第2話

『不思議なことがあるんだね。何だろ、あのカラス』


 しゃべるテディベアが自宅のソファーで寝転がっていた。

 昼間の出来事には困惑させられたが、自宅に戻って夜を迎えるころには少しは冷静に考えられるようになっていた。


『気が付いたら周りも元に戻っていたし。あたしたちは何を見たのかな』

「白昼夢でしょう? 今までにも何回かあったから」


 しかし、アンヌ=マノンと刻まれたペンダントはしっかりとこの手に重さを伝えている。

 アンヌ=マノンの文字を見て、眩暈めまいを起こしたと思ったら、いつのまにか見学者の喧噪漂う元の謁見室に戻り、恐ろしいほどの疲労感が襲ってきたのだ。

 これはもう今日は動けなくなると思い、帰り道で適当に夕食をテイクアウトしてから帰宅し、今に至る。


『でも、マリーも見たんだよ? 同じ白昼夢を見るものなの?』

「マリーは超常現象の権化だから」


 少しの沈黙。すぐに怒りだした。


『マリーはマリーだもん! リディの見た幻とかじゃない! ここに、ちゃんといるんだから! リディのバカ!』

「落ち着いてよ、ご近所に迷惑だから」


 いつもならこのぐらいの軽口は受け流していただろうが、今の彼女は敏感になっているらしい。急にわがままな妹を持った気分だ。


『……ねえ、アンヌ=マノンってだれ』


 沈黙がテディベアとの間に落ちた。ひとつひとつ、慎重に言葉を選ぼうとする自分がいた。


「女王マリー=テレーズの従姉妹だった人。『悲劇の王女』アンヌ=マノン……」


 十日間の女王。そう呼ぶ人もいる。

 彼女は夫の家族により否応なく王位継承の争いに担ぎ出された。先王の死後、すみやかに旧王宮での即位を宣言したものの、十日後には反対派によるクーデターで失脚。逃亡したもののやがて捕まり、『大鴉の塔』で幽閉された。その後、王位僭称、国家転覆の罪に問われて十八歳の命を散らす。

 彼女には有名な肖像画がある。婚姻の記念に画家に描かせたもので、彼女の容貌をいきいきと伝えている。

 たまたま掲載されていた本の図版を見せると、マリーはじっと見入っているようだった。


『……本当に、こんなきれいな人がいたの?』

「実物の方がもっときれいだったよ。遠目でしか、見たことはないけれど」


 太陽の光を寄せ集めたような金髪ブロンドと深い蒼の瞳、林檎のように赤く気品ある唇。ほっそりとした首筋と雪のような肌の白さ。

 当時の王侯貴族の中でもっとも美しい人だった、と評する歴史学者もいる。女王マリー=テレーズは、彼女の美しさに嫉妬して、処刑命令書にサインしたのだとも。もちろん嫉妬のために処刑したというのは極端な話だが、彼女の美と、彼女に訪れた悲劇的な結末は、今も映画やドラマ、小説などの形となって多くの人を惹きつける。まさしく「時代のヒロイン」の名にふさわしい。


「ひとつ年下だったけれど、マリー=テレーズは彼女を羨んでいたの。容姿も、才能も、気品も……どれをとっても自分では勝てないと思い込んでいた」


 アンヌ=マノンの処刑後には、ますます自分の中の『アンヌ=マノン』は美化されていく。彼女だったらどうしただろう。彼女だったら……。ああ、アンヌ=マノンの処刑を命じたのは私だというのに!


「……そうだわ、思い出した」


 脳裏で、とある光景が閃いた。恐縮しきった使者と、それに相対する私……。


「死ぬ間際、アンヌ=マノンは私へ書簡を送ったわ。でも雨がひどくて、使者の到着が遅れた上に、手紙も濡れてしまって……。肝心な部分が読めなかったの」


『どうか、死に行く従姉妹の最期の望みを聞いてください。それは――』


 私は鈍く光るペンダントを引っ張り出した。『愛しい人』、『アンヌ=マノン』と刻まれ、女性の……おそらくアンヌ=マノン自身の肖像が描かれた、それ。

 ペンダントを強く握りしめた。心臓が大きく鼓動を打ち始める。


 ――もしかしたらこのペンダントこそが、アンヌ=マノンの望みに繋がっているのかもしれない。


 だとしたら追いかけずにはいられなかった。




 寝る前に、携帯端末メルクリウスにメッセージが入っていることに気付く。


『明日午後七時。《ムーラン・グロッタ》で。もしも暇だったなら』


 それだけの簡素なテキストだった。

 彼は私が行かなくともいつものようにウイスキーやビールを黙々と飲み干し、頃合いになったら帰るのだろう。しかし、私が行けば、多少なりとも彼の時間を割いてくれるのだろう。

