番外編:そのとき初めて、失うという言葉の意味を知った

「お父さんって、どうしてお母さんのことを好きになったんですか?」


 娘の興味本位な、暇つぶしのような問い。

 ……ほんの少し気まずく、気恥ずかしく。俺は娘のアマネから目を逸らした。







 父の顔を知らないという子供の方が、周りには多かった。


 何のことはなく、この国の貧困層は結婚というものはあまりせずになんとなく一緒にいてなんとなく離れるみたいなことが多いからだ。


 そんな中で、父親がいる俺は分かりやすく周りよりも恵まれていて、周りと比べた体格の良さもそこからきたものだろう。


 地元では暴れていた、が、グレたという言葉はあまり相応しくないだろう。


 元々、若者は適当にブラついて縄張り争いやら強さ比べやらと、理由を付けて暴れているような土地だ。

 はぐれちゃいないし、順当に暴れ者に育っただけのこと。


 体格の良さと力の強さは飛び抜けていて、格闘技をやっている奴やらアメフトをしている奴やらに挑まれても、武器を持って集団で襲ってくるやつでも、適当に殴ればしまいだった。


 俺の強さの恩恵にあやかろうとする男と女。人気があるとかモテていると呼ぶには浅ましく、猿山のボスと呼ぶのが相応しいだろう。


 けれども、それはそれで良かった。

 暴れるのはスカッとするし、女を侍らせるのは気分がいい。


 そんな生活を続けて……負けた。

 本当に唐突に、呆気なく、負けた。人生で負けたことがなかった。負けるという可能性すら感じていなかった。


 脳味噌が揺れて、地面に倒れ伏してなお理解することが出来なかった。


 俺が立ち上がれないでいるうちに、隣にいたはずの女達が離れていき、仲間と思っていた男達が失望の目で俺を見下していた。


 腕っぷしひとつで得てきた俺の全ては、その日、その夜、そのときに失われた。



 ──そのとき初めて失うという言葉の意味を知った。



 逃げるように歩き回り、壊れたプライドを拾い集めるように喧嘩を売り歩く。


 まるで地面に落ちている小銭を探して拾い集めるような、そんな喧嘩に明け暮れた。


 負けたくないという一心で、身体を鍛えるということを覚えた、拳の握り方や腕の振るい方を覚えた。


 格闘技を知り、身体を鍛えた俺は以前よりも遥かに強くなった。

 けれども、負けたあの日に俺へと向けられた視線は振り払えない。


 逃げるように、逃げるように路上の喧嘩に明け暮れているうちに、知らぬ間に俺で賭け事をする連中と連むことになっていた。


 いつも通り殴り合うだけで何故か金がもらえる。生活には困らなかった。

 それを続けているうちに、一度たりとも所属した覚えのないストリートファイトやら裏格闘やらの団体を転々としていたらしい。


 どうやら移籍金やらなんやらの話が勝手に俺の知らないところでずっと進んでいたらしい。


 ……どうでもよかった。

 俺は、ただ、かつての俺を取り戻したかっただけだった。


 その団体では「不敗」と呼ばれていたらしいが、その呼び名は俺には到底相応しくはない。


 俺は、いつまで経ってもあの日からずっと這いつくばったままだ。

 ただ、ただ、ただ、失うことが怖く、戦って、戦って、戦って。


 これ以上、何も失わないように。

 小銭を握りしめる子供のように拳を握った。


「随分とつまらなさそうだ。ミスター」


 裏のプロモーター……と、呼ぶには安い小悪党の男は親愛を示すかのように俺の肩を撫でる。


「多くの人は君のことを無愛想で無趣味な人間と呼ぶが、僕はそうは思わない。相応しさというものがあるだろう? ワインを嗜むことも、札束を前に舌なめずりすることも、僕のような凡俗に笑いかけるのも、君という人物には到底似合わない。媚びる必要などない。ミスター、君は美しい」

