第4話

 世間が選挙のことで騒がしくなりつつあるが、それはそれとして日常は続く。

 公立図書館で借りた小説の返却期日が明日に迫っていたことに気付き、返却ついでに休日の午後に出かけることにした。

 通勤とは違う路線の路面電車トラムに乗り、最寄り駅で降りる。芝生で囲まれた公園の中に、近代的な真っ白の立方体のような建物がそびえ立っていた。


 ここは国立国民議会図書館ポンパドーラではなく、ごく普通の公立図書館。私の行きつけの図書館の一つで、一般向けの小説類が充実している。

 もちろん所蔵の規模からいえば、この図書館よりも国立国民議会図書館ポンパドーラは圧倒的に勝っているのだが、国立国民議会図書館ポンパドーラは資料保護の観点から個人への貸し出しは認めておらず、ほぼ閲覧のみに限っている。家でじっくり本を読みたいのならば公立図書館から借りるのが一番いい。


 本を返却した後、一、二時間ほどかけて次に借りる本を物色するうちに、本棚の隙間から知った顔を見る。こちらに気付く様子もなく、熱心に目の前の本棚を眺めているようだったので、声をかけずに通りすぎる。


 ふと思い立ち、絵本コーナーまで来た。その隅の方でバッグの口からテディベアの頭を出してみる。息をしているわけでもないのに、ぷふぁ、とテディベアのマリーは小さな声を漏らした。


「なにここ」

「うーん、絵本のあるところ?」


 何冊か適当に抜き出した後、マリーにも見せる。


「この間、うちにあった昔の絵本を熱心に眺めていたでしょ? 暇つぶしにでもどうかと思って」

「ふ、ふーん……」


 マリーはそれ以上何も言わなかった。つまり、嫌じゃないということだ。そこでマリー用の絵本も付け加えて、自動貸し出し機で本を借りる。


 外に出ると清々しい空気が流れていた。芝生には家族連れやカップルが思い思いに休日を過ごしている。次に何をしようかと考えていたところ、ふと視線を感じて、振り返る。

 木陰のベンチで本を広げている人と、ぱっちり目があった。絵本コーナーに立ち寄っている間に、外に出てきていたらしい。

 さすがに無視できないのでそちらに向かう。彼も読みかけの本を片手に立ち上がっていた。


「こんにちは。ヘクセンさんもお休みですか?」

「そうだよ。フロベールさんは本を借りに? こんなところで会うとは思わなかったな」


 シャツの長袖の裾をまくったヘクセンは本を後ろ手に隠すようにしていた。


「私もですよ。ヘクセンさんが本好きとは知りませんでした」


 ヘクセンはかなり大柄に入る体格だ。上着を着ていない状態だと、そのシャツの下の筋肉がかなり鍛えられているものだとわかる。警察官という職業柄、きっと格闘技なども嗜んでいるに違いない。

