第5話

タクシー乗り場に近づいても人の気配はほとんど無かった。

人の多い金曜日でも、午前二時にほとんどの店が閉まる

馬場では、朝方はまるで取り残された旧市街のような寂しさだった。

酔っぱらいのおやじが一人、植樹された歩道の脇に座っている。

タクシー代さえも飲みに使ったのだろうか。


絵美子に払われた手が手持ちぶたさで、ポケットに両手の親指だけ引っ掛けた。

絵美子の気配を背中に感じながら歩幅を合わせて歩く。

あす起きるのは昼過ぎコースだな、とモヤのかかった頭で思っていたとき、

不意に背中に違和感を感じる。

振り向くと、絵美子がぼくのトレンチコートのベルトに指をかけている。

くりっとした目が、段々大きくなっているように見えた。

「ねえ」子どものような目で問いかけてきた絵美子に、胸がキュッとなった。

「ん?」とだけ答える。

「さむいよ…」

朝際の冷たい空気を吸い込むぼくの鼻に、夜と髪の香りが飛び込んできた。

突然のことに半開きになったぼくの口元から、絵美子の薄く形のいい唇がそっと触れ離される。

両腕がコートの後ろにまわり、左頬に柔らかいライトイエローの髪が押し付けられた。

ぼくの両手も、ほどなく彼女の背中に回っていた。


香河を舞台に抱き合う二人、まるで二昔前のトレンディドラマだ。

歩道に設置された電波時計が三分目に突入する。

先ほど通り過ぎた酔っぱらいが、視聴者のようにこっちを見ていた。

気のきいたセリフを言いたかったが、もちろん用意もしていなかったし、こんな時、適当な言葉で濁すのが嫌だった。

ふいに「帰ろっか」と彼女から口にした。やっぱり何か言えば良かったかなと彼女の顔を見たが、いつもの仲良しな顔で少し安心した。

「うん、帰ろっか」ぼくも続けてそう言った。


今日二度目の友人の乗ったタクシー乗り場を見送り、駅へと向かう。

急激に体温を失いブルっと体が震えたが、携帯もブルブル震えていた。

さっそく絵美子からかと思ったが深加からのメールだ。まだ起きていたらしい。



《大地さん おつかれさま(絵文字)絵美子ちゃん大丈夫だった?

心配だったから。大地さんだったら安心なんだけどね(絵文字)

先に帰ってごめんね。やっぱ大地さんと絵美子ちゃんと

遊んでるときが一番たのしいや(絵文字) 三人ずっと

一番の友達でいようね また遊ぼうね!(絵文字) おやすみなさい》



返信しようとしたが、そのまま携帯をポケットに仕舞う。


《一番の友達》


確かに三人で遊ぶのは楽しい。ずっと仲良く続けたいとも思っている。めんどうなのはごめんだ。もう突っ走れる歳でもない。


いくら恋愛を重ねても、いや、恋愛に限らずそうだが、わからないことがある。それは、今と未来だ。

こうすれば良かったと、悔やみきれないほど荒んだ時期もあった。

もうずいぶん前の事だ。

そういえば、あの時からか、本気の恋愛をしていないのは。


心が急速に下降する。

さっきまで斜め下にいた絵美子が、今はアスファルトになっている。

Uターンを禁止する標識が、風に煽られカタカタと鳴った。

まだヘッドライトが灯る通りの向こう、東の海に青味がかかる。


ぼくの歩幅を、北風が縮めた。

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