第7話
選挙前とあって、頻繁に演説会が開かれる。通例では演説会のあとにパーティーがあるが、彼はパーティーをしないという。必ずしもやる必要はないからね、と彼は言う。しっかり話をしたい人は選挙スタンドまで赴くし、みんな演説会のスピーチだけでお腹いっぱいだろうからとのこと。
意外にも、彼は時間管理をきっちりしたがる。人と会うことは、自分と相手の時間に対する拘束を意味する。だからその分、有意義なものたれとするのが彼の信条だ。
早めに街中のカフェへ到着したので、注文したフォンダンショコラをつついていると、演説会終わりの彼は首のネクタイを緩めながら座り、額ににじんだ汗をハンカチで拭う。
「おまたせ。はじめてだね、君が個人的にアポイントを取るなんて」
「お忙しいところにお時間を取らせて申し訳ありません。実は折り入ってお願いがあって」
「そうか。どんなお願いかな? あ、ちょっと待っていて」
彼は立ち上がって、カウンターへ飲み物の注文に行った。キャラメルマキアートのカップを持って返ってくる。
「フォンダンショコラもおいしそうだ」
「……一口食べますか」
じっと見られた気まずさから尋ねた。彼は断るわけでもなく私の差し出したフォークを持って味見した。
「美味しいね。ありがとう」
「どういたしまして」
彼は心底幸せそうににこりと笑う。ふてぶてしさを感じるのは私だけだろうか。
そういえば、仕事の関わり以外でこの人に会うのはこれがはじめてかもしれない。
ふだん受ける印象と微妙に違うのはそのせいだと言い聞かせ、私はつとめて冷静に切り出した。
「マクレガンさん。単刀直入に言いますが、フォルテンシア城に行きたいんです。あなたにはその伝手があると伺いました」
「シモン騎士団のことかな。たしかに、私も騎士の称号をいただいているよ」
彼はカップのストローをいじりながらさして自慢するわけでもなく答える。
「フォルテンシア城には君の求めるものがあるのかな?」
「ええ、アンヌ=マノン王女の肖像画があります。眺めるだけで構わないのですが、どうにかならないでしょうか」
「その理由は問わないでおくけれど。……つまり君は私を通じて、シモン騎士団の会合や晩餐会に行きたいんだね」
いいよ。君がそういうなら。
私の知る彼なら、そう朗らかに笑っていたことだろう。だが実際は同じ言葉でも響きが違い、その後の展開もだいぶ違っていた。
「ほかに好きな男ができたの?」
「え?」
「いや、何となくだけれど。前と雰囲気が違ったから。違う?」
「……それは考えないようにしているので、何とも言えません」
「そうか。……そうなのか」
彼はカップをテーブルに置いて、天を仰いだ。揺れる感情を振り切るように強い口調になる。
「ごめん。自分で思ったよりもかなりショックだったみたいだ。君は誰のものでもないことを忘れかけていたよ。私には当たり前のように何の権利もなかったのにね。あぁ、でも悔しいな、せっかくのデートだったのに。はじめて君のことを憎らしく思ってしまうかも」
彼はそう言って空笑い。
「シモン騎士団の件に戻ろう。フォルテンシア城に行きたいんだったね。ちょうど一週間後に会合があるよ。私も招待されていたのだが、選挙前だから迷っていたからちょうどいい。同伴者という形でなら連れていけると思うよ。ただそうするのなら、私からも条件を出してもいい?」
「内容によりますよ。私にできることなら」
慎重に伝えれば、彼はどうだろうね、と前置きする。
「なら、君は私の恋人にならなければいけないよ。一日だけの恋人にね」
すぐさま私は応じた。
「いいですよ」
「……は?」
今度は彼が驚いたように私を凝視する番だった。
その手からカップが滑り落ち、テーブルの下で大きな水たまりができる。
店員が飛んできて、床を掃除する。キャラメルマキアートの代わりを持ってくると言うのだが、彼はそれを断った。
私は内心、こうした反応を新鮮に感じたが、一見素知らぬ顔でフォンダンショコラの最後のひとかけらを頬張る。
「今、恋人がいるわけでもありませんし、一日だけということなら簡単なことです」
ヘクセン・クォーツの魅力的な誘いはまだ保留中のまま。保留中にしていてよかったと思う。誘いに応じていたら、こんな判断はできなかっただろう。
私はセドリック・マクレガンをやり込められたことでひそかな達成感を味わった。いつもは逆にやり込められた気持ちになることが多いから。
かくして、私はマクレガン氏の助けを借り、シモン騎士団の晩餐会へ参加することになったのだ。
フォルテンシア城。午後七時。