「…………」

「ああ、分かっているとも。君は貶されることも褒められることも、人から評価を受けることすら嫌がるというのは。……では、本題だ」


 男の目がこちらを見据える。

 何度も浴びてきた、俺の価値を測ろうとする目線だ。


 彼は指を立てて、俺に言う。


「今度の相手は、東の国、日本にいる男」

「……日本?」

「そう。日本。外国人と戦うことなど珍しくもないだろう。……それをね、パトロンとでも言えるような人物から熱望されている。……けれども君には「興味がない。そんな遠くに行く価値がない」と断ってもらいたい」

「……断らせるために依頼を持ちかけたのか?」

「そう。僕としてはどうしても戦ってほしくない。君には同じ大きさのダイヤモンド以上の価値がある。だが、傷が入ればダイヤモンドの価値は毀損されるだろう?」

「……俺が負ける。そう言いたいのか?」


 プロモーターの男は首を横に振る。


「んー、それで、断ってくれるかな」

「……逃げることはしない」

「……残念。旅の支度はこちらで手配しよう。次の相手は日本の鬼……【覇剣】夕長ゼン……人の形をした化け物だ」

「……剣?」

「ん? ああ、本筋は剣士らしい。けど、今回は剣は使わないらしいから安心してくれ」


 剣を使わない剣士……なんて、素人のようなものではないのか。


 その当日、人に連れられて日本の古い道場に訪れていた。

 いつもならば見世物のように大勢から見られているものだが、今日は客がいない。


 おそらくはその太いスポンサーからの要望を断れなかったが、けれども俺が負けた際のダメージを最小限にするために観客を入れなかったのだろう。


 古い道場の中、俺を待ち構えていたのは……中肉中背の格闘家としてはあまりに小柄な男だった。


 おそらく日本人の平均的な体格程度。

 明らかに今までの相手に比べて小さい。


 試合があり得ないようなレベルの階級差で、思わずプロモーターの男を見る。


「油断はしない方がいい。……と、言いたいけど、まぁ今は油断してもいい。彼はお人好しだ、君が本気になれるまでは「手加減」をしてくれる」


 ……正気か? まるっきり、大人と子供の体格差。

 今までとんでもない技巧の持ち主と戦ったこともあるが、それでも彼等の方が大きかったし、そもそも目の前の男は剣が本筋ということだ。


 ……侍や忍者が好きな金持ちが日本の武人に過度な期待を抱いているだけだろう。


 にこやかに何を言っているのか分からない言葉で挨拶をしてくる男を見ながら呆れ果てる。


 まぁいい。適当に倒して、帰国しよう。


 そう思いながら、隙だらけの男の顔面に拳を振るう。


「──は?」


 何の防御も回避もなく吹っ飛んでいく男。いつも通りの光景だが、けれども、感触がおかしい。


 人体を殴ったというか、まるで小型の熊を殴ったかのような。


 昔見た、熊がデカい車に跳ね飛ばされて、熊の方は平気そうにしているのに車はボコボコになっている映像。

 それを思い出す、そんな感触。


 人間じゃない? まさか本当に鬼か何かの類か?

