第5話

 あなたは真っ暗なところにいました。何も見えません。

 どうしてここにいるのかわかりませんが、自分の名前と身の上だけはわかっていました。

 あなたはマリー=テレーズ。この国の女王です。

 しかし、あなたは女王らしからず、不安に押しつぶされそうになっていたのでした。なぜならばあなたにとって女王は他人がいなければ存在できなかったものなのです。他人がかぶせてくれた王冠を失ったあなたは、何の取り柄のないちっぽけな娘に過ぎないのでした。

 暗闇を彷徨うあなた。

 どれだけ経ったことか。突然、目が眩むような光があなたを襲いました。

 カンカンカンッ!

 木槌の音が響き渡ります。

 おそるおそる目を開けて驚きます。


「開廷、開廷!」


 ハリのある声。裁判官席から響き渡るそれは、法衣を器用に纏ったフクロウでした。メンフクロウです。なぜか、包帯で体中をぐるぐるに巻き付けていましたが。

 あなたは黒ビロードのドレスとマント、純白の髪飾りに、白いヴェールをかぶっていました。いつ身に付けたものでしょう?

 正面には国の紋章をつけた天蓋があり、その下にはあなたと向き合うように空の王座が設えてあります。さらにその手前右側にはベンチが置かれており、陪審員として招集された大勢のカラスたちがそろいの官吏の衣裳を着てひしめいています。フクロウが座る裁判官席は左側にありました。

 中央には大きなテーブルがあり、山のような書類が置かれています。

 あなたの真横には空の椅子がぽつんと置かれています。あなたの後方は、木製の間仕切りがあり、その向こうにカラスでいっぱいになった傍聴人席が広がっていました。

 そう、ここは法廷です。あなたは被告人なのです。


「これより王女マリー=テレーズの裁判を行う! 検事総長、告発文を読み上げよ!」

「はっ」


 法衣のカラスがベンチから飛び上がって、中央のテーブルの上に着地しました。書類の山から羊皮紙を取り出し、告発状を読み上げたのです。


「検事総長は主君たる国王のために次のことを告発する。すなわち、ルイ大帝の子である王子シャルル=モントレの子、王女マリー=テレーズは、神の恩寵により我らが大国の国王にして信仰の擁護者等々である我々の主君たる女王アンヌ=マノンの治世の、我らが大国に関しては第一年に当たる年の六月二十九日に、暴力と謀略を用いて等々、王都の王宮内で、上述の主君たる国王の平和及び国王の位・威信に反して等々、その時その場で見出された我々の主君たる女王アンヌ=マノンから命、財産、名誉等々、すべてのものを奪い取った、と。死刑に処すべし」


 ガアガア、と傍聴人席や前方ベンチのカラスたちが興奮したように啼きます。どれもが、死刑だ、死刑だ、と主張しているように聞こえました。

 検事総長のカラスが黒い頭を上げました。


「女王に対する大罪が甚だしく、そのためにやむを得なく、女王に代わり、告発したものであります! よって、その罪状を取り調べるため、この法廷を開くことといたしました。なお、被告人は自己の無罪を主張するあらゆる機会が与えられているものであります」

「検事総長、その告発が真実であると宣誓するか?」

「いたします、真実であると!」


 カラスはまた飛んで自分の席に戻りました。次に裁判官のフクロウがカン、と木槌を鳴らした。


「では、起訴の是非を決定する」


 フクロウは手元に会った書類を引き寄せ、うんうん、とうなります。


「ここには被告人の有罪たるあらゆる証拠が集められている。提出されたものを見る限り、被告人の有罪は明らかなものとなっている。被告人は、反論するための弁護人を立てることができるが、どうする」

「弁護人……」


 戸惑うあなたは、ふと右手の空席を見ました。もしかしたらあそこが弁護人の席であるのかもしれませんが、あなたには弁護人となる人が誰一人思いつかないのです。


「被告人、弁護人はいないのだな」


 フクロウは深いため息をついた様子で首を振ります。

 カラスたちはガアガア、と騒いでいました。早く起訴しろと言っているようです。

 またカラスがフクロウの元へ書類を運びました。

 グギャアグギャア。カラスの声援がさらに増します。

 法廷を揺らすほどのそれを、フクロウが威嚇するように翼を広げて啼くことで納めます。


「やめよ! あっ、痛い痛い……」


 フクロウは包帯で巻かれたお腹辺りを痛そうにさすっていました。しかし、すぐにしゃっきりと背筋を伸ばします。


「被告人、マリー=テレーズは、女王アンヌ=マノンに対して暴力と謀略をもって、その至高の地位や玉体を傷つけ、滅ぼそうとした罪を認めるか?」


 法廷中の目が一身に注がれます。

 あなたはどう答えたものか迷いました。カラスとフクロウだけの法廷が、いかにも現実であると思われないのです。

 ですが、あなたがここで有罪となればすぐに求刑と同じく死刑になるのは間違いありません。無罪を主張すればどうなるのでしょう?

