第8話
年配の男のスタッフがすたすたと前を行く。
小さな城は、大広間への通路を除いてはかなり蛇行して、どこへ繋がっているかわからない。小さな箱の中をひたすらぐるぐると回っているだけのようだが、暗さの中ではそれも判然としないのだ。
人の喧噪などはるか遠く。蜂蜜色の砂岩に囲まれたさびしいところまでやってきてしまった。
「主人は多忙な方であるため、わたくしを遣わされました。つきましては、主人が聞かせるようにと仰せつかった物語をお話しましょう。あの肖像画には不思議な話があるのです」
三百年前のこと。王女の侍女をしていた女性が、フォルテンシア城主に嫁いだ。はじめ、肖像画もその奥方のものだと伝えられ、大事に収蔵されていたという。
だが百年前にさるオークションで肖像画の元の額縁が見つかった際、そこに「アンヌ=マノン」と刻まれていた。そこで王女の肖像画だということが証明されたわけだが、所蔵主はこの肖像画を表に出すことを恐れた。以来、一度も肖像画は表に出てこない。
「おそらく肖像画はその侍女だった奥方が、主人を偲んでいた遺品なのでしょう。王女の傍には常にその奥方が付き従い、処刑直前まで手を握りあって過ごしていたと言います。疎遠だった夫よりもはるかに心強い存在だったに違いありません」
話し終えたスタッフが私に尋ねた。
「では、お嬢様。なぜ肖像画は表に出てこないと思われますか?」
「よほど不都合な事実がそこに含まれているからでしょうか? アンヌ=マノンの家系は、後の国王を輩出しているはずです。その血筋は旧王家にも繋がっていますね」
この国の王朝の家系図を思い出しながら答える。
「なるほど。たしかに一理ある話です。多少なりとも関係はあるでしょう。王家はかの王女の悲劇を多く利用して参りました。とくに、女王マリー=テレーズ死後の新しい王朝を開く際には、次の王朝が正統であることを証し立てるため、王女の悲劇をことさら強調し、旧王朝を批判するような手法も行われたようです。現代でいえば、プロパガンダ、あるいは情報操作の一環でありましょう。しかし、あの肖像画が封印されるべきなのは、別の理由からだと王子殿下はおっしゃっておりました」
「それは?」
「じかに御覧になってください。一目でわかります。……しかし、あまり長く凝視されないことをおすすめいたしますが」
小さな倉庫のような部屋にやってきた。奥には赤いカーテンがかかるばかりで他に何もない。美術館の最重要展示物を飾る特別な空間に似ている。
「こちらです」
かちり。天井の照明がつく。照度の低さに空間の不気味さが増す。二人の人間の影が別の生き物として生気を得ていくようだ。
男はシルクのカーテンを両手で開き、私に見えるように横へどいた。
一瞬、惚けた。
それは想像していた肖像画とはあまりにもかけ離れすぎていた。
このやせぎすの女性はだれだろう。
男装姿をして、頬は骸骨のように痩せこけている。青い目だけがギョロリと爬虫類のように鋭く光る。薔薇色の頬はどこへ行った。太陽の光を束ねたあの美しい金髪は?
