第214話 迷い家BAR『まぁぼぉろぉしぃ~』

「っ?!」


 ふぉん、と何かが頬を撫でたような気配がしたかと思ったら、ヒロシは薄暗い空間にポツンと立っているのに気づく。


「……あれ? 何をしてたっけ……」


 何かとても恐ろしい体験をしたような、心を抉られる何かを見たような、そんなあやふやな感覚に何度も首を傾げていると、暗闇の中に控え目なライトで装飾された看板が浮かび上がる。


「迷い家BAR『まぁぼぉろぉしぃ~』?」


 なんじゃそりゃ? そう突っ込みを入れたくなるような看板の屋号に苦笑を浮かべ、せっかくだから入ってみるかと、店の扉を開けた。


「いらっしゃいませぇ~」


 店はこじんまりした感じで、大きなカウンターと二つのテーブル席があるだけの、作りとしてはBARと言うよりスナックと言った感じの店だ。そしてカウンターには相当美人のはずなのに、わざと失敗したような、それはそれは分厚い化粧をした女性が、おたふくのようなその顔に仮面のような笑顔を張り付けてヒロシを出迎える。


「お連れ様はもういらっしゃってますよぉ~」

「ん?」


 初めて来る場所で連れが居ると言われ、ヒロシは困惑した表情を浮かべながら首を傾げる。するとカウンターの奥で、カラカラ、とグラスと氷がぶつかる音がし、見慣れた人物がグラスを揺らしているのが見えた。


「ユーヘイ?」

「よっ」


 いつも通り自信に満ちた態度で人を食ったような笑顔を浮かべ、キラキラと輝くガキ大将のような子供っぽい瞳を向け、器用にピーナッツを口に放り投げながら、チョップでもするように片手を挙げる。


 どうしてここにユーヘイが? こんな場所で待ち合わせしたっけ? そもそもこんな店知らないんだけども……そんな諸々の疑問が浮かぶが――


「待たせた。バーボンをロックで」

「はいはいぃ~、こちらお通しですぅ~」


 自分が感じている疑問なんか小さい事、不思議とそう思い込んでしまい、ヒロシは考える事を止めてユーヘイの橫の席に座る。


 ユーヘイと同じお通し、小皿に盛られたピーナッツを数個手に取り、一粒一粒口に含む。


「んで? 顔色悪いけど、なんかあった?」


 コリコリ小気味いい音を立てながらピーナッツをかじるヒロシに、琥珀色の酒で口を湿らせながらユーヘイが聞く。


「顔色、悪いか?」

「心配するレベルで」

「マジかよ」


 ユーヘイの指摘にヒロシは顔を撫でる。そんな彼の前に、おたふくな店員がグラスを置く。


「バーボンのロックですぅ~」

「ありがとう」


 とりあえず気持ちを落ち着けようと、出されたグラスを取り、チビリと一口含む。バニラかキャラメルか、そんなバーボン特有の香りが鼻から抜け、喉を焼く酒精が少しだけ冷静な感情を呼び寄せる。


 ちょっとヒロシが落ち着いたのを感じ取ったのか、ユーヘイがグラスを揺らしてヒロシに聞く。


「で、何があったよ」


 まるでこちらの心情を見透かしているように、ヒロシが深刻にならないよう注意しているかのように、なんでもない普通の事のようにユーヘイは薄い笑顔を浮かべ、ひょいっとピーナッツを口へ放り込み、どこまでも日常会話の延長線上のような雰囲気で突っ込んでくる。


「……大した話じゃないぞ?」


 顔色が悪いのは自分の過去を見せつけられたから、その記憶がスルリと手の中に現れたように思い出す。しかし、その記憶をユーヘイに語って聞かせるには、あまりにも外聞が悪すぎる。何より確実に、語って聞かせるような内容ではない。


「誰かにゲロって楽になる、って事もあるぜ? 相棒?」


 話そうかやめようか逡巡しているヒロシに、ユーヘイが手の中のグラスをもてあそびながら促してくる。


 しばらくどうしようかどうすれば、そう迷っていたヒロシだったが、勢いをつけるようにバーボンを飲み干し、マグマのように腹の底から登ってくる熱を利用して口を開く。


「実はな――」


 ずっと誰かに相談したいと思っていた。誰彼構わず相談出来る話ではないし、本当のところ、ユーヘイに相談するような事ではない。だが、ユーヘイならば話を聞いたからと態度や見る目が変わる、なんて事はないと断言出来る、確信にも似た実態のない根拠があった。


 だからヒロシは自分の生まれから、これまであった事をつぶさにユーヘイに聞かせた。それが自分にとって大きな足枷に、一種のトラウマのような感じになっている事を合わせて。