 そう思わせるだけの説得力がそこにあった。


 当然のように立ち上がった男、夕長は驚いたような表情で俺に話しかける。理解出来ない異国の言葉、けれども理解する、この男は今まで見たどの生き物よりも強いと。


 戦いは長引いた。

 男が異様に丈夫というのもあるが、同時に男の技量は拙く俺にマトモな当たり方をしていないからだ。


 だからこそ……異常。一方的に殴れているはずだというのに、疲労しているのは俺の方だ。


 負けるのが怖い。負けて失うのが、ただただ怖い。

 あの時の這いつくばった自分を思い出して、逃げ回るように拳を振り回す。


 途中、ひょこりと道場の入り口の方から幼い少女が顔を覗かせる。

 おそらくこの男の妹か何かで……なかなか終わらないことを疑問に思って見にきたのだろう。


 ああ、このままだと、殴り飛ばしたこの男が妹の方にぶつかる。

 普段なら周りの人など気にしないというのに、このときに限ってさんなことが頭をよぎる。


 寸前で少女を傷つけないために軌道を変えた拳……それは偶然にも、俺にすら意図していないフェイントとして働いた。


 完全に油断した軌道からの打撃は男の顎を捉える。

 同時に放っていた男の拳も俺に当たっていたが、手脚の長さの差から致命打にはなっていない。


 ……偶然に偶然が重なり、勝った。


 喜びはない。ただ、ただ、安堵と恐怖があった。

 すぐに目を覚ました男は驚いた表情、嬉しそうに俺の手を握ってブンブンと握手をする。


 言葉は分からないが、俺のことを褒めているのだと分かる。


「……偶然だ」


 俺はそう言うも男には伝わらず、手を引かれて妹の前まで連れて行かれ、背中をぱんぱんと叩かれる。


 妹の方はたどたどしく、舌足らずな様子で「さ、さんきゅー」と俺に頭を下げる。


 ……最後に、俺が攻撃を逸らしたのが見えていたのだろうか。

 小さいな、と、思いながらされるがままに二人に連れて行かれる。


 自分や自分の兄が負けたのに、何も気にしていないように見えた。


 思い出す、敗北の味。それが目の前には見えず、ただ不思議にそれを思った。


 運良く勝てたはずなのに、負けたときの光景が今も頭から離れない。


 逃げ出そうとした俺を、俺以上の力で掴まれて引っ張られる。

 シャワーに入らされて、治療を受けさせられて、飯を用意される。


 それは俺のことを単なる「客人」として見ているようだった。


 ……言葉も文化も違うし、何がしたいのか訳わからねえ。

 プロモーターの男も面白そうに帰っていったし、言葉も通じない異国でどうしろって言うんだよ。


 月を見ながらそんなことを考えていると、トントンと扉をノックされて妹が入ってくる。


 手には辞書とノートが握られていて、パラパラとノートを開けられたかと思うと「貴方の名前はなんですか?」なんて問われた。


 ……あんまり、答えたくはない。

 というか関わりたくなかった。


 けれども……なんかプロモーターの男はどこかに行ってしまった。迎えに来ないなんてことはないだろうが、ここから離れるわけにもいかない。


 仕方ないかと筆談で答えていく。


 ……俺は何故、こんなことをしているのだろうか。

 少女から色々なことを辞書を引きながら、時々変な文法で尋ねられる。


 俺はそれを見ながらなるべく簡単な単語で書いていき、1ページ、2ページ、3ページとノートが埋まっていく。


 ……兄を負かした俺が憎くないのか? とか、なんでそんな平気そうなんだ? とか。

 聞く気にはなれなかった。


 聞いてしまえば、それまでの俺が崩れてしまいそうで。


 夜が更けていく中、筆談が続く。

 眠そうな目をくしくしと擦った少女を見て、そのペンを取り上げて自分の部屋に帰るようにジェスチャーをするが、少女はぴょこぴょこと跳ねて俺からペンを取り返そうとする。


 俺が頭の上にまでペンを上げると背の高さから到底手が届かないのに無理に跳ねて、足元にあった座布団を踏んで転んでしまいそうになる。


 焦りながら少女を抱き止めると、彼女は顔を真っ赤に染めながら、それから俺のことをジッと見つめた。


 結構な時間、筆談をしていたが辞書とノートを見ている時間が長くてあまり顔を見ていなかったため……初めて目が合った。


 異国の少女。俺よりも遥かに小さくて幼い。

 自国で色々な女を見てきた。日本人の女も知っている。


 けれども、そのどれもと違う雰囲気だった。幼く、小さく、優しそうで、暖かくて……。


 見惚れていたのだと、思う。


 少女は俺の腕に抱かれたまま、ペンも辞書も持てず、ぱたぱたと慌ててありあわせの言葉を口にする。


「は、はうあーゆー?」


 How are you ? ……なんで今「調子はどうですか?」って、聞いたんだ?

