第6話
夜の《大鴉の塔》に入場したのは先頭を歩いたゴッドフリート氏に十人の参加者、そして会場に映像を届けるための二人のカメラマン、合わせて十三人。
ゴッドフリート氏は約一時間かけて《大鴉の塔》を巡り、午後九時過ぎに元の会場まで戻ってきた。
彼らは念のために点呼を取った。ゴッドフリート氏、二人のカメラマンは言わずもがな、そこにいた。次に参加者を数え上げたところ、その数は九人だった。よって一行の総数は十二人。
一人足りない。
会場に集ったスタッフや客席は騒然となった。誰がいなくなったのだろう。いつの間にいなくなったのだろう。
最後尾にいたカメラマンは消えた女性の記憶を懸命にたどるが判然としない。ずっと前にいたはずだし、彼女は前の参加者を追い越したはずだと証言した。
しかし女性の前方にいた参加者はそんな記憶はないという。
スタッフたちは慌てて《大鴉の塔》にあるすべての照明を点けさせ、捜索を開始した。
行方不明になった女性には同行者の青年がおり、彼も捜索に加わることになった。彼はこの事態に動揺していたものの、努めて我慢強く《大鴉の塔》内のあちこちを駆けずり回った。スタッフたちも何度も互いに連絡を取り合い、隅々まで女性の行方を捜した。
だがどれだけ経とうが見つからない。
『諸君、落ち着きたまえ。彼女はまだあちら側に引っ張られていない』
パイプ椅子に座り、両手を組んで祈りを捧げていたゴッドフリート氏は何かの答えを得たように突然起立する。
『《大鴉の塔》の霊たちは彼女への好意をあらわにしている。彼女の運命の力が強力であれば、生者の世界へ還ってくることだろう』
それからゴッドフリート氏はスタッフが止めるのを聞かず、照明器具も持たないまま《大鴉の塔》の暗がりに消えた。
その十分後。彼は行方不明だった女性を連れて戻ってきた。
礼拝堂で見つけたという。
周囲にいた人々は不思議に思った。なぜなら礼拝堂はスタッフたちの手でとっくに隅々まで捜索されていたからだ。
消えた一時間に、死者の世界にいたためだとゴッドフリート氏は語る。
そんなまさかと笑う者もいたが、ゴッドフリート氏の言葉はもはや薄っぺらなものを感じることなどできようはずもない。
彼が消えた女性を一人で見つけ出したという功績が消えようはずもなく、彼への畏怖の念が自然と集まっていた。
現代は情報端末が全盛の時代である。
ゴッドフリート氏の関わったこの事件も動画という形で流出することになるだろう。
同時に彼の名声も広大な情報の海にじわりじわりと流し込まれ、不特定多数の手に届くことだろうし、近く行われる議員選挙に影響を与えることだろう。
なぜなら民主主義社会では目立つ者、奇抜で突出している者はそれだけで強力な武器となる。興味を持たれること。それは選挙勝利の第一条件なのだから。
私とヘクセンは深夜のタクシーに乗車した。市内交通はほとんどもう動いていない。
無言の車内からは明るい街灯が光の帯となって流れていくのが見える。
この状況を説明するのは難しい。私には隣の青年が何を考えているのかさっぱりわからない。深刻な表情だった。
よかった、よかった無事で。
私の顔を見つけると、彼は駆け寄って私の両肩を掴んだ。私がここに存在するのを確かめるように。
不可抗力ではあったが、心配をかけてしまった。謝罪をすると、彼はいやと言いながら黙り込んだ。それっきり、必要事項しか話そうとしない。
テディベアは疲れたと言ってため息をついた。『マリーはリディの知らないところで頑張ってるんだからもっといたわりなさいよ』となぜか文句を言われたけれど、憎まれ口が相変わらずで安心した。
タクシーは数十分かけて私のアパルトマン前に止まる。運転手を待たせたまま、ヘクセンも車を降りた。
彼はじっと私を見て、「古そうなペンダントだな」と何の脈絡もないことを言う。
「え? ああ、これは……よくわからないけれど家宝みたいで」
カラスから渡されたペンダントを仕舞うのを忘れていたので言葉を濁しながらまた服の中に入れる。
「何事もなかったようで安心した。本当に気が気でなかった」
「本当にご心配をおかけしました。今日はもう遅いですし、ヘクセンさんも早く休んでくださいね」
「ああ、そうさせてもらうよ」
「それでは私はこれで……」
踵を返そうとした私を「待って」と声が追いかけてきた。
薄暗闇の下、彼の眼光が私の躰を射抜く。
「リディ・フロベールさん、俺と付き合ってみないか?」
私の心臓は一旦動きを止めた。
なぜ。どうして。疑問の言葉ばかりが口をついて出てこようとしてくる。