 残念ながら、あなたは適正な裁きがあるとは到底信じられないのです。法廷を見ていればわかります、ここにいる者は皆、あなたの死刑を心待ちにしています。それは裁判官にしても同じことでしょう。

 一旦は、口をついて出てきそうだった「無罪」という言葉を、あなたはよくよく考えなおしました。

 すると、あなたは有罪だという簡単な結論が自然と浮かんできたのです。

 アンヌ=マノン。一つ年下の、美しいあなたの従姉妹。

 あなたは彼女に嫉妬していたのです。


「ええ、被告人は自分の罪を――」


 ガタンッ、と後方で扉が開く大きな音が響き、視線が一気にそちらに集まりました。あなたも振り返ります。

 そこには、見覚えのある小さな影が。とたとた、と傍聴席の通路を進み、木製の間仕切りまで来ました。背丈が足りず、ジャンプしても届きません。


『そこのあなた、マリーを持ち上げてちょうだい。そこの席まで連れていって』


 甲高い声があなたを指名してきました。よくわからないまま、よいしょ、と間仕切りを越えるように持ち上げ、弁護人の椅子の上にそれを置きました。

 椅子の上でふんぞり返っているもの、それは枯草色のテディベアです。


『遅れてしまったわね。さあ、頑張って不起訴へ持ち込むわ!』

「弁護人、残念ながらもう起訴はなされてしまいました」

『あれ、そうなの? 悪かったわね。もう一度やり直してもらえる?』


 テディベアがフクロウにそう言うも、一羽のカラスが飛び上がって抗議します。


「検事総長から申し上げます。やり直しなど許されません! それに何だ、そのちんまりした物体は! 何たる口の利き方を。我らが女王の威光に逆らう気か」

『ちんまりしているのはお互い様でしょ。ふん!』

「この裁判にはやり直しは認められていない。だが、弁護人の参加を裁判官として認める」

『あら、ありがとう。では続けてらして。マリーは適当に弁護しておくから』


 何とも頼りにならなさそうな弁護人の登場に、あなたはただ不思議そうにテディベアの挙動を見つめていました。

 テディベアが言います。


『さ、何を弱気になっているのよ。マリーが来たんだから負けるなんて許されないわ。相手をけちょんけちょんにして、のよ!』


 わかった、とあなたは頷きました。


「では被告人、再度問う。被告人、マリー=テレーズは罪状を認めるか」


 裁判官のフクロウの問いかけに、あなたは一掴みの勇気を握りしめて答えます。


「いいえ、認めません。被告人は、慎重なる審理を求めます。そのために、被告人は無罪を主張します」

「いかなる方法で審理されたいか?」

「神と国民とによって」


 フクロウは一つ瞬きをし、大きく宣言をしました。


「ならば、起訴状に『自らを審理に委ねる』と記入しよう。これより審理に移る!」


 マリー=テレーズ処刑裁判は審理に進むこととなりました。

 これからどのように展開していくのでしょうか。続きは休廷を挟んでのちに行われます。再開時刻をお忘れなきように。

 休廷!



 時刻は午後八時過ぎ。

 現代の都市は星の数の照明器具が地上世界を昼間のように演出しているが、空の堀に囲まれた大鴉の塔の一帯はブラックホールのように周辺のあらゆる光を吸収している。《大鴉の塔》には生き生きとした都市の息遣いをひっそりと下から観察しているような不気味さがあった。


