第3話 変わらぬ先輩

 俺の前に笑顔でやってきた女性は佐藤由美だった。彼女は数学を担当している。文系の俺には縁のない教科だ。俺と縁があるのは高校時代からの付き合いという点である。そのせいで仕事帰りによく一緒に飲みに行っている。俺とは反対に、佐藤は愛想がいい先生で有名だ。表情が柔らかく、リアクションも大げさで生徒に親しまれている。特に男子生徒からは非常に人気な先生である。

 一方でその振る舞いから同性、つまり一部の女子生徒から嫌われているとかいないとか。休み時間には生徒と仲良くしているところをよく見かける。女性特有のパーソナルスペース無視の距離感で話している。あれは先生と生徒というより友達感覚で接していないかこいつ。

 とりあえず、こいつとは先輩と後輩の仲ではあるがここは学校の中だ。


「ここでは橋本先生・・だろ。佐藤先生」


 と俺はすかさず訂正を求めた。


「すみません。それで橋本先生、女子生徒と仲良く何話してたんですか? まさかよからぬことをしていたんじゃ……」


 悪びれた様子のない佐藤先生。しかもなんか俺疑われているんだけど。


「生徒の悩み事を聞いてただけだ。」


 と素直に事情を説明する。


「……またですか、しかも女子生徒。確かに橋本先輩は優しいですもんね」


 となんか不機嫌そうにこちらを見つめながら言った。


「おい、先輩に戻ってるぞ。それに生徒が困ってるんだ。教師として生徒の悩みを聞くのは普通だろ」


「それは嘘です。先輩この前私に生徒の悩み事を丸投げしたじゃないですか」


「いや、女子生徒であるなら女性教員に悩みを聞いてもらった方がいいだろ」


「その女子生徒は先輩に聞いてほしかったらしく、私には悩みを打ち明けてくれなかったんですからね」


 その生徒が本気で俺に聞いてほしかったのかもしれないが、佐藤のことを嫌っていた生徒だったという線が濃厚だな。


「それに授業終わりに先輩が、押し切られるように了承しているところ私見ましたからね。」


 そう口早に佐藤が言ってきた。


「なんだよ、見てたのかよ。」


 それなら佐藤に相談事を任せた方がよかったな。


「あ~先輩、今私に任せればよかったって思いましたね」


 なぜ分かるんだ?俺の顔はそんなにわかりやすいのか?そう思っていると佐藤が


「先輩のことをよく見てるから分かるんです」


 となんか”先輩のこと分かってますよ”みたいな得意げな顔をしていった。


「はいはい、そうだな」


 と適当に言葉を流す。そんな俺の言葉に不満の言葉を言う佐藤とともに職員室に戻った。


 伊藤彩は帰る途中に今日あったことを部活のグループラインに送っていた。


「先輩方の言う通り、橋本先生は良い人でした」


 と部活のグループラインにそう書いた。私が送ったメッセージに早速既読がついた。すぐに3年の美咲先輩からラインが来た。


「そうでしょ、そうでしょ。わかってくれて私もうれしい」


 亜美先輩からもラインが来た。


「橋本先生は、最初は威圧的に見えるかもしれないけど、親しくなれば、優しくて思いやりのある人だってわかるはずだよ」


 とやはり3年生からは本当に人気の先生なのだと改めて知った。

 今日1日で私は先輩方の言うことがよくわかった。


「実は私たちも橋本先生が担任になるまで知らなかったんだよ」


 と美咲先輩からのメッセージが来た。


「あの先生は不器用だからね」


 と亜美先輩からもメッセージが届いた。

 そこで部活も同じでクラスも一緒の陽菜からのメッセージが来た。


「明日から小林先生来れないって」


 それは私たちのクラス担任である小林麻衣先生が休むということだった。



 俺は教室の前に立ち、目の前に座っている生徒たちの顔を目で追っていた。そこには昨日会った伊藤の姿もあった。俺は高校1年生のあるクラスの担任を一時的に任されてしまった。俺が受け持つ3年のクラスにこのことを説明したときは、”私たちのクラスとかけもちですか”とか”先生それは二股っていうんですよ”などと意味の分からないブーイングの嵐だった。一年の朝と授業終わりのホームルームを臨時ですることになった。自分のクラスを早めに切りあげて今1年生のクラスに立っているわけである。