 偏見かもしれないが、彼のような人物が真面目に本を読み込んでいるのが意外に思えたのだ。


「どんな本を読まれるんですか?」


 ああ、いや、それは、と彼は歯切れが悪い。人差し指でこめかみを掻いている。


「まあ、ちょっと、言いにくいんだが。笑わないでもらえるか?」

「は? ええ、笑いませんけれど……? というより、図書館員をやっているのにそんな態度はできませんよ」

「そうか。そうだよな」


 彼は安心したように笑う。一体、どんな秘密が明かされるというのか。

 彼は後ろに隠していた本を私に見せる。それは最近、ベストセラーになった恋愛小説だった。テーマは『思春期の男女の甘酸っぱい恋と純愛』。

 思わず、「へぇ」と感心したような息が漏れる。


「私もたまに読みますよ。普段はミステリー小説を読むことが多いんです。その本は面白いですか?」

「面白い。主人公の少女の行動がいじらしくてきゅんと来るんだ」

「……きゅん?」

「な、なんだよ」


 頰にうっすらと血を上らせるヘクセン。

 どうしよう、この人すごく面白そうだ。


「いえ。夜に会うことが多かったですけど、昼間は健全ですね?」


休日に図書館で会う。一点の曇りもない健全さで妙に安心できる。


「何を言う。夜だって健全だ。フロベールさんに手を出したこともないじゃないか」

「それは当たり前です」

「当たり前なのか」


 一瞬、ぽかんとした彼が、おかしそうに笑った。


「今日は運よく休日なんだ。せっかくだからどこかに行く? 君も」


 そう言って視線を投げたのは、カバンから頭だけ飛び出したテディベアだ。


『ふふん。わかっているじゃない』


 嬉しそうにしている。


「残念ですが、私、行きたいところがあって」

「聞いてもいいか?」

『《大鴉の塔》よ』


 私が言う前に、彼女が答える。


『リディは厄介な問題を抱えていて、その解決に必要かもしれないから。だから行くの』

「《大鴉の塔》と言えば、確か今日は……」

「交霊会です。ブラックロペス・ゴッドフリート氏の」


 彼は何かを思案しているようだった。


「ゴッドフリート氏……は、あやしげじゃないか? 自由に観覧できるのか?」

「そう聞いています」

「そうか、なら俺も行く。俺も気になってきた。何時からだ? さっそく行ってみよう」

「え、え?」


 彼はぐいぐいと私を引っ張った。こうして、行こうかどうか躊躇っていたはずの《大鴉の塔》へ行くことになったのだ。




 《大鴉の塔》は見た目には中世の堅固な城だが、元は見張りのための塔を順に増築していったものであり、塔という呼称は真実、その通りである。

 やがて塔の規模が拡大するにつれ、身分の高い囚人が世間から隔離される牢獄へと化す。名を残すほどの偉人たちもここで死の足音に震えながら処刑の時を待った。そのひとりが、女王の従姉妹、アンヌ=マノン王女でもある。

 囚人の友は塔に棲みついたワタリガラスだ。小さな窓辺から夕方、彼らの黒い影が塔の頂上近くに帰ってくるのを見ることができた。ある者は「あのカラスを見ることで、自分がどこにいるのか思い出す」と書き残している。

 赤く染まった空を横切るカラスたちは、不吉の象徴だった。




 ンガア、ンガァ。

 ワタリガラスたちが黒光りするいかめしい門の上に一羽。目と体色の色を区別できる距離ではなくても、彼らの鋭い目が私を捉えているのではないかと思う。

 チケットカウンターに向かいながら、同伴者の彼が尋ねる。


「ここへは何度目?」

「さあ……? 昔、遠足で行ったのは覚えていますよ。それも門の前で号泣して、絶対に中には入りませんでした」

「どうして? 怖かったから?」


 そうですよ、と私は肯定した。


「よくわからないけれど、怖かった。行けば怖いことが待っている……。どうしてか、当時の私はそれを確信していたんです」


 私は四歳ほどの子どもだった。女王だったという前世の記憶をぽつりぽつりと思い出しかけはもてあまし、混乱していた。泣きわめくことが多ければ、ふいに大人たちが信用できなくなって反発もした。

 そんな頃、当時通っていた幼稚園で他の子どもたちと一緒に保育士に連れていかれたのが《大鴉の塔》だった。

その時も、私は入口前で泣きながら入るのを拒否した。私の手を繋いでいた保育士の男性が困ったように私の顔を覗き込んでいたのを覚えている。

『どうしたの、リディ。昼間だから怖い幽霊なんて出ないよ? 怖くても先生がいるから大丈夫だよ?』

 今思えば、「幽霊」よりも「記憶」の方が怖かった。《大鴉の塔》に行けば、否が応でもなく前世の……女王の記憶が揺さぶられてしまうから。だがそれはこの世のだれにも理解されないだろうけれど。


「それからほとんど初めてここに入るんじゃないか? それもなかなか珍しいな。俺は初等学校までの間に五度は行った」

「首都育ちの子にとっては定番のスポットですよね」


 今は外国からの観光客もずいぶんと増え、多言語が飛び交う人気観光地となった《大鴉の塔》。

 夕方になっても訪れる人は途切れない。

 特に今日は、二人と同じく、ゴッドフリート氏の交霊会を観覧する人も混ざっているからだろう。

 地上に横たわる《大鴉の塔》を一望できる広場には特設ステージが設けられていた。映像を映す機器まで設置されている。ステージ前に並べられた折り畳みの椅子はすでに八割以上が埋まっていた。

 何とか揃って席に座ると、彼がまだ温かい紙袋を差し出す。先ほど道中で買ったホットドッグだ。お礼とともに受け取り、一口かぶりつく。


「買っておいて正解だったな。結構な長丁場になりそうだ」

「……美味しいですね、これ」

 

