図書館員リディ・フロベールと大鴉の塔

川上桃園

第1話


 到着が遅れて申し訳ありません、と使者は目を伏せた。

 女王は、濡れた感触のする書簡を開く。案の定、インクが滲んで読めない箇所があった。


『かつて私と同じ王冠の運命を分かち合いながら、栄光の道を歩む女王陛下。どうか、死に行く従姉妹の最期の望みを聞いてください。それは――』


 その時。正午を知らせる鐘が雨に煙った街中に響き渡る。

 ああ、その答えはもうわからない。

 正午の鐘とともに、書簡を書き送った主の首が落ちてしまったから。

 ひとつ間違えば、処刑場に引き出されたのは女王の方だった。大鉈により首を切断されたのは彼女の首だった。

 鐘の音を聞いた女王は処刑場のある方角の窓ガラスをしばらく眺めていたが、書簡の文面へ目を落とした。


「アンヌ・マノン。あなたの望みは……一体、なんだったの……?」


 処刑を止められないのなら、せめてそれだけは叶えたかったのに。



 アルデンヌはフランス、ドイツ、ベルギーに挟まれた小さな国だ。人口は三百万。公用語はフランス語とドイツ語。一部ではこの二つが独自に合わさったアルデンヌ語も話されている。この小国の歴史は意外と古く、原型はカール大帝支配下のフランク王国まで遡る。以来、緑豊かなこの国では領土の拡大と縮小を繰り返しながら細々と生きながらえてきた。

 十八世紀初頭、当時はアルデンヌ王国と名乗ったこの国に初めての女王が現われる。女王マリー=テレーズ。叔父と甥が早逝したため、急遽即位した彼女は、絶対王政下のヨーロッパにおいては比較的穏健な啓蒙主義者だったと伝わっている。彼女には多くの恋物語の噂が囁かれたが、三十四歳という若さで没した。王位は縁戚に当たるヴィッテルスバッハ家に移った。

 ナポレオンのヨーロッパ侵略も乗り越えたアルデンヌ王室であるが、第二次世界大戦の勝利後に国民投票により王政は廃止され、フランスに似た半大統領制となる。二十一世紀の現在、アルデンヌは金融とITの先進国として世界にその名が知られているのである。



 私の人生にはしばしば不思議なことが起きる。初めて来た場所に既視感を覚え、読んだことのない本の中身を諳んじることができる。誰もいない公園で馬のいななきと鉄砲の音が聞こえる。古い建物を訪れると何もないところでけつまずき、柱の影で子どもの笑い声がする。夜、ふと目が覚めるとベッドの足元で白い人影がカーテシーを披露して去っていく。

 ついこの間は幽霊に自分の体を乗っ取られかけるという珍事に遭遇した。どうにか穏便に出ていってもらったが当の幽霊は私の傍を気に入ったのか、テディベアに宿り、日夜ポルターガイスト現象に勤しんでいる。

 科学主義が大手で闊歩する現代社会において、こんなことが起こるなんて誰も信じてくれないのかもしれない。けれどもこれが私にとっての現実なのだ。

 そもそも私自身が、三百年前に生きた女王の記憶を生まれつき持っている時点で普通じゃない。アルデンヌ女王、マリー=テレーズ。歴史の教科書にアルデンヌ初の女王として一行ぐらいはその名が記されている有名人の生きた記憶が、どうして私の中にあるのかはわからない。受け継いだ記憶にも虫食いがあるが、彼女が自分の人生の中でたくさんの後悔を抱えていたことはわかる。とりわけ……彼女自身の愛のことだ。

 現実に生きる今は二十五歳。アルデンヌの首都カールブルクで非現実と折り合いをつけながら一般市民として生きている。職業は国立国民議会図書館、通称「ポンパドーラ」の館員として、政治家のレファレンス業務を主に行っている。

 もちろん、勝手に話し出すテディベアのことは世間様には秘密だ。



 夏に入りかけの今は、ラベンダーの花が咲き始める。淡い青紫色がクリーム色のベランダに加わって、見ているだけで楽しい。

 そんな季節の穏やかな午後の国立国民議会図書館ポンパドーラの調査室。上司が珍しく私のデスクまで呼びに来たので、彼専用のオフィスに足を踏み入れた。デスクのボタンを操作するとオフィスを仕切るガラスの壁面の内側に白いカーテンが下りる。ずいぶんと物々しいことをするなと思っていたら、上司は実用重視の黒い椅子に座って両手を組んだ。


「フロベール君は国立国民議会図書館ポンパドーラに入館して何年目だったかな」

「三年目になります」

「うむ。ならちょうどよい頃合いだったね」


 彼は仕立てのよさそうなスーツのズボンから何かを取り出し、投げてよこした。慌ててキャッチした両掌の上に乗っていたのは、黒い小型メモリだ。大きさは小指の爪ほどしかなく、透明のプラスチックケースに入っている。


「……これは?」

「見ての通り、小型メモリだ。でもこの中にはある機密情報が入っている。職員の中でもごく一部の者しか扱わない。フロベール君、君にはこのメモリの保全を命じる。誰にも奪われないように」

