第3話 牙の意味
幾度目かの死を覚悟したチィ、極度の混乱からか木の枝を持ち地面に四つの線を書き始めた。
「ま、マルバツ勝負しようよ。私から始めるね……」
【そこまで切り替えられるのはある種の才能だね】
震える手で中央に丸を書くチィ。
枝が爆ぜる音で正気に戻った彼女は恐る恐る焚き火の奥を覗いてみると、そこには深い森しか確認出来なかった。
「な、なーんだ、見間違いかぁ……」
【いや、キミが地面と遊んでいる間にそこに倒れ込んだよ】
焚き火の真横に見える鋭い爪。
木の枝を持ち直し身構えたチィは、ゆっくりとその全貌を確認する。
確かに、本で見た通りの場所に毛が生えてはいるが……それは獣と呼ぶには似つかわしくない程に美しいものであった。
そして先程は恐怖心から巨大に見えたその身体も、村の大人程度の大きさ。
どうやら女性の獣人であり……背中には何かに抉られた跡、そこから大量の血を流していた。
「ど、どうしよう!? この人怪我してる……あの、大丈夫ですか?」
「…………殺してやる……」
うつ伏せで顔だけしか動かすことの出来ない獣人。
しかし、それでも噛み殺そうとチィを睨み付け威嚇している。
そんな獣人を見つめたチィは立ち上がり、何かを探すように辺りを見回した。
深い森、焚き火の灯りが寂しく揺らいでいる。
「ねぇ、あなたの力で明るく出来ないかな?」
【キミが私を認識出来ているだけで、ワタシは干渉出来ないんだ】
「ニンシキ……カンチョー……」
【凄い、一瞬にして思考停止してる】
大きく息を吸い己の頬を数回叩いたチィは、握りしめていた枝に火を灯し始めた。
超感覚が無かった彼女は、人一倍図鑑を見る時間が多かった。
例え特別な力が無くとも冒険者になるという夢を諦めなかった彼女は、その時間が間違っていなかったと心の中で小さく頷いていた。
【へぇ、その木の枝は他の物と比べて一気に燃えないんだね】
「この木はね、枝の先端まで樹液が豊富に含まれてて……その樹液は木蝋と同じような成分なの。昔の人はこの木を灯りにしてたんだって。ふふっ、全部本に書いてあった事だけど」
【こうしてキミの役に立っているんだから、その本を読んだキミの功績でしょう? 良かったね】
「…………ふふっ、そうだね。良かった♪」
どんな時でも明るく振る舞ってきたチィだが、それは心にしまい込んだ混沌とした感情の量と常に比例していた。
人々の心無い声や視線。それでも己を鼓舞し肯定し続けた彼女は、今この瞬間星の子にされた小さな肯定に、どれほど救われただろうか。
灯りをもとに、様々な草を集めるチィ。
ある草は潰し、ある草は煮る。
冒険者には必須と考えていた彼女は、薬草作りの本も熟読していた。
「で、出来た……これをあの人に……」
弱りきった獣人に近づき治療をしようとしたチィだが、近づけすぎたその指を思い切り噛まれてしまった。
衰弱したその牙でさえ、彼女の指を血塗れにするのは容易である。
「触るな……殺してやる…………」
「っ…………いいよ? あなたが元気になったら、思う存分私を殺して。本当はもっと力強く……私の指なんか噛み千切れるんでしょう? 元気になって、私にその姿を見せてほしいな」
揺るがぬ両者の瞳。
涙で滲むチィの瞳を見た獣人は、静かに瞳を閉じると一言……「好きにしろ」、と言い残し地面に頭を叩きつけ俯いた。
「傷口に沁みるけど……ごめんなさい」
水分を豊富に含んだ木を切り、殺菌効果のある薬草と共に傷口を洗う。
「これ飲んで。痛いのが和らぐと思うから」
器に入れられた薬草に口をつけない獣人。その間に、チィは小型の刃物を焚き火で熱していた。
「今からこの刃物であなたの傷口を閉じるんだけど……凄く痛いって本に書いてあったから……その、少しでも緩和したいの。お願い、その薬草を飲んで」
獣人、されど微動だにせず。
そんな獣人を見たチィは、熱したナイフを自らの傷口へ付けた。
「っ!!!! ………………ふふっ、ね? 物凄く痛いけど傷口は塞がるの。分かった?」
「………………お前に我慢出来て私が出来ない筈はない。早くやれ」
その会話が嬉しかったチィは指の痛みなど忘れてしまい、少し近づけたその距離感に高揚した。
獣人は心許した相手にしか会話をしない。もし本に書かれていたことが本当ならば……そう思うと、堪らなく嬉しくなる彼女。
ナイフを握る手に、俄然力を込めた。
「じゃあ……いくね?」
◇ ◇ ◇ ◇
旅立ち初日の疲労と心労、深い森に微かな陽の光が差してもチィは眠りについていた。
一方の獣人は、フラつきながらも歩くことが可能なまでに回復していた。
チィの喉元に爪を突き付け力を込める。
何故か震える指先に困惑している獣人を他所に、寝ぼけ眼に微笑むチィ。
「あ……おはよぉ……もう動けるの?」
「…………人族は皆お前のように馬鹿が多いのか?」
「ふふっ、私が特別おバカなだけだよ? 私、チィ。あなたの名前は?」
チィが一つ微笑むと、柔らかな風が靡いた。
それはまさに彼女を表しているようで、掴むことの出来ない風を相手している感覚になる獣人。
そんな温かく緩やかなチィに根負けするかのように、獣人は牙を見せた。
傷つける為ではなく、安心させる為の牙を。
「私達獣族に名は無い。昔はあったらしいが……私達が獣人と呼ばれてからは、そんなもの無くなった」
その言葉一つひとつに口惜しい思いを感じ取ったチィは、目の前の彼女の柔らかな前髪を優しく撫でて……また一つ、風のように微笑んだ。
「じゃあ私が名前をつけてあげるね。えっと……」
三色の毛、美しい青い瞳。
鼻先は猫のようで、その可愛らしさに思わず笑うチィ。
「な、何が可笑しい?」
「ふふっ、可愛いなって」
「ば、馬鹿なことを……誰が……可愛いだなんて……」
獣人特有の尻尾が、否応なく左右に揺れていた。
見つめ合う二人、風が一つ凪いた。
「ふふっ、あなたはミケ。三色のミケ。どうかな?」
「……好きにしろ」
そっぽを向くミケだが、相変わらず尻尾だけは素直に揺れていた。
安堵したチィはまた目を瞑り、二時間程の眠りにつく。
その間、ミケは彼女を見守るように見つめ続け……気が付けば、風が優しく二人を包んでいた。
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