第三十九話

 風呂場の扉が開いた音を聞き、それからツナに脱衣所のところで幽霊が来ないか見張っているように指示される。


 出来る限り見ないようにはするも、風呂場の曇りガラス越しに一瞬だけ肌色が見えてしまう。


 バッと顔を逸らして後ろ向きに座りこむ。


 ……今の、アメさんだろうか、ツナだろうか。……考えないようにしよう。


 シャワーの音と、少し楽しそうなふたりの声が聞こえる。ふたりだと手狭かと思ったけれど、ふたりとも小柄なので問題はないらしい。


 風呂場の中で反響した声が聞こえて、頭の中に発生する煩悩をガンガンと頭を壁にぶつけることで発散する。


「わ、ど、どうしたんですか?」

「……何でもない。何でも」


 こんな状況でずっと我慢するの、拷問ではなかろうか。


 何の気なしに視線をあげるとツナの脱いだ服がカゴに入れてあり、下着は服の下に隠されているけれどもこれはこれで気になってしまう。


 普段、ツナやアメさんの無防備な姿で欲を煽られながらも、四六時中ツナが隣にいることでその欲を発散する方法もなく……極め付けにすりガラスの窓一枚越しにふたりがお風呂に入っているという状況。


 耐えられない……というか、もはや耐えたくない。

 脱衣所で待っているように言ったのはツナなのだから、すりガラス越しに見るぐらいなら許されるのでは……。


 と考えていたとき「ヨルさん」というアメさんの声が聞こえてビクッと肩を震わせてしまう。


「ど、どうかしたか?」

「すみません、シャンプー取ってくれませんか?」

「ああ……うん」


 近くにあったシャンプーを手に取り、振り返らないまま手探りで扉を開けて、後ろ向きのままアメさんに手渡そうとして、ぴとりとアメさんのお湯で濡れた手に触れてしまう。


「ありがとうございます」

「ああ……いや、その、そういえば、ヒルコの技は身につけられそうか?」

「ん、んー、時間はかかりそうです。なんていうかかなり独特な技術で他に類を見ないというか……異界の技って感じがします」


 なんだそれ……。

 気まずさを誤魔化すために話しかけたが、話している相手が裸のアメさんだと思うと変に意識してしまう。


 そもそも、我慢する意味はあるのだろうか。俺が意地を張っているだけでアメさんもツナもそういうことを嫌がっていないわけだし……。


 いや、落ち着け、嫌がっていないからこそ年長者の俺が常識を持って自制すべきなのだろう。


 俺が頭を抱えて悶えていると、ふたりの話し声が聞こえてくる。


「ツナちゃん肌スベスベですね」

「ん、そうですか? あんまり変わらないと思いますけど。……ヨルってロリコンですけど、おっぱいって全くないのとちょっとはあるのどっちが好きですか?」

「…………今、心の中で念仏を唱えているので質問には答えられません」

「えっ……お、おお、お化け出たんですか!?」

「お化けは出てない。ただ、俺の中の化け物が出てる」

「ん、んぅ?」


 どう考えても俺が脱衣所で見張りをする方が幽霊よりも危険だと思うんだ。


 キュッとシャワーの音が止まり、湯気とシャンプーの匂いが香ってくる。感じられるものの全てが、理性の糸をヤスリで削られるように思えてくる。


 音のひとつひとつが俺の体を撫でるかのように感じる。ちゃぽりと湯に体を沈める音がして、湯船からお湯が溢れていくのが伝わってくる。


 こんこん、と背中にある風呂場の戸が叩かれる。


「もうふたりとも湯船に入ったんでこっち見ても大丈夫ですよ?」

「……俺が大丈夫じゃない」

「ん、でも、こういう関係なんですから、一緒にお風呂はいるのもいいと思うんです。結局いつかはお互い裸を見るんですし」


 やめろ……俺の理性を壊そうとするんじゃない。


 うぐぐ……クソ、みなもなら全然平気だったのに、何故だ。

 ツナとみなもで何が違うというのだ。


 ……もしかして、学生時代、クラスの誰が可愛いとかそういう話に参加出来なかったのは、俺がクールな性格をしていたからではなくてロリコンだったから……?