「だからずっと俺は空っぽなんだよ」


 養成所でも仕事先でも、多くの人間に言われ続けた自分の欠点、それをユーヘイに伝える。


「ふーん」


 ユーヘイは気のない返事をしながら、手に持つグラスに視線を落とす。


「格好悪いよな……大の大人がいつまで経っても、ずっと過去に縛られてうだうだしてるなんて、な」


 自虐的な笑みを顔に張り付け、ヒロシは空のグラスをおたふくな店員に差し出す。


「同じのを」

「かしこまりましたぁ~」


 グラスを受け取った店員は、間延びした返事をしながら背を向ける。


「ま、良くある話だ。子供だとか大人だとか無関係に、辛い過去って言うのはどこまでも追ってくるからな」


 キラキラと輝く琥珀色の酒を見つめて、ユーヘイが困った表情で呟く。


「……ユーヘイにも似たような事がある、ってか?」

「もしかしたらタテさんより酷いかもよ? まぁ、不幸自慢なんてするようなモンでもないけど、さ」

「確かに」


 お互いに苦笑を浮かべ、同じタイミングでピーナッツを口に含む。


 しばらく静かに、コリコリとピーナッツをかじる音が響く。それは嫌な時間ではなく、どこか背中合わせでお互いの体を預けているような安心感があり、ヒロシは過去を語って聞かせたダメージが癒えて行くのを感じる。


「お代わりお待たせしましたぁ~」

「ありがとう」


 新しく出されたバーボンを口に運び、ヒロシはまったりとしたこの空間に、居心地の良さを感じ始め、気の抜けた笑いを浮かべる。そして今まで悩んでいた事が軽くなっているのを感じ、現金だなと呆れた雰囲気で顎先を撫で付けた。


「確かに誰かにゲロって楽になる、かもな」


 ヒロシの気の抜けた様子に、ユーヘイはニヤリと笑って小さく頷き、その様子に眩しそうな目を向けながら口を開く。


「タテさんへアドバイスなんて、偉そうな感じに言って聞かせる人生訓なんつぅモン、俺も無いんだが」

「ん?」

「タテさんが空っぽだなんて、少なくとも俺達は絶対に思わない、それだけは断言出来る」

「……」

「歌にもあるじゃん、頭空っぽの方が夢詰め込めるんだぜ?」

「何だよ、そりゃ」


 ユーヘイのおどけるような言い方に、ヒロシはじっとりとした目を向け、だけど確かに救われたようにも感じて頭を掻く。


「空っぽは恥じゃない?」

「それの何が恥か知らないけどさ、空っぽで何が悪いんだ?」

「でも自分に芯が無いって事だぜ?」

「そんなん、いついかなる時でも見つけりゃ良いだけじゃん。つーか、芯の無い人間なんざ、世の中腐る程いるぞ? タテさんなんか全然自分を持っている方だよ」

「……」


 そうだろうか、そうかもしれない、あやふやだった感覚がしっかりした感触になっていくような、そんな不思議な感覚にヒロシは苦笑を浮かべる。


 自分が空っぽだなんて、それを愚直に信じていた自分が恥ずかしくて、そしてそれまで重苦しくのし掛かっていた悩みが消えている事に、やれやれと肩を竦めながら溜め息を吐き出す。


「なんだかな、呆気ないモンなんだな、人の悩みって」


 実感のこもったヒロシの呟きに、ユーヘイはニヤリと笑って肘でヒロシの脇をつつく。


「気づくのは一瞬、悩みは永遠。答えを見つけるのはあっという間、そこまでたどり着くまで絶望。分かった瞬間、それまでの事が笑い話に……あるあるだわな」


 からかうようにユーヘイに言われ、ヒロシも全くだと頷く。そして自分がどうしてここにいるかを思い出し、グラスをテーブルに戻す。


「ご馳走さま。戻らなくちゃ」

「……そうか」


 ヒロシは一万円札を財布から出してカウンターに置き、スッキリした表情で席を立つ。そんなヒロシにユーヘイは誇らしげな表情を向ける。


「ありがとうございますぅ~次回から迷い込まないようご注意下さいねぇ~」


 ヒラヒラと出ていけと言うように手を振る店員に苦笑を向け、ヒロシは片手を挙げて店から出た。そんなヒロシの背中に、ほどほどに頑張れ、とユーヘイの声が聞こえた気がした。




「っ!?」

「ぐがぁっ!?」


 ぐったりしていたヒロシの体に力が戻り、クワッと目を見開いたかと思ったら、素早く顔面に銃口を向けられ、躊躇無く数発のゴム弾を叩き込まれて、老人は呻きながらヒロシの首を絞めていた手を離す。


「げほっ! げほっ! げほっ!」


 急に新鮮な空気が喉を直撃し、ヒロシは激しく咳き込みながら油断なく老人に銃口を向ける。


「大人しく死んでいれば楽になれたモノを」

「生き意地は汚い方でな。お前にくれてやる命は無い」


 どこぞのガキ大将を思わせるニヤけた笑顔を見せ、ヒロシは精気に満ちた瞳を老人に向けて啖呵を切るのであった。

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