第3話

 あのペンダントを手に入れてから、妙な夢を見るようになった。


 寝ている私の頭上でカラスとフクロウが血みどろの戦いをしている。

 カラスは大きな嘴でフクロウの腹や翼を突こうとするし、フクロウはフクロウで猛禽類のがっしりとした爪で応戦する。

 フクロウの綿のように柔らかな羽毛が血に染まる。カラスの黒い羽根が剥がれていく。

 絡まった二体は部屋中のあちこちにぶつかった。作業机にあった本や筆記用具がばらばらと落ちる。照明用の置きランプが倒れて、粉々のガラス片になる。

 眺めていると、フクロウは以前も夢で見かけたメンフクロウであるような気がするし、カラスは私にペンダントを渡してきたワタリガラスのような気もする。どちらも「キィキィ」とか「ガァ、グエッ」といったけたたましい鳴き声を上げていた。

 戦いはいつも互角で、決着つかず。

 結末を迎える前に目が覚めてしまう。起き上がって部屋を見渡せば、そこは昨晩寝た時と同じ風景。部屋が荒れた様子もない。

 ただ、作業机に置いていたはずのペンダントが床に落ちているばかり。

 枕元のテディベアはなぜか、ふわふわの毛を震わせてヘッドピースにへばりついている

『リディのバカっ! 死んじゃえ!』

 という具合に、人間であれば涙を浮かべて居そうな声音で叫んでいる。彼女は何を見たのか、教えてくれない。



 ところで、私ことリディの通勤手段は路面電車トラムである。

 首都の旧市街の一部地域では景観保持のために自家用車の通行が原則禁止されている。

 そのため、今も路面電車トラムの利用者はかなり多く、朝の通勤時は赤い鉄の箱にぎゅうぎゅうづめになることもしばしば……。

 トラムを下りると、国民議会場のさらに奥には大統領府が構えている。こちらは新王宮と呼ばれていただけあって、華麗な雰囲気がある。

 周囲には官庁街と、合間を縫うように木立や広場が点在していた。その広場の一つに差し掛かったところで、人が大勢集まっている。これからイベントでも始まるらしい。皆が赤や青、緑といったカラフルなポロシャツを着て、屋台の設営をしている。


『何かお祭りでもするの?』


 カバンから顔だけ出したマリーがこっそりと、しかし興味津々な声を出す。


「これから下院議員選挙なの。もう二週間後だから広場の使用許可が下りたみたいだね」


 ひとまずあとで顔を出すことにして、職場に向かった。


 昼食の頃合いになると、国立国民議会図書館ポンパドーラからぞろぞろと人が出ていく。私もカバンを持って人波についていく。

 辺りの官庁街からも官僚らしきスーツ姿が一斉にあの広場に向かっていた。

 広場には、すでに選挙スタンドが出来上がり、スタンドが無料配布している飲食物も順調にはけているらしい。お祭りのような盛況ぶりだ。いや、実際にこの国の人々にとって、選挙とはお祭りなのだ。


 この国の選挙は世界的に見ても規制が緩いと言われている。選挙年齢、被選挙年齢はともに十八歳。そのため、十八歳の高校生が議員に立候補することもあるし、四十代のホームレスが一念発起することもあるし、普通の主婦が当選することもある。

 選挙とは生活に密着したカジュアルなものとして認識されている。それを表しているのが選挙スタンドの存在だ。

 選挙スタンドは各政党が地域ごとに設置する屋台のようなものだ。飲食物などが無料で提供されることがあり、その内容は党のポリシーに従って多様である。ただ、どこも選挙スタンドに立ち寄る人々に対して、候補者や政党が自己の主張を伝える場として機能していることは間違いない。

 私も選挙権を持つ国民の一人として次の大統領が誰になるのかは気になるところ。今日は選挙スタンドをのぞきに来たのだ。

 どの政党の選挙スタンドもすでに盛況であったが、私はホットドッグ目当てに赤い選挙スタンドへ。

 シンプルに真っ赤なペンキで塗られたスタンドは、現在の与党、労働党のものだ。看板にも『ホットドッグは我が血肉なり!』というスローガンが派手に掲げられていた。

 昼食代わりにホットドッグを平らげながら、ボランティアの政党スタッフの話に耳を傾ける。


「今回の選挙はどうなりそうですか?」

労働党うちが一番だよ! と言いたいところだが、実際のところは難しいだろうねえ。政府の会計不正の問題が響くだろうし、何よりもこの選挙区には有力候補を立てられなかったのが痛いね」


 ほら、と言って顎で示されたのは観葉植物で飾り付けられた青い選挙スタンド。スタッフはみんな青のポロシャツを着て、あちらこちらへと飲み物を配っている。この労働党の選挙スタンドと同じぐらいに人が集まっていた。