だが実際にはただただヘクセン・クォーツの顔を凝視めることしかできなかった。薄い唇が大きく弧を描き、こちらを覗き込んで猫のように目を細くした。
「まんざらでもなさそうだな。じゃ、また誘いに来るから。おやすみ」
挨拶代わりに頬にキスを贈った男はまたタクシーに乗り込んで帰路につく。
夢魔が見せる夢のような夜だった。
ボス? 元気? わたしは元気。チューベローズは今日もいい匂い。
あら、焦っているの? 大丈夫。わたしたちの望みのものはもうすぐ手に入るわ。
わたしたちは正義の味方だもの。
だからもっともっと揺さぶりましょう。ボスは大船に乗ったつもりで椅子の上にふんぞり返っていてね。きっとアレを持ってくるから。
調査のための古文書をめくっていたところ、自分のオフィスに引っ込んでいた上司がひょいと顔を出して、私のデスクの脇に立つ。
ちょうど私の隣席にいた人が席を外したところで、上司は切り出した。
「フロベール君は近頃、大事件に巻き込まれたようだね。メディアに行方不明のニュースが流れる前でよかったね」
耳ざとい。《大鴉の塔》での一件をもう嗅ぎつけたらしい。
「……ご存知でしたか。今まで何もおっしゃっていなかったので、知らないものと思っていました」
「言わないから知らないなんてことはないさ。知人にも多くのマスコミ関係者がいる。今、『ブラックロペス=ゴットフリート』をつっこんで調査すれば、君の名前も浮上してくるよ」
彼はすごいね、と上司は付け足す。
「今やもっとも注目される議員候補者の一人だよ。彼の手法はまさに劇場型だ。ド派手な演出と過激な発言、本人のカリスマ性と合わせれば、それなりの成果が表れるだろうとは思っていたが。要は、君は上手く利用されたわけだ。アンヌ=マノン王女という恰好の餌を食いつかされてね」
愉快な話でもないので返事をしないでいると、デスクにいたテディベアが風もないのに横向きに倒れた。
おや、と上司はすぐに気づいて戻すが、その際にきっちりとテディベアの体の向きを回転させ、テディベアの『彼女』に見られないように取り計らった。
どっかりと、隣の席に座って足を組む。
「そうだ、君のひいきの議員はどうしているんだろう。まさか苦戦しているとも思わないけれど」
「贔屓の? 担当している方は複数名いますが、どの議員でしょうか」
「かのセドリック・マクレガン氏に決まっているじゃないか。まさか忘れたのかい?」
「贔屓しているとは思っていませんからすぐに出てきませんでした」
「しらじらしいねえ。君にとっての唯一の人だろうに」
「いちいち引っかかる言い方をしないでください。室長、本題を早くおっしゃってはどうでしょう」
上司がのらりくらりするたびに、相手にするのが面倒になってくる。どれだけ話の遠回りをすれば気が済むのか。
「どうにも最近の君は騙されそうで心配だ。
ひそやかな声音だった。歯切れのよい返事が口の中に消えた。
首に下げたペンダントの重みがぐっと増す。
「……よくわかりません」
「僕はアンティークの
上司はこう言いたいのだろう。
私はリディ・フロベールであって、それ以外のことに縛られてはならない。縛られるぐらいなら胸のペンダントと同じように捨ててしまえ、と。
けれど、私にはまだ記憶(マリー=テレーズ)が残っている。感情も残っていて、忘れられない。
「捨てられませんよ。それも私の一部ですから。悪意がやってきたとしても私の払うべき代償なら受け止めます」
お気持ちだけは受け取っておきます、とお礼を言えば、上司は不可解そうな顔のまま。
「君の頭はときどきミステリーだよ。君、死んだらどこかに献体してみない? その脳の仕組みを解明したいよ」
「中身はふつうの人間と何も変わりません。変わっているのは室長の方ですよ。献体しなさいというアドバイスを人生ではじめて聞きましたから」
ごほん。上司は誤魔化すように咳払い。
今の仕事が終わったら報告してね、と言い残してまたオフィスに引っ込んだ。
実りの無さそうな会話に、意図不明の言葉の羅列。日常的な仕事の風景だった。
午後遅くに職場に突然の訪問者があった。ちょうどまさに話を聞きたいと思っていた人物だったから、今日の閲覧室担当と特別に代わってもらった。閲覧希望の資料と書庫から持ち出し、ガラス張りの閲覧室へ運んだ。
アンヌ=マノン王女のことを聞こうとすると、
「みんな、アンヌ=マノン王女が好きだよね」
彼はもう聞き飽きたと肩をすくめた。
ゴッドフリート氏の騒ぎも聞き及んでいた「先生」は
「まるで熱病にかかったみたいに熱狂してさ。マリー=テレーズ女王とどうしても絡む人物だから僕も研究せざるを得ないけれど、やっていて燃えないんだよね」