自宅のアパルトマンから運転手付きの車に乗せられて辿り着いた小さな城は、まるで少女の夢のように優しい光でライトアップされている。
私は黒のタキシードを着たマクレガン氏にエスコートされながら城の大広間に入った。
ドレスコードや他の客にふさわしいよう、ヴァイオレットのロングドレスを新調したが、思い切ってよかった。そうでもしなければ、紳士淑女が集まる騎士団の晩餐会に気後れしてしまうところだ。服装は自分自身にかける魔法のようなものだとつくづく思う。
「散々悩んでいたけれど、結果的は大成功だね。相談に乗った甲斐があったよ」
「ええ、ありがとうございます」
晩餐会で浮かないようにマクレガン氏にはいろいろと情報を提供してもらった。これほど彼に対して積極的に接したことはないぐらいに、折に触れて連絡を取った。
おかげでパーティーに紛れ込んだ一匹の田舎ネズミはちょこちょこと目的に向かって前進できる。
「マクレガンさんはこの晩餐会を何度来られていますか」
「そんなにはないんじゃないかな。二、三度だよ。ほとんど単身で参加して、いろんな関係者に挨拶回りをしたり、人脈を広げたりしていたね。僕自身、こういうにぎやかなところは得意じゃないんだ」
うそつけ……とうっかり言いかけそうになったが、黙っておく。主観と客観がずれているのはよくあることだからだ。
「休みの日は、大事な人と二人で公園へピクニックに行けたら幸せだよね。あ、つまり君のことなんだけど」
「めげないですね……」
つい先日までは多少なりとも落ち込んでいたのに。
しかし、えてしてこういう人が最後の最後に人生の成功者になるのはわかるような気がする。少しぐらい見苦しくとも、欲しいものは欲しいと言わなければ、何も事態は動かないからだ。
そういったいい意味での諦めの悪さは彼から見習うべき点ではあるけれど、はっきりと彼に対して「尊敬しています」とは言いたくない。鼻を鳴らしながら相手の鼻先を爪弾きしてやりたい気になる。
「二人でそれぞれ作ったランチボックスを持ち寄ってさ、君は好きに本を読んでいればいいし、私はそれにちょっかいをかけたり、昼寝したりする。そういう贅沢な時間を過ごしてみたい」
「疲れているんですか。選挙前だから特に」
彼は笑うばかりで答えなかった。
「そういえば騎士団の団長に連絡をつけてくださったとか」
「うん。まあ、あの方に頼み事する人は多いからね、そこはあっさり聞いてもらえたみたいだよ。たぶん、もう少ししたら、あちらから声をかけてくるよ」
「わかりました。今はとりあえず食べましょう」
私の宣言に彼は吹き出した。
「それはいい。晩餐会だから食べるのが一番だ」
楽団の生演奏が流れるダンスホールを尻目に食事の並んだテーブルに直行する。
あたりは人の声で満たされている。だが、妙に静かだと感じてしまった。理由は至極単純なことだった。しばらく身近にあった声がないのだ。
なぜならば。
ドレスコードの厳しいパーティーに、テディベアは持ち込み禁止だから。
クリスタルのシャンデリア。琥珀色のシャンパン。ドレスアップした女性たちはそれぞれの花を咲かせて、思い思いに相手との歓談を楽しんでいた。
いつしか大広間の中には大きな集団ができていた。だんだんと、私とマクレガン氏のところに近づいてくる。
中心にいた、くすんだ金髪の紳士は目尻の皺を優しく和ませ、集団の切れ目から私に笑いかけた。
この国で彼の名を知らない者はいないだろう。
もしも、大戦後にこの国が君主制を捨てなかったのならば、彼は国の統治者あるいは象徴、代表者として振る舞っていただろう。
だが今の旧王家は名ばかりの貴族の家の一つとなり、そこの人々は実業家として身を立てている。
現在、一族を束ねているのが旧王家の直系子孫のフェルナンド王子。彼こそシモン騎士団の団長だ。
「やあ、セドリックくん。女性連れなんてなかなか隅におけないね。今日は楽しんでいってください」
「歓迎していただきありがとうございます」
「なに。あと一時間もしたら私の身体も空くからね、話はそれからゆっくりしよう。ひとまず、そこのお嬢さんを紹介してもらえるかい?」
「もちろんですよ」
二人の男の目がこちらに向いた。
フェルナンド王子をはじめて間近に見るが、なかなかお目にかかれないほどの気品があった。とうに中年の域になっていても、女性が放っておかないつややかさが残ったまま。
老いた薔薇のような人だ。萎れてもなお、香りは漂っている。
私の名を告げたマクレガン氏に合わせて、私は「はじめまして」と言う。
「私からしたら、少しだけ『はじめまして』ではありませんよ。あなたの上司は、大学時代からの友人だからね。あなた自身も昔、新聞にも載っていたでしょう?
