してくれた人狼の都市伝説のことなんですけど…」


「へ?」


 日奈子が目を丸くしてこちらを見てくる。まるで予想外といった表情だ。勇吾がオカルトの話題を話すのがよほど珍しかったのだろう。

 2人が雑談をするときにオカルトな話題になるのはよくあることだが、そういった話を切り出すのいつも日奈子の方だ。勇吾はそういう話題に疎いこともあり、もっぱら聞き役に徹することが多かった。

 

「ええっ、どうしたの!?大神くんからそういう話題を出すの珍しいじゃん!」


 日奈子が大きなリアクションとともに、目を輝かせて近寄ってくる。自分の好きなジャンルに興味を持ってくれたのが嬉しくてたまらないといった様子だ。


「はい、あの話がちょっと気になってて…。もう少し詳しく聞きたいんですけど…」


「ふふふー、そうかそうか。大神くんもついにオカルトにハマったかー」


 腕組みをしながらウンウン、と満悦な様子で頷く日奈子。……別にオカルトに興味を持ったわけでは無いのだが、今は黙っておく。

 そうして2人は作業に携わりながら雑談に興じ始めた。日奈子は調味料を補充しながら語りだした。


「人狼ねー。あれどこまで話したっけ?」


「被害者の女性は食べられていたって…」


「ああ、そうそう。どうもあの噂、警察関係者から漏れた情報みたいでね?結構信憑性はあるみたい」


「……機密ってそんな簡単に漏れるんですか?」


「今の時代、誰もがスマホで情報を発信できてしまうからねぇ。警察が漏らさなくても、その家族や関係業者なんかがSNSに書き込んでしまうんだよ」


「そういうもんですか……」


「警察も大変だよね…。それでね」


 日奈子は指を立て、一呼吸おきつつ、思い出すように指先をくるくると回しながら語り始めた。


「どうもその殺人事件が起きた日にね、現場周辺の住民が犬の遠吠えがうるさいって書き込みをSNSにしてたみたい」


「犬…ですか?」


「そうそう。大型犬が発するような大きくて野太い遠吠えだったんだって。だけど、そのあたりの住宅で小型の室内犬を飼ってるところはあっても、大型犬を飼ってるところ無かったらしいの。だから野犬でも迷い込んできたのかも、って書き込まれてたんだって」


「……もしかして、それが人狼の遠吠えだと?」


「うん。それが被害者の殺され方も相まって、都市伝説に結び付いたんじゃないかな。ネットだと現代に蘇った狼男伝説、なんて騒がれてるみたい」


「……」


 普段なら一笑に付すような内容ではあるが、人狼の悪夢と毛皮の呪いにくるしめられている勇吾には笑い事ではない。こうした噂も現実のものではないかと考えてしまう。

 それに、勇吾はこれらの情報から打開策を探らなくてはならないのだ。


「まあ、不謹慎ではあるよね。人が殺されてるのに人狼がどうとかって」


 こちらの沈黙を白けていると受け取ったのか、こちらを気遣うように日奈子は苦笑した。


「あ、いえ。……先輩は信じているんですか?」


「人狼を?うーーん……」


 宙を仰いで考える日奈子。わずかに思案した後、こちらに向き直る。


「正直どっちでもいいかな。いてもいなくても」


「え。そうなんですか?」


 意外な言葉に目を丸くする勇吾。オカルトが好きなのだから、当然そういった存在を信じているものとばかり思っていた。


「あはは、いくらオカルト好きだからって、現実に人狼がいるとは思っていないよ」


 日奈子は苦笑しながら手を振った。


「私が興味あるのは怪異そのものより、怪談や都市伝説の背景の方かな」


「背景ですか?」


「うん。…私が民俗学を専攻しているのは知っているよね?怪談や都市伝説って民俗学の視点から見ても中々面白いんだよね」


 そこで日奈子は作業の手を止めた。指を立てて、授業を行う教師のように勇吾に説明し始める。


「その怪談がどのような経緯で成立し、どういう過程で広まったか。そういうメカニズムを解明していくと、その土地の文化や風習、信仰や生活様式なんかと密接に関わりがあることが分かるんだよね」