 思わず気が抜けて、何も考えることなく、平易な言葉で少女に返す。


「afraid」


 少女は急いだように辞書を引いて、俺はそれを見ながら自分の言葉に驚く。


 ……「怖い」? 何がだ? 今……俺は、何を思ってそう答えたんだ?


 俺が自分の言葉の意味を知る前に、少女は俺の言葉の意味を知って、「んー」と背を伸ばして俺の頭を撫でる。


「大丈夫ですよ。こわくない。こわくない」


 言葉の意味は分からなかった。

 けれども、けれど、少女の手は暖かくて、心地よくて……。


 ぽろり、ぽろり、と、みっともなく涙が出てきた。


 少女は慌てたようにわたわたしながら俺に何かの言葉をかけるが、俺にはやはり分からない。


 ただ、ただ、今までに会った誰よりも俺のことを思ってくれたのだと分かった。


 ……会ったばかりの少女を相手に、けれども、今まで吐き出せなかった感情が濁流のように流れ出てくる。


 怖かった。ずっと、怖かった。何もかもがいつ俺を傷つけるのかと思って、怖かった。

 負ければ裏切るだろう人間しか周りにいなかったのが寂しかった。


 そんなことを口にしたが、少女には何も伝わっていないだろう。


 彼女からしたら大の男が突然泣き出したというおかしな状況だろうに、けれども俺の頭を撫でてくれた。


 いつのまにか、窓から陽の光が溢れていた。

 ずっと前に眠たそうにしていたのに、彼女はまだ起きてくれていて……。


 やっと正気に戻って、離れないといけないと分かったのに、離れられない。

 俺も帰らないとダメなのに、手放せない。


 少女は俺に笑いかけて、何かの優しい言葉をかけてくれて。

 情けない姿を晒したら離れていく今までの人間とは真逆で。



 ──少女の笑顔を見たそのとき、初めて、失うという言葉の意味を知った



 俺は、今まで、失ったことはなかったのだと気がつく。


 だから少女には絶対に伝わらないだろうと思って言葉を紡ぐ。


「……会ったばかり、何も知らないし何も分からないけれど、君のことが好きだ。幾千の歓声よりも君の言葉が、羨望と憧憬よりも、君の視線が。……帰りたくない。帰りたくないんだ。君と……ずっと、一緒にいたい」


 誰よりも強い男だったはずの俺は、そんな泣き言を、自分よりも弱い少女に零した。


 ……英語も日本語も話せる、性格と底意地の悪いプロモーターの男が、朝になって俺を迎えに来てくれていたことにも気付かずに。


 それから、戦いの後に徹夜で泣き言をこぼしていた疲労で頭が働かないうちに「俺がこの子に縋り付いて求婚していた」という内容で家中に話が広まり……。


 俺には理解出来ない日本語で怒られたり叱られたり、何かを説かれたりしたあとに何故かその「求婚」が認められた。


 ……最悪すぎる、人生最大の恥を同じ日に二度も更新した。


 一度目は少女相手に泣いて、二度目はその子にプロポーズしたことになって……。


 地面を這いつくばった敗北よりも遥かに大きい屈辱……けれども、今回は、何も失わなかった。


 それどころかずっと欲しかったものが見つかった。


 恥じらうようにしながら俺に笑いかけてくれる少女を見て、この子がこれから自分の隣にいてくれるのだと理解して。



 そのとき初めて、失うという言葉の意味を知った



 それは、失うというのは、そんなにも恐ろしいのだと初めて知ったのだ。


 それから筆談を重ねて、言葉を重ねて、少しずつ日本語を覚えていく。


 あまり物覚えは良くないのに覚えられたのは、彼女の言葉の意味をひとつずつ知れることが何よりも嬉しかったからだろう。







 と、思い出して顔を伏せる。

 ……こんな話を娘に出来るか。

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