 どうやらここの担任の先生が流行り病にかかってしまったらしく、1週間ほど休むこととなったらしい。あの先生はそう言うのに縁遠そうで少し意外に思った。周囲を見渡すと、1年生の生徒たちが、その厳しい口調と言葉少なな態度に恐れをなして、俺を避けている。俺は、自分が生徒たちに与えている影響の大きさを実感していたが、残念な気持ちもあった。


 そんな俺の思いを遮ったのは、佐藤だった。俺は、佐藤が教室の雰囲気を明るくしてくれると思い、ほっとした。だが、佐藤も俺と同じくクラスを受け持っている。なぜ、ここにいる?俺の疑問を持った目線を受けながら佐藤は隣に立つ。

 俺だけじゃ不満かよ教頭先生。まあ、そんなこと口が裂けても言えないが。

 そもそも、ここの担任がわざわざ俺を指名するから、俺はいるだけでやりたくてやっているわけじゃない。あいつ同期だからって俺に押し付けやがって。


 佐藤がにやにやしながら俺のことを見ているのを無視して、俺はその日から1週間臨時の担任をすることを説明した。俺から言うより、生徒たちは佐藤からの説明をよく聞いている。俺より佐藤の方が愛想がいいから生徒からも人気だ。

 朝に言わなければならないことを生徒たちに伝え、教室を後にした。



 授業が終わり、俺と佐藤は休憩のために職員室に行った。俺はコーヒーを注ぎ、座って物思いにふけっていた。佐藤は、俺が何か悩んでいるのを察し、"先輩、大丈夫ですか?"と聞いた。


 俺はため息をつきながら言葉を紡ぐ。


「俺は教師としてあまり向いていないと思うんだ。1年生には威圧感を与えているようで、うまく伝わらない。2年生や3年生も、私の話よりおまえの話を聞いているようだし」


 佐藤は、俺が自分に厳しいことが多いことを知っていたので、注意深く耳を傾けていた。


「先輩は自分に厳しいところがありますからね。徹底的で綿密に、生徒のことをよく考えている。でも、もう少し親しみやすくなってもいいんじゃないですか。もっと笑顔で、冗談を言ったり。そうすれば、1年生と打ち解けることができるかもしれませんよ」


 佐藤はニマニマしてそういってきた。

 俺は佐藤の言葉を噛みしめ、彼女の言うことに一理あると認める。しかし、口数の少ない俺が、笑顔でおしゃべりする自分は想像できない。コーヒーを飲み干し、教室に戻った俺は、「慣れてもらうしかないな」と諦めた。



 それから、俺は淡々と業務をこなした。すると、少しずつではあるが、1年生の様子が変わってきた。佐藤がいるおかげかもしれないな。

 今日も1年生の授業終わりのホームルームに向かうために3年の教室に出ると、佐藤が出迎えるように目の前に現れた。


「では行きましょうか、橋本先生」


 1年生のホームルームを任されたのは俺一人なのだから、佐藤がいる必要はないのだが。実は暇なのかこいつ。俺の後から帰り支度を済ませた3年生が続々流れて行き、生徒たちから”先生さよなら”と声がかかる。俺は適当に生徒たちに挨拶を返して、佐藤先生に向き直る。俺は口調に気を付けて話す。


「佐藤先生は、毎回私に付き合わなくてもいいんですよ。 教頭先生に言われたのは初回の日だけじゃないですか」


 と俺は別に無理して付き合う必要はないと佐藤に伝える。


「橋本先生だけだと頼りないですからね。私も一緒にいてあげます」


 生意気な後輩だなと思いながら1年生の教室に向かおうとすると、うちのクラスの女子生徒が近づいてきて俺を悩ませることを口にした。


「橋本先生、実は相談したいことが……」

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