まさかその話題が出てくるとは思わず、「あの記事ですか?」と上ずった声で聞き返してしまった。
採用直後に突然行われた新聞社のインタビュー。緊張しすぎて何をしゃべったのかをまったく覚えておらず、出来上がった記事を見て悶絶したのだ。以来、私の中で封印されるべき過去となっている。
「お恥ずかしい限りです。あの時は舞い上がってしまっていたもので、物事を大げさに言いすぎてしまいました」
「そんなことはありません。さすが若くして
「ありがとうございます」
「セドリックくんとは仕事上での付き合いで出会ったのかな。実に若々しくて、お似合いですね」
私は何も言えずに苦笑い。隣のマクレガン氏はいつにもましてにこやか十割増しだ。胡散臭い。
「自慢の恋人です。かわいいのに頭もいいし、しっかりしている。私の方がべた惚れですよ」
「それはいいね」
「殿下、今回は私の頼み事をこころよく受けてくださり、ありがとうございました」
私も彼の言葉に準ずるように大きく頷いてみせる。
王子は鷹揚に応じた。
「構わないよ。言うのもなんだが、こういうことはよくある。……それに、今回はあなたにも小さな借りがあるものでね」
含んだ物言いをした王子は『あなた』のところで私に視線を写した。
「なに。わからないぐらいでちょうどいい物事も存在するものだ。今は二人の恋人を邪魔するような真似はしないようにしよう」
ではまたあとで。王子は取り巻きを大勢引きつれて戻っていった。
その場に残った私とマクレガン氏。私が恨めしげに彼を見上げたのも当然のことだ。
彼は肩をすくめた。
「嘘は言っていない。ちょっと情報が足らないだけだ。『一日だけの』という枕詞を抜いただけ」
「また確信犯ですか」
「リディはこういうふうに扱われるのは嫌だった? 無理強いはしないよ」
「私は『かわいいのに頭もいいし、しっかりしている』んですね」
「もう一つ後の文にも注目して。『べた惚れ』だと言っただろ?」
「そこは聞き流すことにしました」
「都合のいい耳だなあ」
「お互い様です」
「違いない」
「でも、これでも感謝しているんですよ。事情を聴かずに、ここまで連れてきていただけて。ありがとうございます」
人が素直にお礼を述べているのに、彼はすっと私から視線を外して、「そうか」と一言。
「ちょっと暑くない? そこのバルコニーで夜風にでも当たってくるよ。君はどうする?」
周囲を見ても、知人などいるわけもない。彼についていこうかと思ったその時、横から失礼、と声がかかった。
会場のスタッフらしき壮年の男性が私に耳打ちする。
「フェルナンド王子殿下からおおせつかりました。マクレガン氏を通じてされた依頼の件です。こちらへどうぞ」
「わかりました」
マクレガン氏を見る。
「マクレガンさん。用ができたので、しばらく行ってきます」
「そうだね。いってらっしゃい」
彼は手に持つグラスを小さく掲げた。
「私はここで待っているから。用が済んだら戻っておいで」
迎えの男にも「私の恋人をよろしく頼みます」と声をかけていた。
肝心のフェルナンド王子は大広間から姿を消している。
世間に知られていない王女の肖像画を思い、今日、ドレスからずっと下げていたペンダントを握りしめる。
少しでも、何かがわかるといいのだけれど。
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