「あっちの国家民主党にはセドリック=マクレガンがいるからさ。まず顔がずるいだろ、賢いのもずるいだろ、人柄がいいのもずるいだろ? セドリック=マクレガンが十人ぐらいに分裂すれば労働党は選挙区で一議席も取れないよ。こっちとしては本当にやりにくいんだよね。あ、よかったら、これ僕の名刺だから。この選挙に出るわけじゃないんだがね」


 赤いポロシャツに蛍光色のベストを着た紳士からフランクに渡された名刺。ざっくばらんに話をしていた彼は、現労働党党首だった。



 飲み物が欲しくなったので、今度は青い選挙スタンドに寄った。青のポロシャツがトレードマークの国家民主党は、野党最大の党だ。今回の選挙で与党への返り咲きが囁かれている。労働党はメラメラと燃えるような情熱的なイメージのある党だが、国家民主党はどちらかと言えば、保守的でクレバーなイメージがついている。それを象徴してか、選挙スタンドにもチェスブースが設けられているのが特徴だ。

 アイスティーのカップを受け取ると、そこでもスタッフの話を聞く。


「今回の選挙はどうなりそうですか?」

「ま、ぼちぼちじゃないですか? 与野党が逆転すればそれでよし。そうなれば首相も交代するしかない。労働党の政府も悪くない方だけど、ちょっと首相がダメだからね。説明責任のなさがちょっといただけない」

「ああ、会計不正の問題ですね。たしかにずいぶんと叩かれていたようでしたが」

国家民主党うちのマクレガン先生も最前線で批判していんですよ。あの人がいるだけでうちは結構安心できる。ちょっと前は女のことでもめていただけど、若いうちだからそんなこともあるさ」


 また彼の名前が出てきた。こういう選挙の際には、彼が著名人であることを認識する。普段は仕事上で関わりのある気さくな取引先の姿しか見ないから。


「今日もそろそろここに顔を出すはずですよ。せっかくだから会っていかれてはどうですか?」

「いえ、私は大丈夫です」


 空のカップをゴミ箱に入れていると、目の端を自転車が横切った。


「リディ、リディ」


 キッ、とブレーキ音。自転車がじりじりとバックする。よっ、と自転車から降りて私の前に立った青いポロシャツ姿の人がこちらへ向かって両掌を上げる。その素振りで思わずハイタッチ。


