第3話 夜道にて

「大神くん、お疲れ様」


「あっ…灰澤さん、お疲れ様です」


 深夜のファミレスの更衣室で勇吾は我に返った。

 あれから「くろねこ」でのバイトを終えた後、勇吾はファミレスのバイトに勤しんでいた。

 最初のうちは先輩の話した都市伝説に気を取られもしたが、夜間のファミレスバイトは激務だ。気がついたときにはそんな与太話はあっという間に忘却の彼方へと過ぎ去り、無心で業務に没頭していた。

 今は勤務時間を終え、更衣室にて帰り支度をしている最中だった。


「灰澤さんも今帰りですか?」


「うん。今日も疲れたねえ」


 目の前で同じく帰り支度をしているのは40代後半といったところの白髪交じりの髪が目立つ中年男性。灰澤という名の同僚だ。

 勇吾よりも二回りも年上ではあるが、最近バイトに入ってきたばかりの新人で、勇吾の後輩だ。

 最初は年齢差もあって中々接しづらくはあったが、灰澤の人当たりの良さもあって、今や同僚として問題なく付き合えている。


「ここ最近妙に来客数増えましたよね。今日も日替わり定食在庫切れになってましたよ」


「あれじゃないかな。フードフェスティバル。確かこの近くでやるんだよね?その準備で人が増えてるんじゃないかな」


「あー…。そういえばそうでしたね」


 世界フードフェスティバルといえばこの町でも有数の観光イベントだ。世界中から有名店を誘致していることもあって、毎年かなりの盛況となる。去年も欧州最高級のステーキ店が出店するということでテレビ中継も行われた。

 昔はともかく、最近は家計状況的に参加できていないため、すっかりと忘れてしまっていた。


「大神くんも行くのかい?彼女とかとさ」


「いやいや。彼女なんていませんし、俺の懐事情じゃそんな余裕ないですよ」


 実際、家庭環境に問題を抱えている勇吾にはイベントごとに出費する経済力は無いし、そのつもりもない。

 すると灰澤はしまった、というふうに申し訳なさそうな顔をした。


「ああ…。ごめん、不躾だった」


「いえ、おかまいなく。俺はともかく、妹は行きたがるかもしれませんね」


 気にしないで、という風に手を振る。他人に家庭事情を触れられたくないのは事実だが、腫物扱いされるのもむず痒い。


「へえ、妹さんがいたんだね」


「ええ。ただ、そんなことはおくびにも出さないと思うので、当日に無理やりお小遣いを握らせるつもりです」


「ふふ。良い妹さんだね」


「はい。家族として俺なんかにはもったいないくらいです」


「君も。兄妹想いの良いお兄さんだ」


「……どうも」


 まっすぐな誉め言葉に内心恥ずかしく思いながらも、手早く支度をすませ、挨拶をしてから足早に店を後にした。

 店の裏口を出たところでスマホにLINEで着信が入っていることに気づく。妹からだ。


『お兄ちゃん今日も遅い?いつもどおり夕飯は冷蔵庫に入ってるから』


「了解、っと」


 手短に返信を送るが既読はつかない。夜の3時を回っているのだから当たり前だろう。すでに学生は寝る時間だ。

 スマホをポケットにしまい、深夜の夜道を一人歩く。


「はー……疲れたな」


 思わずこぼれる言葉に覇気はない。フリーターになってもう3年も経ち、幾分か慣れてきたとはいえ、労働による倦怠感は如何ともしがたい。

 帰り道の住宅街は、家々からの灯りもすでに無く、月明かりと点滅する街灯のみが不安げに照らす暗闇だ。

 だがそれに怖がるほど勇吾も子供ではない。いや、子供ではなくなってしまったと言うべきか。


「良いお兄さん、ねえ」


 なれているのだろうか、と心中で呟く。

 3年前のあの日から、勇吾はただがむしゃらに働いてきた。その必要があったとはいえ、他にもやりようがいくらでもあったのではないだろうか。自分はただ――悲しみから目を逸らすために労働に逃避していただけではないのか。そんな思いが日に日に募ってゆく。

 3年前。勇吾の両親は交通事故で亡くなった。出先の高速道路でトラックに衝突。相手の運転手と共に即死だった。

 その日から、残された勇吾はただ一人の家族である妹を守るために必死だった。高校を卒業して後、すぐにあらゆるバイトに就いた。

 不幸中の幸いだったのが、親戚の叔父が後見人になってくれたことだ。勇吾が高校を卒業するまで面倒を見てくれ、両親の財産の管理や勇吾たちへの相続手続きも全て請け負ってくれた。今は仕事の都合で海外に行ってしまっているが、叔父には感謝してもしきれない。

 そう、自分たちは叔父が守ってくれたから、今も自分たちの家で一緒に暮らせている。自分はまだ――大人に頼り切りの子供のままだ。

 兄として――なんて虚勢を張って、現実を見たくないがために周囲の言葉を無視してバイトに明け暮れているばかりだった。そんな人間が、良いお兄さんなどと呼ばれていいのか?