彼女のおかれた状況を印象つけるように、背景は赤黒い色で塗りつぶされている。見ているこちらの頭を鷲掴みにするほどにぐらぐらと不安にさせる色だった。
「一度鑑定を依頼したところ、背景には本物の血が塗り込まれていたそうです。これは世の中に出すには忍びないとは思われませんか? 美術は人を癒すことはあっても、悪意で傷つけるものではあってはならないものですから」
「言いたいことはわかります」
処刑直前の姿。だとすればこれほど人相が変わってしまうものなのか。私は、これほどまでに彼女を追い詰めてしまっていたのか。
ちがう。私はもうリディ・フロベールであって、マリー=テレーズ本人とは別人であるはず……。
ただ、アンヌ=マノンが女王を憎んでいるのを表現しているようで、心はどこまでも重くなる。
肖像画の首元には、見覚えのあるペンダントをしていた。
今も私の首元で光るペンダント。『わたくしの最愛』『アンヌ=マノン』……。
ぼとん。何か砲丸のような重いものが落ちる音がして、足元を見る。石床に転がる首の目玉と視線が交錯する。
王子様、わたしは最期まで秘密を守ります。
ひび割れた唇がこう動き。
首は高く飛んだ。
目の前が真っ暗になる。頭蓋骨が揺さぶられる。
首が額にぶつかった、その衝撃が遅れてやってくる。
床に崩れ落ちる刹那、私は女王の死の直前に感じたことを想起する。
落ちる。深く、深く、落ちる。
【マリー=テレーズ処刑裁判・審理開始】
カンカンカンカンッ。木槌の音が響き渡ります。
ここは法廷。あなたの罪が裁かれる場です。
「審理に移行せよ!」
裁判官席にいるフクロウが堂々たる宣言をします。
「被告人の有罪を証し立てる証人をここへ」
「はっ」
法廷のベンチにいたカラスたちが一斉に飛び立ちます。前方右側の扉から出てくる証人たちの背中をつついて押し出しました。
証人は三人。
一人目は老獪な雰囲気を持つ男。あなたを見ていません。
二人目は若くハンサムな男。憎しみの目であなたを射抜きます。
三人目は細身の婦人。泣いていました。
隣の椅子に腰かけたテディベアが不審そうに声をあげます。
「誰かしら、あの人たち。知ってる?」
……弁護士の手腕に不安しかありません。突然現れたテディベアが弁護士を申し出たのもそもそも変な話でしたが。
と、いうよりこのテディベアは何なのでしょう。
証人たちは証言台近くのベンチに座らされました。手元の書類を確認した裁判官は、最初の証人を呼び寄せました。
「第一の証人、ウズルー。前へ」
白髪交じりで隈の濃い、猫背の男が、証言の真実性を神に宣誓し、証言台に立ちます。
男は杖をついており、陰気で疲れ切ったような雰囲気を持っていますが、堅く引き結ばれた薄い唇は、一筋縄でいかない彼の性格を表しているようです。
あなたは彼のことをよく知っています。とても恐ろしい人でした。
彼との初対面はベッドの上でした。真夜中にあなたを叩き起こし、首にナイフを突きつけながら、あなたに選択を迫った男です。
『私とともに都へ行って王になるか、それとも暗い穴倉で孤独に朽ち果てるか。今すぐ選べ』
その夜が、あなたの人生を決定づけることになりました。
ウズルー卿。彼はあなたの治世下で宰相として強権を振るった人でした。地位こそあなたの方が上でしたが、実際のところは逆だったと思っています。
彼は隠れた帝王でした。誰も彼に逆らえません。時に恐怖で周囲を威圧した男は、きっと大勢の人に恨まれたことでしょう。
けれど最期まで意に介さなかった。それこそ彼を怖く思った理由なのです。
あなたは彼の目を見られません。
「このウズルーは大罪人であります。我等が国王に反逆し、王女マリー=テレーズと組み、王位簒奪を狙いました。その他余罪を含めまして、別法廷で死刑になることが確定しております」
検事総長のカラスの言葉に他のカラスたちも鳴き声で歓喜の音楽を奏でました。
ウズルー卿は世界のすべてが煩わしいとでも言いたげな視線を裁判官や、カラスたち、そしてあなたへと広く投げかけました。
「やかましいカラスどもがくだらない戯言で時間を浪費しているが、何が楽しいのかね。おまえたちの自己満足に基づく復讐劇は、おまえたちの法律で成り立っているのだろう?