 《大鴉の塔》は、マリー=テレーズ女王の生きた時代にはすでに牢獄としての機能を有していた。

 だがどうしてだろう。私の知らぬところで、陰惨な歴史が掘り起こされ、剥製となって展示されている。

 この場所は本来国の守護を担う要塞であり、一時は王宮として使用された輝かしい史実もあったのに。

 柵の下には石の階段、下に広がる砂利、半円形の門がある。

 現在、その門が開くことはけしてない。

 反逆者の門と言われたそこは、舟で入獄する囚人を出迎えたところ。《大鴉の塔》でもっとも忌むべき出入口。囚人たちのため息が染みついている。


「大鴉の塔でもっとも有名な囚人は? 著名な学者や修道士、王族たち、近世の軍人やスパイたちが収監されてきたものだが、私はあえてアンヌ=マノン王女について語ろうと思う。なぜなら、大鴉の塔でもっとも儚くも美しく、悲劇的な死を遂げた人物として大勢の記憶に今も残るから。

 時はおよそ三百年前。これより誘うのも三百年前の世界。夜の闇はいつの世も変わらない……。諸君はこの夜の帳のうちでアンヌ=マノン王女の亡霊に出会うことだろう。だが、注意せよ。亡霊に魅入られたら、地上世界には戻れない。闇を通じてあの時代に引きずられないよう、どうか案内人の私から離れないように……見知らぬ隣人に気付かれないために息をひそめているとよろしい……」


 行先を照らすランタンはあまりにもこころもとなかった。

 集団のほんの三歩先にしか光が届かない。一人はぐれたら戻れない。彼の警告は参加者たちを威圧するのに十分だ。


「王女がこの門をくぐったのは1675年6月。しとしとと雨の降る夜間に侍女一人連れただけという、人の目に触れない形で行われました。心優しい王女は、自分から王位を奪った従姉妹を恨んでいませんでした。ただただ悲しかった。それだけなのでした。美しい容姿にふさわしく心根も優しい王女でありました」


 一人ランタンを持たない予言者は長いローブの裾を翻す。淡々とした語りを交えながらも歩調に迷いはない。むしろ少し速いとすら感じられた。

 自然、選ばれた十人の参加者たちの口数はだんだんと減っていった。語りを聞くのに集中しなければ知らない世界に置いて行かれる。そんな切迫感がそれぞれの胸にあったのかもしれない。

 私は集団の最後尾にいた。最後に選ばれた参加者であったため、縦一列となった集団の最後を歩くことになったのだ。

 夏が近いと言っても夜は肌寒く、わずかな風でも肌が粟立つ。


「みなさまも興味があることでしょう。ここは地下の拷問部屋。人を張り付ける拷問器具も、ほらそのまま残っている。犠牲者の悲鳴はそこの高窓から高く細く響いた。幽閉中でも庭の散歩が許されていた王女はその声を聴き、明日は我が身だと涙を流しました。そして犠牲者のために祈りを捧げました……」


「ここは赤い花の塔。この細く蛇行した階段を上っていけば八角形の漆喰の部屋に辿り着く。

 この部屋はアンヌ=マノン王女が幽閉された場所。寒い冬にはあそこの暖炉の火に当たりながらその日を生き延びられることを感謝しました。彼女は高貴な囚人でしたからこのような大きな部屋を与えられ、侍女まで付けられたものでした。しかし、彼女は壁に刻み付けられた文字で現実を突きつけられたのです。文字を刻み付けたのは、彼女より前に囚人であった人々。彼らだってすべてが凶悪な犯罪者というわけではありませんでした。むしろ宗教的なあるいは政治的な理由で排除された敗者でした。

 王女はここから夫と義父の助命を嘆願する手紙を書きましたが、願いは届けられることなく、無情にも処刑が断行されました」


「《大鴉の塔》の中心に位置する《白の宮殿》。今は旧王室の宝物が展示されていますが、かつては中世の王宮として用いられたものです。王女はここで裁判を受けることになりました。潔白を示すように、真っ白なヴェールを被った彼女は、腹心の侍女に身体を支えられながら法廷に臨みました。すべての嫌疑を否定し続けた彼女でしたが、残念なことに裁判は王女に死を与えるための手段でしかありませんでした。

 三日間というおそろしく短い審議ののち、陪審員一致で死刑が確定しました。仕方がありません、時代がそう望んでいたのですから……。では最後の場所へ向かいましょう……」


「貴人の処刑方法は、当時斬首刑でした。髪を短く刈り取られ、むきだしになった首を断頭台の前に横たえます。外国人の処刑人がそこに大きな刃物を振り下ろす。下手な処刑人は一度で首を落としきれず、二度、三度と罪人を苦しめながら斧を振り上げたものです。王女の処刑もこのように行われました」