「誰にも奪われないように、ということは狙う人がいるのですか?」


 突然の現実離れした話に腑に落ちない気持ちになりながら尋ねると、上司は「そうだよ」と重々しく頷いた。


「我々は国立国民議会図書館ポンパドーラの職員だ。いわば過去と現在、未来の知恵と叡智の最前線に立っている。職務上、政治の世界にも関わることもある。現実には、君が思っているよりも近い距離で、非現実的な世界が広がっていると考えるべきだ。一般から見えないところで、世界各国の情報機関が世界中に諜報員を送り込んでいるが、ここも例外じゃない。我々は普段から人としての良心を試されているんだよ」

「そうですか」

「君はとりわけ目立つ存在だから気を付けた方がいいね」

「内容はうかがっても?」

「それはいけない」


 上司は唇を歪めた。


「内容もわからないものを預かるのですか。厄介ではありませんか。私には荷が重いので返していいですか」

「それは困る」


 十分に渡る口論の末に敗北を認めた私は、メモリを自分のデスクまで持ち帰った。改めてみると、小指の爪先ほどしかない黒くて小さなメモリである。机上に無造作に置けばたちまち落下し、自分の足で踏み抜きかねない。

 どこに仕舞おうかと思った時に、机の角を占領するテディベアに気付いた。彼女の真新しいワンピースに縫い付けたポケットにそのメモリを入れ、真鍮のボタンで蓋をしっかり留める。


『何それ』


 だれにも聞かれないように小声でテディベアが聞いてきた。


「預かりものだよ。もしも誰かが持っていこうとしたら私に知らせてね」

『えー?』

「この間ワンピース、作ってあげたでしょう? ギブアンドテイクでどう?」

『まあいいけど』


 マリーの了承をもぎ取ると、ふたたび溜まっていた仕事に手をつける。

 初めの内はメモリのことが気になっていたが、それも煩雑な日々に埋没していった。

 私はもう一度メモリを想起することになるのは、半分ぐらい存在を忘れている頃になる。





『ねえねえ、リディ』


 次の日が休日だという金曜の夜。キッチンで夕食の準備をしていたところ、幽霊入りテディベアがめくっていたファッション雑誌をパタンと閉じ、ソファーから下りて、とたとたとキッチンまでやってきた。

 テディベアに入っているのは三百年前に死んだ少女『マリー』の霊だ。イーズ近郊の古い館を訪れた際に出会い、紆余曲折あって我が家に落ち着いた。違う時代を生きていたマリーだが、現代の最新ファッションには興味があるらしい。


『えーとね、行ってみたいところがあるの。連れていってちょうだい?』

「そうなの。どこ?」


 野菜を切っていた手を止めると、マリーは床の上で雑誌を開き、上に四つん這いになっている。ヒスパニック系モデルがエレガントな金色のドレスでポージングを取るグラビアページが見えていた。


『この記事によると、この写真が旧王宮で撮られたものだって。旧王宮といったらリディにも関係あるでしょ。行ってみたい』

「旧王宮? たしかに女王も住んでいたけれど、そんなに見るところもないと思うよ?」

『そんなことないもん。宮殿は女の子の憧れだもん。こんなところできれいなドレスを着て、赤い絨毯の廊下を颯爽と歩きたい。いいなぁ。憧れちゃうなぁ!』

「はいはい」

『軽くあしらわないでよ? 約束だからね? 約束したらぜったいに守らなくちゃいけないんだからね?』


 約束はした覚えはないけれど、場所を聞いてしまったからすっかり彼女は行く気になっている。


「でもねぇ」


 旧王宮には前に一度連れていかれたことがある。首都に生まれた子なら何度かその機会があるように。ただその時も見てはいけないものを見てしまったりして大変だったから子供心にもう二度と行くまいと思ったのだ。


『一回だけ! ちょっとだけだから! 連れて行ってくれないなら……呪ってやるっ!』


 とんでもないことを言いながらフローリングの上を転げまわるテディベア。シュール。


「あーあ。もう……呪うなんて物騒な言葉は使わないの」


 小麦色のふわふわをソファーに戻してやる。テディベアはふてくされたままだ。

 考えてみれば彼女は外の世界をほとんど知らない。私が普段仕事をしている間は留守番をしているか、職場のデスクでじっとしているだけだ。自分で好きなところに行けないのはかわいそうな気もする。

 翌日、大きめのバッグにテディベアを放り込み、いつもと違う路面電車トラムの駅で降りた。はじめは行き先を小声でしつこく聞いてきた彼女だが、バッグからふわふわの頭を出して目的地を察した途端、「うわぁ」と素朴な歓声を上げた。

 周囲にほりを巡らせた中にある大きな石造りの建造物が数百年の歴史を物語るかのように重々しくそびえたっていた。カールブルクの旧市街地は景観保護のため厳しい建築制限がかけられている。だからこの旧王宮とその周辺は時を止めたような美しい姿を保ったまま。小高い丘の頂上に腰かける優雅な女王そのものだ。

