第三十六話

 喉の痛み、鼻水、頭痛、倦怠感、体温の上昇、悪寒。……風邪ビンゴがあったとしたら優勝ってぐらいに風邪である。


 そういえばしばらく……ダンジョン暮らしを始めてからは、基本的にツナとしか過ごしていないのでウィルスをどこぞからもらってくることはなかったが、最近は割と色々なところに出かけることが多かった。


 不慣れな生活環境と疲れ、それに加えて長時間冷水を頭から浴び続けるという奇行……そりゃ風邪も引くだろう。


 グッタリとしながら身体を起こし、ふたりを起こさないようにしながら部屋から出てリビングに向かうと、既にヒルコがソファの上で座ってゲームをしていた。


「あ、ヨルくん。おはよ」

「ああ、おはよう。……悪い、勉強見るって話だったけど、風邪引いたみたいだから、今日は無理だ」

「えっ、あっ……大丈夫?」


 ソファから立ち上がろうとしたヒルコを手振りで止める。


「あー、俺は平気だけど、ツナのご飯頼む。ツナ、最近はマシになってきてるけど偏食があるから、今日のところはツナが食べたがるものを食べさせてやってくれ。風邪が直ったら栄養とかカロリーのバランス取るから、簡単にでもメモを取ってくれたら助かる」

「えっ、まぁ、いいけど……」

「ああ、料理が面倒なら出前とかでも。宅配とか受け取る用のダミーの家ならアメさんもツナも知ってるから、二人に聞いてくれ。あと、洗い物とか掃除とかは治ってからするから気にせず置いといてくれたら──」


 と俺が話していると、ヒルコは立ち上がって俺の手を引く。


「いいから。気にせずに休んで」

「ああ……あ、あと、もう感染してるかもしれないから全員身体は冷やさないように……」

「ほら、行きますよ。まったく……」


 とりあえず移しては悪いと思って出てきたが、どこで寝たものか。


「あー、寝る場所ないな。……いや、アメさんの部屋が……それはなんかまずい気がするな。あー、もうダンジョンの中でいいか。もし探索者が来ても探索者になら移ってもいいし」

「意識が朦朧としてます? ……はあ、なら、私の部屋で寝てください。私はこっちの方で寝るので」

「ええー、いや、いいよ。俺は、ダンジョンで」


 ヒルコは「コイツアホだな」とでも言いたげな目を俺に向けてから手を引っ張って俺を部屋に連れていき、雑にポンと押して俺をベッドに倒す。


「ほら、とりあえず寝ててください。薬とかありますか?」

「あー、いや、ダンジョン暮らししてからは風邪引いたことなかったから」

「変なとこでずぼら……色々買ってくるから、ちょっと待っていてください」


 ヒルコは呆れたような表情をしながらも上着を手に取って部屋から出ていく。


 俺のことよりもツナのことが気になるが……まぁ、アメさんがいるから平気か。とりあえず、ふたりが心配しないように書き置きがわりにメールでも打っておくか。


 ……メールを打とうと文書を考えようとして、あまり頭が働かないことに気がつく。

 思っているよりも高熱かもしれない。


 なんとかメールを打ったあと、ぐったりとベッドの中で目を閉じる。

 ……思ったよりもだいぶ苦しいな。


 夢とうつつの狭間。熱のせいもあるからか、悪夢のようなけれども懐かしさのある昔の夢を見る。



 ◇◆◇◆◇◆◇


「ゆーきー、また寝てたのか?」

「……ん、ああ」


 なんだったか。顔を上げると見知った顔の男が俺を見ていた。


 昔、通っていた高校の教室の景色。あれ、コイツ今ダンジョンで会うことあるんだっけという違和感はすぐに霧散して、記憶を再生するように俺の口が開く。


「なんかようか?」

「おうおう、用よ、重要な用。ほら、結城って中学校のとき足速かったんだろ?」

「まぁ陸上だったしな」

「部活、陸上部だったのか?」

「いや、生活圏が」

「みんなそうだよ。この学校に生活圏が水中のやついねえよ」


 彼は俺の机の上に座り、馴れ馴れしく俺の肩をポンポンと叩く。


「それに、結城って力抜いてるけど体育とかでも本気出せばすごいだろ? 部活何もやらないのはもったいないって。ウチに入れよ」

「あー、お前って何の部活だっけ?」

「アニメ研究部」

「運動神経が何ひとつとして関係ない」


 というかそんな部活あったのか……。部費とか降りるのか? その活動内容に。


「いや、あるぞ。ほら、体育祭で部活対抗リレーってあるじゃん? あれで活躍してアニ研の評判をあげられる」

「自力で上げろ」

「そう言わずにさー、なぁ、頼むよー。陸上部に啖呵切っちゃったんだよー」

「部活対抗リレーで最も啖呵切っちゃいけない相手だろ」

「ほら、あれ見せてあげるから。ロリが出てくる美少女アニメを……!」

「やめろ。教室でそれはやめろ」


 ああ……そうだ、松本だ、コイツ。

 そういやいたなぁ、俺にロリコンという謂れのない疑惑をかけてくるやつ。


 まぁ、暇だから着いて行こうかと考えていると、ポケットに入れていたスマホが鳴る。

 それを見ると■■■からの連絡だった。


 あれ? ■■■って誰だ? まるで記憶がインクでべたりと塗りたくられたように思い出せない。


 薄い混乱の中、俺の身体は勝手に動き、よく行っていた喫茶店に向かう。


 あれ、俺は高校の時にそんな喫茶店に通えるほど金があったわけじゃないよな。そう考えているうちに着き、他の人達とは違う……顔だけがインクで塗りつぶされたような女性の元に歩き、その向かいの席に座る。