ならばこの裁判は一言で済む。『被告人を処刑せよ』。これでおまえたちの気が晴れるのではないか?」
その言い草は何だ、我々を馬鹿にしている、とベンチのカラスたちが騒ぎ出したところで、フクロウは木槌を叩いて、静粛を促しました。
気を取り直して、第一の証人に対する尋問が行われます。
【第一の証人 ウズルー】(抜粋)
「証人、ウズルー。事件当時の身分と役職を述べよ」
「ウズルー。身分は公爵。役職は宰相」
「おまえはこの裁判において、被告人マリー=テレーズの罪を証し立てるため、検察側の証人として呼ばれた。何か言いたいことはあるか」
「特には」
ウズルーは深く考えた様子もなく言いました。やはりあなたの方を見ることはありません。
検事総長のカラスが証言台の上に降り立ちました。証人はカラスをつまらなそうに見下ろしています。
「ウズルー。おまえは女王に対する大逆事件を起こした際、被告人と共謀したことを認めるか」
「黙秘する。そなたたちの解釈に委ねよう」
「マリー=テレーズとの関係は?」
「黙秘する。好きに解釈するように」
「で、では、我らが女王の死に荷担した責任を認めるか!」
男はカン、と杖を床で叩いた。
「椅子はないのかね。そろそろ立っているのも疲れる」
「尋問に答えよ!」
カラスが興奮するほど、男の冷徹な態度が際立っていくようだった。
カラスたちが「これでは裁判の意味がない」と騒ぎ立てました。それさえも心地よいそよ風に当たったように目を細めているのですから、あなたは人間の出来が違うと思うのです。
「逆に問いたい。この裁判が開かれることで、アンヌ=マノンに何の益がある? 本人が出廷しない法廷に、何の意味がある。誰がこの裁判を開かせたのか、それさえ開示されないのならば、ただの茶番だ。何の効力がある?
我らの女王を引きずりだして、当時生きていたすべての者たちを断罪したいのか?」
「証人、口を慎むように」
仮面にも似た顔をくるくると回転させながらフクロウが彼の話を遮ります。
テディベア、あなたに向かって「あの人、頭がよさそうだわ」と間抜けなことを言っています。もっと頼りになる弁護士はいないものでしょうか。
一見、男はあなたをかばっています。しかし、男は自分の矜持が傷つけられたと感じたからあなたを引き合いに出しただけ。すなわち、あなたのことなどどうでもいいのです。
地獄に落ちろ、とどこかのカラスが言えば、追随するように法廷中に響き渡る大合唱。
裁判の収集がつかなくなってきました。憎悪の念が男へ集まっていくような気がして、あなたはまた男を見られなくなります。
彼の末路は彼自身の選択の果てで行きつくべき終着点だったのかもしれないと思わずにはいられませんでした。
大宰相ウズルー。二代の国王に仕えた稀有な政治家は、最期、何者かに首を絞められ殺害されたのです。その謎はいまだに解明されていません。
男はついに椅子に座れないまま、尋問を終えました。検察側の思惑通りにいかなかったのは、彼らの騒ぎ方からもわかるでしょう。
法廷から出る扉に宰相の小柄な体が押し込まれ、ぱたん、と閉じられます。
彼はついぞあなたを気に掛けることはありませんでしたが、反対にあなたはもう二度と見ることのない背中を惜しむように見送るのでした。
第一の証人、ウズルー。裁判の行方は次の証人に持ち越されます。
「ねえ、××。聞いているの、ねえ!」
「なに?」
高椅子に座ったテディベアが手足をばたばたさせて、自己主張するに、あなたは彼女の問いかけに無反応だったようです。
おかしいなと思いました。だって本当に声が聞こえなかったのですから。『××』と呼ばれても、音が耳を素通りするだけで何と呼ばれたのかも理解できないのです。
「しっかりしてよね。なんでそんなに頼りないの。今にも死にそうな顔をするのもいや!」
「ごめんね」
と、あなたは言います。すると彼女はショックを受けたように項垂れました。ぬいぐるみが涙を流せるのなら、きっと大粒の玉が落ちていたことでしょう。
「ずるばっかりね。そうやって謝れば何でも済むと思って。本当にわかっているの? この裁判は、長引くほど××には不利になっていくものだわ。死刑判決でも出てしまったら戻ってこられなくなってしまうの!」
「そうなの」
あなたにはぴんと来ませんでした。女王(マリー=テレーズ)に戻ったところで、誰があなたを待ってくれるというのでしょう。
「あたしばっかり必死になっているのね」
