5.教義のない国
そしてさらに数日後。
私は周辺を回って、少しずつ水を浄化させるのが日課になっていた。
今日は外交官の彼らと見た川をすこし上流からきれいにして、一息つく。やはり何にしても汚いよリきれいになった方が気持ちがいい。
それは私が、私のためにやっていることだった。
「やっぱりー! あのヒト、女神様だよ。お母さん!」
そんな声に振り返ると子供がこちらを指さして母親に嬉しそうにそう訴えていた。
あれだけ大きな館ができたこと、それからこの国の人たちはすぐに情報が回るらしいので、明らかに異国の姿をした自分が歩き回ってもあからさまに何かを言ってくる人はいなかった。
だからそれが初めて民間の人間が「私を認識した」と私が感じた瞬間だった。
母親は焦ったように子供をなぜか小さく叱りつけて、すみませんと何度も遠巻きに謝りながら子供を連れて逃げるように去っていった。
「……」
やはり、異郷の人にはなじめない。
こどもはどの国も大差はないようだけれど、それぞれ信仰や「教育」が違えば大人の考えが違うのは仕方がないことだ。
私はそれを見送って、館に戻った。その日は外交官の訪れる三度目の日だった。
* * *
「アパーム様、それ多分、違います」
さきほどあったこと。感じたこと。それを素直に彼に話すとなぜか少しの間のあと、苦笑とともにそんな言葉が返ってきた。
今日も外交官と書記官、という形で二人揃って来ている。
前回の一件で、彼らと話すことに抵抗はほとんど感じなくなっていたし、外に出ることが増えたら以前よりふさぎ込むことも少なくなっていた。
だから、話せたのだろうが、まだわからないことの方が多い。
「むしろこの周辺の住民は羨ましがられてます」
「羨ましい?」
聞き返すとこういわれる。
ネットでも川がきれいになったとか環境が良くなったとか、こどもの水遊びができるようになったとか。
「口コミ」というものでこの辺りに遊びに来る家族連れが増えているらしい。
……そういえば、小さなこどもを見かけることが多くなった気がする。
「その母親は、アパーム様から逃げたんじゃなくて子供が失礼なことをしたから恐縮してその場から離れたのではないかと」
「そうなの?」
「インドの人はわかりませんが、日本人は割とシャイというか物理的な距離を取るのが普通、みたいなところがあるからその可能性の方が高いと思います。異文化の壁を感じます」
苦笑した外交官の横で、そうため息をつく書記官の彼女。
誤解だったらしい。
「アパーム様とアグニ様がここにいることは、自治体……街の方でとっくに周知してるし、最近アグニ様は火力発電でものすごく頑張ってくれてるし、人間側は大分感謝してるはずなんですけどね」
感謝。
宗教というものがない国でその言葉が出てくるのが少し不思議だった。
人は教義をもって初めて、道徳的な生活を送る。
それが信仰のある国々での共通見解であったから。
わからない。
「この国には……神様、はいるけど宗教はないのよね?」
私は思い切って聞いてみた。
「神道のことですか? 宗教ではないとは言われていますけど、ふつうに信仰の対象ですよ」
「? 宗教ではないけど信仰するの?」
「そこは……うーん。忍、悪いけど何か説明できる?」
「私見ですが、日本人はこんなふうに宗教に疎いです。確実に何かに分類するわけではないのに、大体信仰しています」
「? ? ?」
ますますわからない。
この国が来るもの拒まずなのは知っていたはずだけれど、それで「信仰している」というのが私の中では成り立たない。
おそらく、私だけでなく多くの異教の存在にとってそこはそうだと思うのだけれど。
彼女は続けた。
「秋葉を例にしたら分かりにくかったらしい」
「アパーム様、オレとか典型的な例ですが、よくわかってないのに日本人は神社で手を合わせたりそこらへんにお地蔵様があったら花を供えてみたりする民族です」
なんとなくイメージが生まれた。
「そもそも神道が宗教じゃないと言われているのは教義や経典がないからで」
「そういえばそうだな。聖書とか戒律とか、存在しないよな」
「こんなふうにそのこと自体に疑問を持っていない日本人が過半数です」
今度はものすごくわかりやすかった。けれど、それは更に私を混乱させる言葉でもある。
「教義が……ない?」
「ありません」
「……教義がないのに、なぜ日本人は神社に手を合わせるの?」
それを言われると困る、とばかりに彼女の言葉が一瞬止まった。詰まったというよりただ止まっただけなので、何事もなかったように続く。
「神道が掲げるのは集約するとたった一つ。『感謝』だからじゃないでしょうか」
「……感謝」
「いただきます、ありがとうは日本人なら誰でも口にする言葉ですし。改めて文章にしなくても小さい頃から当たり前のように教えられているので、強要されなくても日常に浸透してますね」
むしろ強要されると息苦しさを感じる民族かも、と彼女は首を傾げた。
「そう言えばいただきます、という言葉。食事の前にするのよね? どういう意味かしら?」
えっ、と同時にふたりとも驚きの表情を浮かべた。それから顔を見合わせて、彼が困ったように口を開いた。
「えーと、食事をいただきます、だから……」
「すごい異文化質問ですが、逆にインドではどうしてるんでしょうか」
「特には」
特には?
みたいな空気が返ってきた。
「ちょっと待ってください」
彼女が一言断ってから、持参した端末を開いて、何かを打ち込んだ。
「わかった」
「?」
「いただきますに該当する言葉が、世界のどこにもないということが」
再び、外交官の彼の顔に驚きが走った。
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