 別の感情で心がさざ波立つ。ずっと困惑しているのだ。彼との微妙な関係性を。


『やっぱり運命だったんだわ』


 彼女は確信するように断言するのだが、そう考えるのはいかにも短絡的だと思う。偶然は二度重なったところでただの偶然のままだ。


『リディ、黙っていないで今すぐ張り切って返事を返すべきよ』


 何も言わない私にマリーは業を煮やした。


『こういう時こそ楽しいことをたくさんしなくちゃいけないわ。でしょ? 結局、行くの? 行くよね。デートだもん』

「……行かない、かも」


 携帯端末メルクリウスをカバンにしまう。


『リディのパパの顔がまる潰れだね?』


 耳に痛いことを言うテディベアの額にデコピンした。


「他人事だと思って」

『そんなことないもん。マリーはリディと一心同体、離れられない身の上なのよ? リディの恋愛に口を差し挟むしかやることがないの!』

「別にそうと決まったわけでもないのに、張り切る必要はないと思うよ?」


 とはいえ。携帯端末メルクリウスをもう一度取り出し、メッセージを再読する。


 《今夜七時。《ムーラン・グロッタ》にて》


「……何回か会っておかないと、角が立ちそうではあるのかも」


 言い訳めいた言葉に気が重くなる。自分で発したはずなのに。

 相手は悪人というわけではない。むしろ善良の化身のような人である。単に自分自身の心の問題で、それこそが最も厄介なこともわかっている。

 気を引き締めなければ。今の私は正常な判断力を欠いている。

 次の日の夕方。仕事終わりに、寄り道をすることに決めた。

 目的地はパブ《ムーラン・グロッタ》。酒類と肉料理がメインのカジュアルなパブだ。



 ヘクセン・クォーツ。それが《ムーラン・グロッタ》で会う彼の名だ。

 初めて会ったのは、テディベアのワンピースを作るための生地を探しに繊維街を訪れた時。同じ生地に目をつけて、譲ってもらったのが縁だった。

 次に会ったのが、父に男性を紹介してもらった時だ。建築の現場監督をしている父は、娘の異性関係があまりにも乾いていることを心配し、知り合いの建築士を紹介すると言い出したのだ。まずは気軽に友人関係から、という父に私は了承した。父も同席しないお見合い会場のレストランに現れたのが彼だった。


「すみません。リディ・フロベールさんですか?」


 そう声をかけてきた時、私はもう見合い相手が来ないことを悟り、ひとりで食事を済ませて、今まさにワインの最後の一口を飲み終えようとしていたタイミングだった。

 彼は見合い相手の兄と名乗った。弟のカール・クォーツが急に熱が出てしまい、約束を忘れてしまった。代わりにレストランに行くことにしたが、仕事が終わるのが遅くなってしまったのだと。

 事前に見せられていた写真では、弟の方は大人しそうで中性的な顔立ちをしていたのだが、目の前にいる男性的な偉丈夫とは印象がまるきり違い、困惑したのを覚えている。職業は警察官だという。

 黒髪を後ろに撫でつけ、眼光が鋭く、どことなく怖かった。しかし、見覚えがあったのも事実だった。それは彼も同じだったようで、二人で首を傾げていたところ、彼の方が「もしかして、最近、繊維街で……」と言いかけたから、会うのが二度目だと気づいたのだ。

 彼はあの後に別のいい生地を見つけ、今は出来上がったカフェカーテンを使っていると言った。


「身の回りにあるものを自作したくなるんだ。皿もそうだし、棚やベッドのような大きなものも」


 物へのこだわりを語る彼に好感を持った。身近に家具を手作りする職人気質の父を見ていたからかもしれない。

 レストランの帰りは彼に家の近くまで送ってもらった。その際に連絡先を交換し、週に一度は彼に誘われ、パブに行く日々を過ごしている。

 午後七時にパブ《ムーラン・グロッタ》前に行く。目的の人物はガラス扉の向こうで私に気付いて手を挙げた。


「こんばんは」

「どうも、フロベールさん。何を飲む?」


 カウンター席にいる彼は隣の椅子を引く。誘われるままにそこへ腰を下ろした。


「ではラドラーを一杯」

「今日も一杯だけ? 割合も一対一?」

「はい」

「そうか」


 彼は顔を綻ばせて、店員に注文をした。すでに彼の手にはウイスキーのグラスが半分ほど残った状態で握られている。

 ラドラーとはビールにレモネードを加えたアルコール飲料だ。口当たりがよく、アルコール度数も高くない。ラドラーの割合が「一対一」というと、ビールとレモネードも同量であることを指す。