 かつて女王マリー=テレーズをはじめとした君主が生活の場とした旧王宮は、今は国内有数の観光地として年に百万人以上が訪れる。同じ敷地内に美術館、宝物館、博物館も併設されており、そちらを目当てに来る観光客もいるので常に人が多い。私がテディベアに話しかける変な人であっても目立たない。

 入場チケットは昨夜のうちにオンラインで予約した。当日販売のチケットカウンターの長い列をパスし、比較的スムーズに入ることができた。ピークタイムより遅い時間に訪れた宮殿内部は外よりも人が少ない。

 旧王宮は増築や大改装を繰り返してきた。内部は私の持つ記憶と様変わりしているが、ところどころに当時の面影を見ることができる。立ち入り禁止のロープが張られた細い廊下や、小聖堂のステンドグラス、庭園にせり出した国王のための大きなバルコニー……。

 そして、謁見の間にある玉座。今はレプリカが置かれているが、かつての女王はあの高みに立ち、きざはしの下でかしこまる謁見者たちを出迎えたのだ。

 ――謁見を終えるといつも夕刻。南側に張られた大きなガラス窓には西日が入り込む。傍仕えの者たちもちょうど出払っているわずかな時間に、玉座から下りて外の眺めを見るのが好きだった。

 私の国。……アルデンヌ王国。

 私の中にいる女王が感情とともに語り掛けてくる。私のものではない記憶なのに、「懐かしい」と思ってしまう。


『リディ?』

「……うん」


 ぼうっとしていたからか、バッグから頭を出したテディベアがこちらを見上げていた。黒いつぶらな瞳がきらっと光る。


『さみしいの?』

「そんなことないよ」

『じゃあ楽しい?』

「楽しいよ」


 歴史そのものは好きだ。西洋でも東洋でも何でも好き。大学時代の副専攻のひとつも歴史学。大学図書館所蔵の文献を読み漁ることに夢中だった。


『女王様はここにいて幸せだったのかしら。本当に大きな建物だから、住むにはちょっと広いわね』

「もちろんひとりが住んでいたわけではないよ。宮廷内に部屋を賜って住む貴族もいたし、使用人もいた。それでもまだ宮殿としては小さい方。ヴェルサイユやウィーンの宮殿の方が大きいよ」

『そっかぁ。これでも小さいんだね』


 フランス・ブルボン家のヴェルサイユとオーストリア・ハプスブルク家のウィーン。ヨーロッパで栄華を誇った二つの宮廷と比べれば、小国のアルデンヌの宮殿は随分慎ましいかもしれない。

 それでもよく「残った」。国の興亡が激しく繰り返されたヨーロッパ大陸で、アルデンヌという国名が今もあるというだけで、アルデンヌ人として誇りに思うのだ。


『ふふん。あたしみたいなお友達はいなかったんでしょ? リディったらいまだにあたし以外に友達いないもん』


 テディベアがカバンの中で胸を張っているのにむっとする。


「そんなことないわよ」

『あ、そっか。いいなー。リディはモテモテだもんねー。あのイケメン議員にもしょっちゅう口説かれているしぃー』


 マクレガン議員の「あれ」はただの趣味か習性だ。パブロフの犬のように、ある特定条件が満たされると反射的にしてしまうだけ。

 ふと、窓辺からの日差しに影が差した気がして、視線がぬいぐるみから謁見の間の窓へと滑る。

 ……ガア。

 鳥の鳴き声がした。

 足元に、カラスが一匹来ている。大型で、顎の辺りがふさふさとした羽毛に覆われているからおそらく大鴉ワタリガラスだ。しかも体色が白く、眼は赤い。白い大鴉ワタリガラスは滅多に見ないから珍しい。

 それにしてもどうして室内に?

 不審に感じていると、ようやく周囲の異変に気付いた。しん、と静まり返って、謁見の間には誰もいない。

 どうやらまた厄介な事態に巻き込まれたらしい。


『リディ。このカラス、何か嘴に加えているみたい』


 テディベアが小さな腕で目いっぱい指さした方向には、金色のチェーンのようなものが揺れていた。

 目を凝らしてみると、嘴に金のペンダントを咥えているのだ。

 カラスはとてとてとこちらに近づき、これを取ってくれと言わんばかりに嘴を上下した。おそるおそる右手を伸ばす。

 カラスは器用に掌にペンダントを置き、すぐさまバサバサと羽音を立てて赤い毛氈の敷かれた廊下を滑空して消えた。

 表面には女性の横顔と、文字が刻み込まれていた。


『わたくしの最愛』『アンヌ=マノン』


 アンヌ=マノン。

 それを目にした時、すべての音が遠ざかり、記憶は過去へ過去へと誘われていく。

 かわいそうなアンヌ。絶世の美女とうたわれた私の従姉妹。彼女の首は胴体と離れ、今も石の塔の地下で眠り続けている。だれが殺した? そう、この私が殺したのだ――!

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