 そんな益体もない考えばかりが脳内を埋めていく。疲れ切っているときはいつもこんな調子だ。ネガティブな思考に陥りやすい。


「はあ…しっかりしないと…」


 駄目な兄貴だろうと、自分の収入が必要なのは確かなのだ。せめて妹が成人するまで、自分が折れるわけにはいかない。


「明日は昼からだったな…早く寝ないと」


 明日の予定を確認しながら夜道を歩き続ける。今はただ帰り道に集中するのみだ。

 そのせいだろうか。――人気のない夜道に、勇吾以外の足音が増えていることに気づかなかったのは。


「……ん?」


 ヒタリ、ヒタリと。素足でアスファルトを歩くような音が耳に届く。自分のスニーカーの足音とは明らかに違う。

 背後の暗闇から、まるで自分の歩みに合わせるように。

 ヒタリ、ヒタリと――。


「……」


 恐る恐る振り返ってみる。夜道を歩いて目が慣れたとはいえ、街灯の少ない住宅街は物陰が濃い。

 植込みの後ろ、路地の裏、電信柱の影。あらゆる物陰に何かが潜んでいるんじゃないか――。そんな考えがじわりじわりと思考を蝕んでいく。

 思い起こされるのは、今日聞いたばかりの人狼の都市伝説。


 ――ねえねえ、こんな話知ってる?月夜に現れる人狼の話――。


 頭に先輩の声が響く。

 思わず頭上を見上げると、薄く、雲がかった楕円の月が、夜空をおどろおどろしく染めながら浮かんでいた。

 その光景が直視出来ずに、視線を戻す。すると――


「……えっ」


 いる。20メートルほど離れた場所の電信柱。

 その下に、何かの黒い影が蹲るようにしてこちらを見ている。

 そう、見ている。暗闇の中、月光を反射して爛々と輝く2つの目。その眼光は確実にこちらに向けられていた。

 

「嘘だろ…」


 ありえない。そんな言葉ばかりを心中で呟いてしまう。

 あの輝く目は人の物ではない。夜を見通す肉食獣の物だ。かといって野犬とも違う。何故なら――その影は明らかに人間よりも大きい。そんな獣が住宅街の一角に潜んでいていいわけがない。

 もし、あの獣に襲われたらどうなるのか。思わずそんな恐ろしい想像をしてしまう。

 

 ――遺体は食べられていたんだって――。


 脳内に浮かぶのは、無惨に食い散らかされた自分の姿。道の真ん中で臓物をさらけ出し、血で街角を染めている。

 逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ!

 思考が絶叫する。しかし、それとは裏腹に、身体は微動だにしていない。

 まるであの眼光に射止められているかのようだ。少しでも視線を動かしたら最後、獣の牙が自分の喉元に突き立つことを本能が知っている――そう感じさせるには十分なほど、獣の威圧感が凄まじかった。

 

 ヒタリ。

 

 獣が動き出す。その動きはまさに肉食獣を彷彿とさせる。こちらに向けられた眼光は揺れず、四肢だけが動いて距離を詰めてくる。

 

 ヒタリ、ヒタリ、ヒタリ。

 

 歩幅が人間よりも広いのだろう。僅かな歩数で獣は勇吾の目の前にまで迫っていた。

 肉の腐臭のような嫌な匂いが鼻につく。口腔から漏れる息の生暖かさまで感じるほどだ。


(人、狼…)

 

 闇夜に紛れていた獣の姿が見える。全身を毛皮が覆い、輝く目の下には、鋭い牙を覗かせる巨大な口があった。

 俺なんて丸呑みできそうだ――。そんな場違いなほど間の抜けた思考が脳裏をよぎる。

 人狼がゆっくりと立ち上がる。

 輝く眼光が持ち上がってゆき、勇吾の視線をやすやすと超えた。

 人狼の身長は2メートル後半といったところだろうか。もはや人外であることは疑いようがない。

 

(俺が死んだら――アイツ泣くだろうな)


 脳裏に妹の顔が浮かぶ。唯一残された大切な家族。思春期だというのに、ワガママ一つ言わず、自分の身を案じ続けてくれた。しかし、最近は忙しくてまともに会話すらできていない。

 自分は駄目な兄貴だ。

 思わず胸中で自らを卑下する言葉が漏れる。

 だけど。だからこそ。


(泣かせていいわけ、ないだろ…!)