「じゃあ、結婚してからだったらいいですか? ヨルは責任を取れないことを気にしてるんですから」

「あ、ああ、まぁそうなんだけど……」

「じゃあ約束ですよ?」

「えっ、いや……」


 流石にそんな安易な返事は難しく、なんて答えるべきか迷っていると、扉が開いて湯気の空気が脱衣所に流れ込む。


 それからツナの濡れた小さな手が、後ろから俺の目を隠し、頬を伝ってお湯が首筋に滴っていく。


 ちゅ、と頰に唇の感触がして、それからツナはお風呂場の方に戻っていく。


「えへへ」


 限界まで喉が渇いている時の水への希求のような感覚。我慢のしすぎで苛立ちにも似た感情に襲われ、限界がきてパッと立ち上がる。


「あ、洗い物の続きしてくる。アメさんと話してるしツナも平気だろ」


 ツナの返事を聞く前に脱衣所から出て、キッチンにいって食器を洗う。

 冷たい水の感触で体を冷ましながら、無心で食器を洗っているといつもよりも早い時間にツナがお風呂から上がってパジャマ姿で俺の隣にやってくる。


「あれ、今日は早かったな」

「……はい。あの、もしかしてなんですけど、何か怒らせてしまいましたか? ……その、えっと、ご、ごめんなさい」


 怒らせて……? と身に覚えのないことを言われて少し考えて、俺が余裕のない感じで脱衣所から逃げたことを言っているのだと気がつく。


 ツナがお風呂から早く出たのも、俺が怒ったかもと思って不安に思ったからだろう。


「いや、怒ってないし、ツナは悪いことしてないから気にしなくて大丈夫」

「でも……」


 ツナは不安そうに俺の方を見て、いつものように甘えていいのか分からないような様子で俺の顔色を伺う。


「……俺さ、ツナの兄になりたかったんだ。もしくは父親とか。それが出来なかったのは、まぁツナに惚れてしまってるのもあるけど、それ以上に俺が親兄弟とマトモな関係を作れてなかったから、ツナともそれが出来なかったんだ」

「私はヨルがお父さんなのもお兄さんなのも嫌ですけど」

「……ツナのことは好きで、ツナのことが好きな自分が嫌いなんだ。だから、なんというか……呆れて捨てないでほしい」


 ツナは一瞬驚いた表情をしてからクスリと笑う。


「甘えんぼです。……あ、そういえばもらってきたんです」


 もらってきた? という言葉に首を傾げていると、ツナはクリアファイルに入った紙を取り出す。


「インターネットでダウンロードした紙とか、今日読んでた雑誌とかに付いてるやつでもよかったんですけど、せっかくならと思って」


 ツナが取り出したのは婚姻届である。

 ……何度か瞬きをするが、婚姻届である。


 …………実際に役所に提出することはなくここで保管するだけだろうけど、それでも非常に大きな意味がある気がする。


 契約というものは、役所や裁判所で保証するから意味があるのではない。当人同士がそれを認めることが何よりも大きな意味を持つのだ。


 いくつか書けない欄もあるが、それにも大した意味はない。あくまでも俺とツナがそれを認めたということが何よりも重要なのだ。


「……その、指輪とか買わなくていいのか?」

「ん、どれぐらい指が大きくなるか分からないですから」


 それもそうだ。

 ……引き延ばしを図ろうかと考えるが……ちらりとツナの方を見る。


 もしも、ツナが怒ったり呆れたりして捨てられたらと思うと……怖くて「ダメだ」とは言えない。


「……ペン、どこだっけ」

「えへへ、どうぞ」

「……なんかこのタイミングだと、ツナとお風呂に入ったり変なことをしたいから結婚するみたいになるけど、違うからな」

「分かってますよ。……その、私の方も緊張してきちゃいました」

「……式の方はまだ時間がかかるか。そんなに人も呼べないし、簡単な奴になるけどいいよな」

「はい。……あ、証人のところはどうします? おふたりに頼みますか?」

「いや、アメさんはともかく、ヒルコに頼むのはな……。とりあえず空欄でいいだろ。……事情が分かってる知り合い……みなもとかに頼むかなぁ」


 特に難しいこともないため、ふたりで記入欄を埋めていく。


 俺の枠からはみ出しがちな大雑把な文字と、ツナの小さくて丸っこい文字が並ぶ。


 お互いにいつもの文字よりも幾分か丁寧に書いているのが分かり、急にそれがツナも真剣なものなのだと分かってしまい気恥ずかしさが増してくる。


 ……いよいよ、もう後に引けず、言い訳も出来ないぐらいのロリコンをやってしまっている。


 どうしよう。外に散歩に出た瞬間警察に銃で撃たれたりしても文句を言えない気がしてきた。

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