少なくともこのテディベアはあなたの帰還を待っているようです。
あなたは落胆するぬいぐるみの頭を撫でました。蒲公英の綿毛のようにふわふわです。
「つ、次! またすぐ始まるわ!」
あなたは顔の前の白いヴェールを下ろし、黒ビロードのドレスの皺を整えました。
裁判官が二人目の証人の入場を告げます。
【第二の証人 リシュム】(抜粋)
耳を塞ぎながらでも聞こえてくるカラスの大合唱。
一人の男が証人として現れました。
二番目の証人、リシュム卿です。ハンサムな顔立ちな青年です。しかし、法廷に居並ぶ裁判官や検事総長を恐れるような小心者の目をしていました。
両脇について歩く小さなカラスを気にして、落ち着かなさそうに歩いてきます。
彼は神へ真実の誓いを述べると、検事総長のカラスがまた前に出ます。書類を眺めながらはきはきと問いかけました。
「リシュム卿。あなたは我らが女王の伴侶であり、父のリシュム侯爵とともに女王の擁立を促した。その功績は称賛すべきものである。今日はマリー=テレーズの処刑を諮るための法廷であるが、あなたの意見を聞かせてほしい。あなたの死には何者が関わり、そしてその伴侶を無念の死に追い込んだのか」
「……マリー=テレーズと、その一派です。あの女がいなければ何もかも上手くいっていた」
「では、被告への処罰は何を望むか」
「僕と同じ刑を望みます。死刑。首を落とされればいい」
昏い目の男は被告人席のあなたに向かって唾を吐きました。テディベアが「あなた、失礼だわ!」と騒ぎ出しますが、ほかに周囲で咎めた者は誰もいませんでした。しかし、彼女を注意する者もまたいなかったのです。
あなたとテディベアは、法廷では『いないもの』として扱われているようです。被告人に口無し、主張する機会さえ与えないということでしょう。
アンヌ=マノンもかつて同じ気持ちを味わったのでしょうか。
あなたは目を上げて裁判官を見据えました。
「被告人、何か言いたいことがありますか」
カラスたちの非難する目があなたとフクロウの両方に注がれますが、フクロウはたじろぎながらも撤回はしませんでした。
「自分の行いを正当化するつもりはありません。ただ、証人には自己の意思の有無と、政治家としての良心を問いたく思います。リシュム卿は、王配としての責務を尽くすつもりはおありでしたか?」
リシュム卿はぎくりと肩を強張らせる。彼が自信なさげなのももっともなことだ。彼の振舞いはあまりにも放埓すぎた。まともな神経を持つなら、法廷という場で語るにはためらわれる。
「あとから聞いたことですが、リシュム卿は王宮に住まったわずか数日の間、昼夜を問わない十度の宴を行っているはずです。名目は特になく、ひたすら享楽のみを追求したものだったとか。また愛人たちへの過剰な贈り物で無駄な浪費を重ね、国政では自分の意に沿わないという理由のみで五人の罪人を作り、そのうち二人を絞首台に送りました」
ふむ、とフクロウが翼の先を顎につけ、熟慮のそぶり。
テディベアは何も言いませんが、珍しく感心したような目を向けているのがわかります。
「リシュム卿は、ご自分が王女の夫としてふさわしい行動をされていたと思われますか?」
リシュム卿は端正な顔を歪ませ、ぶるぶると震えた。顔が赤黒くなります。
「ぜんぶ、父上とアンヌが悪い。僕を無視して何でも進めていた。僕はあわれな被害者だ。マリー=テレーズも、僕からの
その言葉で、場がしいん、と静まり返ります。
「みんなみんな、僕をのけ者にする。誰も尊敬しないし、誰も見向きもしなかったのに、どうして僕が殺されなければならなかったんだよ! 僕が何をした!」
あの女!
リシュム卿は興奮して、その場にいない女性の悪口を言います。
「あの王女のせいだ。美人だけがとりえなのに、一度も抱かせなかった! 夫である僕をずっと拒みつづける妻がいると思うか? 夫婦? そんなものになったことはない。それなのに大逆罪で死刑だ。ばかげていないか。いい思いの一つでもさせてくれてもいいはずだ。
ああ、でも無理か。なにせ実は、彼女……」
「やめろ! 口にしてはならぬ!」
何かを言い出しかけたリシュム卿の口に、カラスが突進しました。
嘴が、リシュム卿の白い喉を突き破ります。男性はそのまま仰向けに倒れました。
「休廷! 休廷!」
フクロウはやむなく一時の休廷を宣言し、二人目の証人が退場していきました。
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