 公園の屋台で買ったジャンクフードなのに、ここまでジューシーな味わいと歯ごたえがあるとは予想外で、思わず声に出してしまった。


「だろ? あちこち外を見回るから美味しいものにも詳しくなるんだ」

「へえ……」


 素朴な感動を覚えながら完食すると、ヘクセンがこちらをじっと見ている。


「ちょっと待て。ケチャップがついてる」


 そのままナプキンで頬に軽く当てる。


「よし。取れた」

「ありがとうございます……」

「どういたしまして」


 びっくりした。こんなことをされるとは思ってもみなかったから。さらに言えば、動揺している自分にもびっくりだ。

 片手を頬に当てながら熱を持っていないか確かめる。

 これは、まずい。


『ふふふ……』


 だが、カバンのテディベアが小さく笑っていたことに気付く。彼女は今のやり取りをしっかりじっとり目撃していたに違いない。

 無言で、テディベアの頭を掴んでぐいぐいと少々乱暴に揺らす。

 あー、リディが虐待してるぅ、とやっぱりまだ嬉しそうにしているぬいぐるみ。そのぬいぐるみを眺めるヘクセン。


「見れば見るほど不思議だ」

「中身はただの綿なんですけどね」

『違うわよ。中には乙女の秘密が詰まっているの。ふふん』

「はいはい。おしゃべりはそろそろやめましょうねマリーさん」


 む、とテディベアは押し黙った。

 イベント開始時刻になり、一斉に照明が灯り、荘厳な調べのオルガン曲が流れてきた。

 黒いステージ上にドライアイスの白い霧が充満する。

 燕尾服の司会が、白い霧から現われた人物を紹介した。


『おまたせいたしました。ブラックロペス・ゴッドフリート氏でございます』


 黒いローブに、首から下げた金色の十字架。黒い髭がもじゃもじゃと生えた年齢不詳の男だ。

 椅子に並んだ観客に向かって頷くと、司会にも進行を促した。

 司会は今回の交霊会の趣旨を説明していく間にも、真っ黒なうろのような目を観客一人一人に注ぐようだった。

 一瞬、私の視線と交錯した気がして、背筋がひやっとする。


「これより、かの恐ろしき《大鴉の塔》を探索に参りましょう……。我らが出合いますのは、悲劇の王女アンヌ=マノン。深い嘆きの中に生涯を閉じ、いまだにこの塔で目撃されし霊が、みなさまの目に現れることでしょう……。ゴッドフリート氏とともに、今宵アンヌ=マノンに出会う者は、開場の際にみなさまにお渡ししたくじの抽選結果により選ばれます。その数、十人。これより発表する番号の方は前に出ていただきます」


 くじで選ばれなかった人はステージ上の映像機器からその様子を見学するらしい。

 司会者はポケットからメモを取り出し、番号を朗々と読み上げた。

 私の番号は九十九番で、隣の彼は九十八番である。


「もしも九十八番が呼ばれたら、フロベールさんが行くといいよ。気になっていただろう? 俺はフロベールさんについてきただけだからさ」

「いいのですか?」

「うん」


 そうなれば申し訳ないが、このイベントが気にかかるのも事実だ。好意をありがたく受け取ることにする。


「五十番、八十六番。……最後の一人ですね」


 司会者はたっぷりと息を吸いながら「九十九番」と告げる。九十九。……私だ。


「やった……」

「おめでとう」

「ありがとう」

「俺はここで見ているよ」


 ヘクセンと握手を交わす。立ち上がって、ステージの前へ歩み寄る。くじの番号を確認した陰気な係員が頷くと、壇上のゴッドフリート氏が下りてくる。

 他の探索者は、ほとんどがゴッドフリート氏の交霊を娯楽として考えているような人々だった。クスクスと笑う者までいたが、ゴッドフリート氏の眼光が彼らを照らせば、ことごとく押し黙る。

 選ばれた参加者には銀のガスランタンとマップ、ゴッドフリート氏と同じような闇色のローブが支給された。

 ゴッドフリート氏は他の探索者の前に出ると、押し殺したような低い声音で注意事項を読み上げる。


「一つ、わたしから遠くに離れないこと。一つ、わたしのいうことを聞く事。一つ、死者を冒涜しないこと。以上を守れない者は地獄に落ちるであろう」


 通常の観覧時間を過ぎている《大鴉の塔》。外観の照明も最低限しかつけられていなかった。

 入口の鉄の扉は堅く締め切られている。昼間であれば砂色であるはずの石材は、ランタンの光を鈍く反射している。

 ゴッドフリート氏は、扉を両手で押し広げた。扉の軋みがまるで鳴き声のよう。

 共に内部に入る見学者たちに、唇をねじまげながら呟く。


「さあ、これから死者の世界へ旅立とう」


 その時、私の腕にきゅっと掴まるものがあった。カバンのマリーが震えている。

 次々と前を歩く人々がさらに暗がりに入っていこうとする中、私も覚悟を決めて一歩を踏み出した。……死者の世界へ。

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