「この店はカクテルの品揃えも豊富なのにね。君はこだわりの強い性格だろう?」

「ラドラーが好きなんですよ」

「好きな割には、注文は一杯だけだよね」

「家の外では飲まないようにしているんです。酔う姿を見られたくなくて」

「わかった。大きな失敗をしたことがあるんだな?」


 彼は機嫌がよさそうにグラスを空ける。


「失敗しかけたことが。私にはこれぐらいのジュースでちょうどいいんです」


 店員が折よく注文品を持ってきた。「乾杯チュース」と言いながらグラス同士を合わせると甲高い音が鳴る。

 少しだけ口をつけただけでテーブルに置く。


「まだ若いからあんまり味がわからないかもな。そのうち俺みたいな酒飲みの気持ちもわかるようになる」

「そうかもしれませんね」


 彼はかすかに笑いながら、「今、適当なことを言っただろ?」と告げてくる。警察官をしている彼は、嘘には敏感だ。適当な返事をしようものならたちまちに見抜かれてしまう。


「試しに一口飲んでみるか?」


 ウイスキーの入った飲みかけのグラスを差し出される。やめておきます、と首を振る。


「それ、かなりアルコール度数が高いものではありませんか?」

「ウォッカほどでもないさ」


 気分を害した風でもなく、付け加える。


「でもフロベールさんは賢明だよ。最近、こういうふうに酒を勧められたのを飲んだら、その酒に薬が入っていた、なんて事件も多いんだ。そのぐらい注意深い方が安心できる。その酒も、飲みかけのまま席を立つのはやめておいた方がいいぞ」

「そうします」

「あ。今のは嘘じゃなさそうだ」


 彼は皿のナッツ類を適当に掴んで口に入れた。


「フロベールさんに恋人は……いないか。いたらこんなところに来ないし、弟と見合いみたいなこともしないか」

「取り調べですか?」

「あくまでも個人的興味だよ。パブで男女が二人連れで並んで座ったら、多少なりとも気にするところだろ?」

「そうですね。世間話のついでによく出てくる話題ですよね」

「それで答えは?」


 一拍遅れた後で、私の恋人の有無についての問いだと理解した。


「ご想像にお任せします」

「ならいないんだろうな」


 彼はますます確信を深めたらしい。私はむき出しの心を手探りでまさぐられているようで落ち着かない。口の中をラドラーで潤した。


「安心してほしい。俺にもいない。君は弟に会うのをやめたんだろ?」

「ええ、一度も会うことなく終わりましたね」


 父に見せられた写真の主は、熱で倒れた後に断りの連絡を入れてきた。たまたま看病をしにきてくれた同僚の女性とそういった関係になったから、会うのをよしたいということだった。もちろん、申し出は快諾した。

 会う前に判明してよかったと思う。その同僚の女性は以前から憎からず彼を想っていただろうし、とんだお邪魔虫になっていたかもしれない。


「弟を許してやってくれ。あれはあれで誠実なところもあるんだ」

「いいんですよ。まだ何も始まっていなかったんです。そんなことでいちいち傷ついてはいられません」

「フロベールさんもまだまだこれからなんだからしょげるな。そのうち、いいこともある」


 ヘクセンは空になったグラスを揺らした。


「なんなら俺と出かけようか」

「……デートの誘いみたいですね」


 少し息が詰まる心地がしつつもそう答えると、「そうでなくてもデートに誘ってる」と彼が言う。


「もちろん、フロベールさんがよければ。無理強いする気はないよ」


 ヘクセンは余裕たっぷりだ。

 彼のように魅力的な男性を、他の女性も放っておかないだろう。私がここで断っても気にしないだろうし、彼にはすぐ「次」が現われる。

 もったいないな、とは思うけれど。


「ごめんなさい。今、私の方の気持ちが決まっていなくて……」

『えぇっ? そこでことわるのはナシでしょ、リディ!』


 突如、割り込んできた少女の声に、私は無言で膝の上のカバンを見た。頭を出したテディベアが、しまった、とばかりに自分の口を塞いでいる。……マリー。

 ヘクセンもテディベアを凝視している。目が合うと、視線を明後日へと逸らして、私は席から立ち上がった。ジョッキにはまだ半分以上ラドラーが残っているが仕方ない不可抗力だ。


「今日はもうこれで失礼します、ヘクセンさん。それじゃあ……」

「待って」


 腕を軽く掴まれる。ヘクセンはあくまで落ち着いた表情で、私とテディベアを見比べた。


「以前からあなたがいつも持ち歩いているテディベアが気になっていた。ちょうど今、そのテディベアが、あなたとはまったく別人の声で話しているように聞こえた。詳しいことを話してくれないか?」

「……どうして、知りたがるのですか」

「フロベールさんを口説きたい。秘密の共有なんてとてもおいしい役回りじゃないか」


 ストレートな物言いに苦笑いする。あら、素敵、とマリーはもはや隠す気もなく、興味津々でヘクセンを見上げている。

 仕方ない。立ち上がりかけた椅子にもう一度座った。

 

「ヘクセンさんの興味を引く話かはわかりませんが……」


 そう前置きしてから、しゃべるテディベアことマリーについて簡単に話した。

 彼は幽霊入りのテディベアにも臆さず、軽く相槌を打ちながら聞く。

 マリー=テレーズ女王の記憶のことは誤魔化したけれど。


「フロベールさん、あなたは不思議な人だね。俺はどうしてか懐かしささえ感じているけれど、あなたにはまだまだ秘密がありそうだね……」


 かえって、ヘクセンの関心を煽ってしまったようだった。

 「懐かしい」、と彼から言われて、どきりとした。私も理解不能な「懐かしさ」を彼に感じていた。だから彼の誘いを無碍にできない。


「また会おう」


 別れ際の言葉にも頷いてしまった。

 いったい、私はどうしてしまったのだろう?

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