「応援ありがとう!」


 爽やかな笑顔ときらりと光る白い歯。営業用のスマイルに騙されているような気になる。


「こんにちは。選挙活動ですか?」

「もちろん。今日、君に会えてよかった。今度、うちの党の演説会があるからよかったら来て」


 セドリック・マクレガン議員は、かぶっていたヘルメットを取り、ショルダーバッグからビラを出した。スムーズすぎて反射的に受け取ってしまった。


「もうすっかり怪我が治ったようですね。安心しました」


 彼は先日、元婚約者とのいざこざで怪我をした。その場にはリディも居合わせたため、その後が気になっていたのだ。


「まあね。治りが早いから選挙活動も全力でやらなくちゃいけないけれど。君の方はどう? 元気?」

「ごくごく平凡な毎日ですよ。むしろ少し前より余裕があるかもしれません」

「ああ、そっか。君たちの仕事相手の大体が選挙活動中だからかな」

「国民議会も閉会中ですから」

「なるほど」

「議員はお忙しいでしょうね」

「『議員』なんて呼ばないでくれ。今はただの候補者に戻っているんだから。ぜひ、親しみを込めて『セディ』と呼んでくれ」

「呼びませんよ。でもたしかに今は議員ではありませんし……ただのマクレガンさん?」

「うん、まあ、合ってはいるんだけれどね」


 腕組みをしたマクレガンさんがもの言いたげな目を向けてきた。


「もう一回呼んでみて」

「マクレガンさん、ですか?」

「うん、これはこれでいいかもしれないね」

「あの……愛称ならいくらでも呼んでくれる方がいると思いますよ。さっきからたくさんの美女がマクレガンさんを見つめています」


 おや、と思い出したように彼は笑顔で片手を振った。こちらを窺っていた女性たちが大勢手を振り返す。すごい人気だ。


「そろそろ休み時間が終わりますので、私は戻ります。選挙活動、頑張ってくださいね」

「そうか、残念だ。もっと話したかったのに。また会える時を楽しみにしているよ。選挙が終わったらデートしよう。絶対だよ?」

「しませんよ」

「ひどいなあ。他人と君とでは、ブロッコリーと雪の妖精ぐらいに違うのに」

「私はブロッコリーも好きですよ」


 ひらひらと手を振る「ただのマクレガンさん」に別れを告げる。

 少し歩いたところで後方を振り返れば、すでに周囲に彼を取り囲む輪ができている。今度の選挙でも、彼の当選は堅い。

 広場の隅に、小さな選挙スタンドがあるのが見えた。墨で塗られたように真っ黒な選挙スタンドだ。

 その前に、黒いローブを纏い、黒髭が叢のように生い茂った男が立ち、私を見ていた。


「お嬢さん」


 気が付けば、男が目の前にいた。だいぶ距離は離れていたはずなのに。

 元は黒目だったらしいが、今は白濁している目が私の姿を映した。わけもなく、嘔吐感に襲われる。


「真理の党へ入らないかい。君が生まれた意味を教えてあげるよ」

「け、結構です!」


 生理的嫌悪感に襲われた私は腕を掴まれる前に走って逃げた。

 あれは何だ。怖い。

 言い知れぬ不安を抱いたのだが、やがてこの勘は当たることになる。



 選挙期間中は、国民議会も当然休会する。解散した下院議員は自分の選挙活動に精を出すし、解散していない上院議員も自分の党の選挙活動の応援に回る。そうなると、議員から国立国民議会図書館ポンパドーラへの調査依頼は減るのだ。

 だが私たち館員の仕事がそのまま激減するわけではない。代わりに、一般国民から選挙がらみのレファレンス対応が増える。

 レファレンスとは、利用者から図書館に対する問い合わせだ。

 たとえば「宝石」について調べたいとする。しかし、一口で「宝石」といっても、人によって関心は異なるものだ。鉱石としての「宝石」。ジュエリーのカタログに現れる「宝石」、もしかしたら「宝石」のデザインや加工方法を知りたいのかもしれない。しかし、すべての利用者がすぐに目当ての資料に辿り着けるとは限らない。そういった「知りたい」という問い合わせに対し、利用者の求める資料や情報を提供するのが図書館における重要な職務だ。

 それに備えて、国立国民議会図書館ポンパドーラでは国内のレファレンスを集積したデータベースを整備し、携帯端末メルクリウスで誰でも閲覧できるようにしている。

 さらに今回の選挙に役立ち、想定しうる典型的なレファレンスはあらかじめ予備調査の形で冊子媒体にまとめることが決定された。私も一部原稿を担当し、提出している。

 完成した冊子をチェックしていた私は、ある表題に目が吸い寄せられた。


『真理の党からの下院議員候補者ブラックロペス・ゴッドフリート氏について』


 「真理の党」と言えば、ついさっき聞いた名前だ。そのまま報告に目を通せば、個人写真まで掲載されている。

 写真には見覚えがあった。

 さきほど出会ったのはブラックロペス・ゴッドフリート氏だったらしい。

 今回の下院議員選挙、首都五区のダークホース、ブラックロペス・ゴッドフリート氏。職業は、預言者及び霊能力者。真理の党の党首。過激発言が多く、メディア出演が徐々に増えている。今回の選挙で一議席の確保を狙っている。


「ブラックロペス・ゴッドフリート氏って、ゴッドフリートがファミリーネームなんだよね? 本名ではなさそうだ。面白いよね、彼は」


 コーヒーの香りが立ち昇るマグカップ片手に、上司が通りざまに声をかけてきた。


「『ブラックロペスは間違わない』ってね。この調子であらゆる問題も解決する。『なぜこの国が発展しないのかって? この国が間違っているからだよ。でもね、ブラックロペスは間違わないからさ』。何の具体策も言わないくせに、出てくるだけで番組の視聴率が上がるらしいよ。すごいね、この国」

「へえ」

「フロベール君、知らないの? 普段、どうやって生活しているの」

「名前だけは知っていましたが、そこまで有名人だったとは思いませんでした」

「注目してみるといいよ。彼はたぶん、この選挙の台風の目になるから。そういえば、彼、来週に《大鴉の塔》に行って、あのアンヌ・マノン王女の霊と交信するらしいよ」

「……そうですか」

「どうしたんだい、そんな怖い顔をしてさ。ああいう怪しげな人は嫌いそうだね」

「室長、それはブーメランになりますよ」

「どうして?」


 きょとんとする上司に自覚はないらしい。


「そのジークフリート氏は支持を受けているんですか?」

「面白がられているんじゃない? これからだよ、これから」

「これから、って……」

「これから増えていくんだよ。彼の支持者がさ」


 にやにやと上司が笑う。


「まさか。普通、あそこまで怪しいと警戒しませんか? 民主主義の時代に、ああいう人が多数の支持を受けるとは思えませんよ」

「君ね、まさか多数決原理は間違わないという神話を崇拝しているの? 民主主義が正常に機能するのは、大衆が一定以上の知能を有し、正しい判断ができる状態であり、なおかつ柔軟かつ堅牢な国家の仕組みが成立していることが前提条件にある。現に、どこかの国ではあくまで合法的な手段で国民が選んだ世界最悪の独裁者が誕生したじゃないか。国民がそれを選んだなら、独裁されたって自業自得だよね」


 人間はまったく歴史から学ぼうとしないよねえ、と上司はあっけらかんとした様子で戻っていった。

 上司の毒に当てられた私はその背中を見送るほかない。やっぱり厄介な人だ。

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