「う…うおおっ!」


 金縛りが解けたかのように身体が動く。踵を返し、がむしゃらに手足を動かして走り出した。


(逃げろ!死んでたまるか!)


 バタバタとしたみっともない走り方だが、気にしている余裕はない。少しでも速くあの化け物から遠ざからなくてはならない。

 走る。走る。走る。

 あと少し走れば大通りに出れる。そこまで行けば何とかなる。しかし――


「ぐっ…!?」


 足に鋭い痛みが走る。踏み出す足は力を失い、勢いのまま地面に転がった。


「ぎぃ…うう…」


 全身から焼けるような痛みがする。アスファルトの上を全速力で転んだのだ。擦り傷だらけだろう。


「はあ、はあ、…ぐうっ」 


 荒い息を吐きながら足元を見る。右足のズボンのふくらはぎの部分が切り裂かれ、そこから血がじっとりと染み出していた。


(人狼の爪で――?)


 そう思ったのも束の間、巨大な影が横たわる自分に覆いかぶさってきた。


「ひっ…!?」


 喉から掠れた悲鳴が漏れる。人狼はそれを笑うかのように、大きく口を開ける。

 血に濡れたように真っ赤な口内。鋭い牙がズラリと並んだそれは、まるで断頭台のようだ。

 ゆっくりと近づいてくる明確な「死」に、最後に思い浮かぶのは妹のこと。


(有希。ごめんな…)


 妹に謝罪すると同時に――喉元に激痛が走った。皮が裂ける音、骨が砕ける感触。火傷しそうなほど熱い血の流れを感じたのを最後に――勇吾の意識は闇に呑まれた。



「………」

 

 ボンヤリと目を覚ます。視界に広がるのは見慣れた自室の天井。


「…生きてる」

 

 まさか夢だと言うのか?あの生々しい牙の感触も全て?

 恐る恐る喉元に手をやるが、牙の跡も、血に濡れている様子も無い。


「はあ…」


 思わず溜息をつく。この歳になってこんな悪夢を見るなんて。まさに最悪の夢見だ。


「お兄ちゃん起きてる?」


 額に浮かんでいた冷や汗を拭っていると、自室のドアがノックされ、外から遠慮がちな声が聞こえてきた。妹の咲希の声だ。


「ああ。入っていいよ」


 ドアが僅かに開かれ、ひょこっと顔覗かせる制服姿の妹。

 ショートカットの黒髪にくりくりとした大きな瞳が活発そうな印象を与える子だ。

 大神有希、高校一年生。それが勇吾に残された最後の家族だった。

 有希はおずおずと入ってくると、申し訳無さそうに一枚のプリントを渡してきた。


「寝てるところごめんなさい…保護者のサインが必要なプリントがあって…」


「いいよ気にしなくても。ちょうど起きたところだったから」


 妹を安心させるために軽い口調でそれ――保護者面談のプリント――に手早くサインと希望日を記入する。

 プリントを返すと、なおも妹は不安そうな顔をして聞いてくる。


「でも…本当に大丈夫?ゆうべとかフラフラだったし…」


「…ゆうべ?」


 妹のその顔と言葉に嫌な予感が急速に湧き上がってくるのを感じる。

 脳裏に浮かぶのは悪夢に現れた人狼。しかし夢は夢だ。あんなものが現実に存在するわけがない。


「うん…。私、お兄ちゃんが帰ってきたときちょうどトイレで起きてたんだけど…。おかえり、って言っても返事無いし、フラフラってすぐに自分の部屋に戻っていったから…凄く疲れてるんだなって…」


 昨夜。アレが夢だと言うなら。

 ――俺は何をしていたんだ?

 思い出せない。――いや、違う。本当は分かっているはずだ。あの悪夢が、夢などではないことを――。


「それと、帰ってきたとき大きな荷物持ってたけど…ひょっとしてそれ?」


 部屋の壁を指差す有希。指差す方の壁は衣装掛けくらいしか無いはずだ。

 だが――見てはいけない。それを認識してしまったら――もう戻れない。そんな漠然とした恐怖を感じる。

 だが、意思に反して首はゆっくりと回ってゆき、妹の指差す方へと視線を向けてしまう。

 そこには――。


「そん、な…」


 灰褐色の毛色。犬とは違う荒々しい毛並。悪夢の人狼を思い起こさせるような毛皮が――部屋の衣装掛けに掛かっていた――。




 

 

 

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