 怪談を怖い話としか見ていなかった勇吾にとっては目から鱗だ。そういう見方もあるのか――と勇吾が思っている間にも授業は続く。


「たとえば人狼にも起源は諸説あってね。ヨーロッパ地方の昔話が原典とされてるけど、人間が狼に変身した逸話や半狼半人のお話は紀元前から存在するんだよね」


「そんなに古いんですか?」


「うん。神話や旧約聖書にも登場するくらいだよ。つまり、大昔から狼は人間にとって恐れられてきた存在であると同時に、悪や異端とされた人間を狼と称してきたということでもあるんだよね」


「悪…」


「3匹の子豚然り、赤ずきん然りね。狼は家畜を襲う害獣だから、畜産文化の歴史が長いヨーロッパ圏だとそれが顕著かな。でも、逆に狼を神聖なものとして扱ってる文化圏ではまた別の見方もあるのよ」


「そうなんですか?」


「近いところだと北海道のアイヌ文化がそうかな。狼や羆なんかの獣が神の別の姿って信仰をされていて、祈祷師が狼の毛皮を被って神降ろししたりするの。だから、狼に変身することは神に近づく行為とされている地域もあるってことだよね」


「毛皮…」


 思わずリュックサックの中身が思い浮かぶが、あれはそんな神聖なものではないだろう。今は無視しておく。


「まあそんな感じで、人狼一つ取っても文化圏によって捉え方が全然違うのは面白いよね。私はそんな視点でオカルトを検証するのが好きなんだよ」


「へえ……」


 純粋に感心して聞き入ってしまったが、話が逸れてきた。今勇吾が必要としているのは都市伝説の方の人狼なのだ。

 勇吾は軌道修正を図るために口を開いた。


「すみません、都市伝説の方なんですが…他にはどんなことが言われてるんですか?」


「ああ、ごめん。話が逸れたね。…でも私が知っている情報はそれぐらいかなぁ」


「そうですか…」


 簡単に解決法が見つかるとは思ってはいなかったが、それでも落胆の思いは隠し切れない。何か糸口になるような情報でもあれば良かったのだが…。

 落胆する勇吾の気持ちを感じ取ったのか、日奈子は付け加えるように話を続けた。


「人狼についての話ならもう少し知ってるんだけどね。満月を見ると変身するとか、銀の銃弾に弱いとか…」


「ああ。有名ですよね」


 しかし、知っているのは人狼の特徴だけのようだ。人狼の呪いなんてものは流石に管轄外なのだろう。勇吾も人狼が呪うなんてことはまるで知らなかったのだから、そもそも伝説には無い要素なのかもしれない。


「あとは人狼に襲われた人も人狼になるぐらいかなー」


「………は?」


 あまりにもあっさりと言うのでそのまま流しそうになるが――聞き捨てならない発言に思わず聞き返してしまう。


「人狼に…なるんですか…?」


「あれ、知らない?結構有名な話だと思うけど」


 日奈子はなんてことはないように軽く言うが、勇吾にとってはとんでもなく重大な発言だ。

 襲われた者も人狼となるなら。あの夜襲われた勇吾は――。


「そう、人狼ってうつるんだよ。襲われた人が人狼に変化した、っていう逸話があちこちの伝承にあるからね。だから、狂犬病や性病なんかの感染症のメタファーなんじゃないかっていう学者さんもいるぐらい」


 自分が――人狼になる。途端にそれまでの異変が一気に繋がってくる。

 味覚に障害が発生したんじゃない。もし肉食獣の味覚に変化してきたとしたら――。


 グウ。


 図ったかのように腹が鳴った。思わず腹を抑えるが、急に湧いた欲求は止まらない。

 

 お腹がすいた。肉。肉が食べたい。食べたい。食べたい。


 頭の片隅からそんな声がするようだ。勇吾はその欲求から必死に目を逸らしていると、日奈子はクスクスと笑い出した。


「どうしたの大神くん、もうお腹減ったの?さっきサラダチキン食べたのに?」


「いえ、そういうわけでは………えっ」


 今何と言った?


「支度してた時食べてたでしょ?ダイエットのし過ぎで我慢できなくなったのかと思ってたけど」


 慌てて冷蔵庫を開く。勇吾の入れたビニール袋は有ったが――その中身はサラダチキンの包装のみ。肝心のチキンは無くなっていた。


「俺が……食べた?」


 記憶が無い。俺はもう――人狼になってしまったのか?

 分からない。ただ、サラダチキンを無意識に食べてしまったという事実のみが勇吾の心に重くのしかかっていた――。

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