早口に言い切った専門家はずり下がってきた丸眼鏡をぐいと上げた。
言葉に少しだけ棘がある。近頃、研究が進んでいないのだろうか。
しかし、今日は先生の蘊蓄を拝聴するために来たのではない。
「実は先生。少しこれを見ていただけませんか?」
首に下げていたペンダントを取り出す。
「なんだい、これは。ずいぶん古そうだけど……君、これをどこで手に入れた」
蓋を開けて「わたくしの最愛」「アンヌ=マノン」の文字を見つけた彼はぎょっとする。
「私のものではありません。預かりものです。私自身も出所はわかりませんし、預かった人はこれを表に出さないことを望んでいます。先生の私見をお伺いしたくて。……『アンヌ=マノン』の最愛は誰のことでしょう?」
「最愛と言えば、夫のリシュム卿と考えるのが自然だが」
先生はルーペを出した。ペンダントの傷一つまで丹念に観察する。
「夫婦としての同居期間はほぼなく、手紙のやり取りも事務的で簡素なものだった。少なくとも、リシュム卿の方はね。またリシュム卿は他に愛人がいたようだから、可能性としては低い。
歴史に名の残らない誰かだったら、僕たちにはどうしようもない」
手元のメモ帳に関連書籍や学術雑誌のタイトルを書きつけると、破ってこちらに寄こした。ざっと十冊はある。
「ありがとうございます、先生」
「たいしたものじゃないし、君が求めている答えがそこにあるかわからないよ。《大鴉の塔》で王女の幽霊に会った方が手っ取り早いと思わないかね」
名残惜しそうに先生はペンダントを返し、頭を人差し指で叩く。彼の思考が煮詰まった時の癖だ。
「なかなか興味深かったよ。ああ、そうだ、君はこんな話を聞いたことはないかね。アンヌ=マノン王女の生前最後の肖像画の話だ」
「生前最後の? いえ、存じ上げません」
「ならちょうどいい。あまり一般には知られていないだろうと思っていたが、正解だったようだね。
今残っている王女の肖像画は、ほとんどが死後に描かれたものでね、後世の美化が混じっているともいわれている。他に生前で描かれたものも、少女の頃の彼女だ。
でも一作だけ、世に知られていない肖像画がある。この肖像画は、処刑に赴く王女の直前の姿を書き写したものだそうだ。そしてその姿は我々の想像している王女の肖像とはあまりにもかけ離れていたために、いまだに世に出ることなく、ひそかに保管されている。もしかしたら、その知られていない肖像画の首には、そのペンダントも描かれているかもしれない。――そう、想像できないかね?」
「ええ、できます。……可能性は、ありますね」
わきあがる興奮を抑えながら、頷いた。
切れたと思った糸がつながった。
「その肖像画はどこにあるんですか?」
「場所は知っているよ。首都から二時間ほど車で走った山頂にひっそりと立つ小さな城だ」
「わかりました。どうにかしてアポイントを取ってみます」
「それは厳しいね。個人所有の城で、肖像画はその中にある。外部の人には絶対に見せない。僕の知る研究者が何人もその高い壁に挑もうとしたが、全員失敗した」
きっぱりというが、私は諦めきれなかった。
「あの、先生。その城の名前は?」
「フォルテンシア城。『赤き獅子城』とも名付けられている。王女が幼い頃に住んでいたこともある城だ。今は旧王族の所有で、パーティーや会合の際に使用されるんだそうだ」
「パーティー?」
「シモン騎士団だ」
シモン騎士団は、旧王族を中心に結成された慈善団体である。騎士団員は国内外関係なく、素晴らしい人物だと認められた名士ばかり。他国の首相や王族、貴族もそこに名を連ね、
世界中で、たった五百人ほどの集団だ。本部はこの国に構えているが、メンバーになることも、同伴者として会合や晩餐に参加することもかなり難しい。しかも秘密主義で外部に閉ざされており、内部を知る者はかたく口をつぐむ。
大部分の国民は、庶民に無縁の世界だと思っている。私だってそうだ。ふつうに生きていて踏み込む場所ではないだろう。
「我々が雲の上へ行くのは厳しい。悔しいことにね。騎士団のメンバーに知人がいれば話は別だろうが……」
「知人が騎士団のメンバー……わかりました。ありがとうございます。大変参考になりました」
先生が驚いたように私を見た。
「当てはあるの?」
「多少は」
笑みを作ってみせる。
「以前、どこかの雑誌の記事で読んだことがあります。彼が騎士団のメンバーになったという記事です。あとは誠意をもってお願いしてみようと思います」
えっ、あるの、と先生は驚き、「ははは」と声を上げて笑う。
「さすが
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