 前方で、無言のランタンの列が揺らぎながら進んでいる。黒髭のゴッドフリート氏の姿は闇色に溶けて見えないが、声だけは私の耳朶を強く打つ。


『リディ、リディ。どうかマリーの手を離さないで握っていて……』


 テディベアの尖った鼻づらが私の胸に押し付けられる感触。

 ようやくマリーの存在を思い出した。

 『さむい、さみしい』と彼女は震えた。


「気を強く持って。そうしないといつもなら怖くないものまで怖く見えてくるから。天井や壁のシミが人型に見えることだってあるじゃない」


 暗闇を怖がる気持ちはわかるけれど、相手が怖がっているとこちらは冷静でいなければという気になる。励ますつもりで口に出したのに、想定外の反応が返ってきた。


『ちがう、ちがうわ、ばかリディ。ああもぅ……』


 マリーは今にも泣きだしそうな声音で小さく叫ぶ。


『リディは気づかないの?』


 事態は切迫している。言外に告げるようにマリーは早口になる。


『連れていこうとしているのはマリーじゃない。彼らが呼んでいるのは……! リディ、手を離したらだめっ!』


 ゴトン。




「王女の首はこの場所で落ちた! まさにあなたが立っているところですよ、お嬢さん!」




 ガスランタンの灯りがフッ、と一斉に消える。

 一人きりだ。

 テディベアは腕の中でくたくたになっている。まるで抜け殻のように。

 燭台の蝋燭に火が灯り、銀色の十字架とその下の古い祭壇を照らしていた。

 《大鴉の塔》には礼拝堂があるのだ。今も高貴な身の上でありながら非業の死を遂げた人々が祭壇の下で眠っている礼拝堂が。

 小さな足音が何重にも増幅されるような空間だった。

 後ろから近づく音が一つ、二つ、三つ……。

 右肩に、真っ白な手がかかる。細い女の指。振り向きたくとも、振り向けない。

 私の躰は白い手の冷気が伝わってまるで氷の彫像と化している。

 自分の唾を呑み込んだ音が大きく聞こえた。

 首元を握りしめる。不思議なカラスから受け取ったペンダント。あれ以来、ずっと忘れず身に着けている。

 アンヌ=マノン。マリー=テレーズとは因縁の従姉妹同士ではあったけれど、意外にも生涯を通じて直接顔を合わせることはなかった。

 しかし、たった一度だけ遠目に見たことがある。

 背筋がぴんと伸びた流麗な金髪の後ろ姿だけ。

 私は地上にいて、彼女は建物同士を繋ぐ高い渡り廊下にいた。

 たった一つの年の差なのになんて大人っぽい子なのだろう。一方的に相手を見上げた私は自分自身と比べて嫌になった。

 アンヌ=マノンは年上の従姉妹をどう思っていただろう。どうしてペンダントが私の手に?


「アンヌ=マノン……?」


 名を呼んだその時。手は私の肩を恐ろしい力で掴んで前へ突き飛ばす。

 つんのめった鼻先でランタンが揺れる。

 おや、とひっこめた声の主は、さきほどまで語っていたゴッドフリート氏だ。彼も一人だった。


「あなたは死者に出会われたようだ」


 彼は私に振り向くようにと伝えた。


「そこにいる白い靄の女性。あれこそが王女の亡霊だ。どうやら今回の交霊会でもっとも幸運な参加者はあなたであったらしい」


 何を言われているのかさっぱりわからなかった。

 たしかに私にも祭壇の傍でたたずむ女性の姿は見える。

 女性には首がなかった。首は、彼女の腕の中で抱えられている。今にも血が滴り落ちそうなショッキングな姿に、一瞬我を忘れた。

 しかし、ゴッドフリート氏が語るように白い靄がかかっているように私には見えなかった。むしろ首が落ちている以外に、生きている人との差がわからない。

 さらにその首は。その髪色は。

 アンヌ=マノン王女の髪は誰もがはっと羨む金髪だった。

 その女性の髪は、濃く茶色がかっている。

 何よりも決定的だったのは女性の服装にあった。幽閉中の王女だとしてもあまりに簡素な麻のドレスだった。

 首を持った女性は地面を這うような低い声で呟きながら祭壇前を、まるで氷上をすべるような動きで横断していく。

 王子様私は秘密を守ります王子様私は秘密を守ります……。呪文のような呟きが響く。

 彼女の面立ちは肖像画に伝わるアンヌ=マノンのものではなかった。

 あの亡霊は、アンヌ=マノンではなかった!

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