「■■■先輩。何の用です?」

「まぁまぁヨルくん。そんなツンケンせずに。ほら、お会計は私が出すからさ」

「じゃなきゃ来ませんよ」


 俺はメニューを受け取りながら、見るフリだけして注文する。

 相変わらずガッツリ頼むね、とばかりの笑みを浮かべる彼女を見ながら、フンと鼻を鳴らす。


 ……フリだ。

 別に喫茶店の飯なんかなくても呼ばれたら普通に会う。わざとらしくタカるように注文するのも、彼女がそれを笑うのも。

 お互いに分かりきっている演技だった。


「それで、■■■先輩の自分探しの旅は終わったんですか?」

「自分探しじゃないって、死に場所の選定。……いやー、全然終わらないね。やっぱり死にたくないからなぁ」


 黒塗りの彼女はそう言いながら笑う。

 彼女は中学校のころから電波なことをよく言う人物だった。


 曰く「どこの国の歴史書にも数百年に一度本来いるはずの人物の情報が欠落している」とのことで、すべての歴史書は虫食いだと主張している。


 言いたいことの意味は分からないが、彼女は本気で「数多くの偉人が宇宙人に攫われて、人々がそれを忘れているのだ」と言っていた。


 信じる信じないの話をするなら信じるはずもないが、けれども、■■■先輩が異様に賢いことを知っているから無碍にする気にもならなかった。


 ……いや、違うか。俺は彼女のとんでも話を聞くのが好きなのだ。


「残念なことに、私は人類屈指の天才に産まれてしまったからね。まず間違いなく歴史の闇に消え去った偉人のように宇宙人に連れ去られることだろうね。丁度、周期的にそれぐらいだ」

「いつもそれ言ってますけど、一向に消えませんよね」

「まぁ、あと5〜10年後ぐらいかな、周期としては。それまでの間に色々やりたくてね。最近九州の方に行ったんだけど、結構面白かったな。特に私ほどじゃないけど優秀そうな人もいて■■■さんと■■■さん辺りもたぶんアブダクションされるね。宇宙人が好みそうだ。西川くんは微妙なラインかなぁ」


 相変わらず電波だなぁ。中学校で宇宙人先輩と呼ばれていただけある。


「けど、その中でもやっぱりヨルくんは目立つね。宇宙人対策しときなよ?」

「はいはい。……で、結局、何の用です?」


 俺が尋ねると、彼女は少し目を伏せて、それからわざと変人ぶるように声の調子を上げる。


「死に場所も大切だけど、死ぬ前に子供を残したいって思ってさ。ヨルくん、どう?」

「ガハッ! ……急に変なこと言わないでください。……いや、何言ってるんですか、本当に」


 彼女はアピールするように自分の胸を目立たせるが、俺はため息を吐いて首を横に振る。


「アホですか。■■■先輩は」

「……いや? どうしても」

「そりゃそうでしょうに……。というか、俺がここで頷いたらどうするつもりなんですか」

「……そっかぁ」


 彼女は仕方なさそうに笑い、それからやってきた食事を食べる俺を見て寂しげに笑う。


「……私は、たぶんこの世界からいなくなる。だからその前に、自分の生きた証を残したい。……恋心とか、言ってられないんだ」


 相変わらずの、よく分からない言葉。

 彼女はコーヒーを飲み干して、それから「苦いなぁ」と呟く。


「相手もまだ決まってないけどさ。……子供の名前はもう決めているんだ。子供は■■■って名前にしようと思ってるの。普通に読んでもそんなに変な名前じゃないし。……元々■■■って牛とかの家畜を繋ぎ止める縄のことらしくてね。断ち切れない繋がりって意味なんだ」

「……もしかして、さっきの、本気でした?」

「私の生きていた証をこの世界に繋ぎ止めてくれるって願いを込めて。■■■って」

「あの、先輩」

「お会計はしておくから。じゃあ、またね。……いや、んー……そうだね。「さようなら」ヨルくん」


 彼女はそう言って去っていく。

 ……何度も、何度も会っていた気がする人物。けれども今は不思議と顔も名前も思い出せない。






 …………熱のせいか、変な夢を見たな。


 体を起こすと、俺が風邪をひいているのに俺の様子を見るようにツナがベッドに腰掛けていた。


 叱ろうかとも思ったが、あまりそういう気にはなれず、ボリボリと頭を掻きながら起き上がる。


「あ、ヨル、大丈夫ですか?」

「……全身だるい」

「ちょっとご飯食べて、お薬飲んでくださいね」

「ああ。ヒルコが買ってきてくれたのか。……そういやツナ。元々は家畜とかを繋ぎ止めるものの名前で、人と人との繋がりを意味する言葉って何か分かるか?」


 先程の夢の言葉を尋ねると、ツナは幼い顔を不思議そうな表情に変えて、それからクスクスと笑う。


「ヨルは本当に私のことが好きですね。まったくもう」

「えっ、なに? なにが? いや、好きだけど」

「そのクイズの答え、絆です。私の名前じゃないですか。変なヨルです。えへへ」


 ツナはそう言ってから、スポーツドリンクのキャップを開けてから俺に手渡す。


 ペットボトルは少し結露がついていて、手にじんわりとした水分を感じさせる。


 夢の内容は熱に溶けて少しずつ霧散して、ほんの少しだけ俺に違和感を落として、ゆっくりと消えていった。

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