第31話 死地


「え、あ……」


 待ち構えるクマの姿に、俺は魂の抜けるような息を漏らす。

 俺のすぐ目の前、1210号室の扉内側にいるそいつ。

 さっきまで人間形態だったのに……。

 本性を現したベアトリクスは真っ黒な穴のような目で俺を見据えていた。

 剥き出した牙に歯茎まで見えて、凶悪な威嚇表情。

 口の端から垂れるよだれ。

 俺は忘れていたのだ。

 クマとは、俺の命など一瞬で狩りとってくる危険な存在だと。

 クマがその気になれば、俺などひとたまりもない。

 その野太い前腕で一薙ぎされ、俺は「あ」とか間抜けな一声を残して首だけ持っていかれるだろう。 


 俺は自室の隣にいるのが心優しいクマのプーさんだとでも思っていたのか?

 なぜ、こんな危険な相手のいる部屋に行こうなんて思ってしまったのか……。

 そして、なぜ小兎をこんな死地にうかうかと連れてきてしまったんだ……。


「? なにしてんの、猟平? 早く中に入ってよ?」

「わああっ!?」


 俺は死地の前に押し出される。

 必死に、や、やめ! と振り返れば、なにも知らない小兎が無邪気な顔で笑っていた。

 小兎、こそっと耳打ち。


「……なぁに? ベアちゃん見たら怖気づいちゃったの?」


 そうだよ!

 クマ目の前にして怖気づかないとか、それは単に危機管理能力が欠如してるんだよ!


「……ベアちゃんみたいな綺麗な子の家に上がり込むのを怖がっちゃうなんて、ほんと、猟平は女の子慣れして無いね!」

「そ、そういう問題じゃねえ!」


 俺は目の前のクマにあわあわしながら言った。


「そ、その、ややややっぱり、寝込んでるところ押しかけて家に上がり込むのはベアトリクスにも迷惑だろうし? こ、ここでお見舞いのプリンだけ渡してか、帰ろうぜ!」

『どうぞ』


 クマがノートに短く、中へ入るように促す一言を書いて掲げてきた。

 そして、俺達が家の中に入りやすいように、すっと身を引く。

 ピンときた。

 これはわなだ。

 はいっちゃらめぇ。


「ほぉら、ベアちゃんもこう言ってくれてるし、行こ行こ!」

「あ、あ、やめ、ちょっ」


 なにも知らない小兎がぐいぐい押す。

 あーっ!

 俺達はクマの巣に入り込んだ。


  ◆


「ごめんねー。無理に押しかけちゃって」

『だいじょうぶ』

「風邪だったの? 具合はどう?」

『だいじょうぶ』


 俺は小兎とクマのやり取りを見ながら、生きた心地がしない。

 大抵の人がそうだと思うけど、クマの巣に入ったのは初めてだ。

 クマの巣って俺んちと同じ間取りをしてるんだなー。

 あまり物の置いていないキッチンと、どこかまだ雑然としたリビング。

 あっちの扉の奥はクマの寝床だろう。


 俺達はリビングに通されていた。

 部屋の隅に段ボール箱がいくつか詰まれている。

 この前、引っ越してきたばかりのクマだから、片付け終わってないんだろう。


「ベアちゃんて独り暮らしなの?」

『そう おや いない』


 小兎の問いかけにクマが応えている。

 ……小兎にはそうは見えていないとはいえ、よくクマの前で平然としていられるな。

 俺はさっきから、居心地悪くてしょうがない。


「猟平、さっきからなにそわそわしてんの?」

「え!? べ、別に」

「……ベアちゃんの家に興味津々なのかな?」


 悪戯そうに含み笑いする小兎。

 ああ、さっきからキョロキョロしてたさ。

 どこかに逃げ道はないか、クマが食べ残した骨とか転がってないか、とか気になって気になって。


「……やーらしい!」

「ばっ、ぜ、全然ちゃうわ!?」


 小兎はそんな俺の様子を窺いながら、クマに尋ねた。


「ところで、ねえ、ベアちゃん? キッチン借りてもいい?」

『 ? いい けれど なに する? 』

「風邪のベアちゃんのためになにか温かいものを作りたいの! ちょっと食材も買ってきてるんだ~。いい?」


 クマはこの申し出に一瞬戸惑ったみたいだった。

 けど、


『ありがとう おねがい します』

「いいの? やった! じゃあ、ちょっと待っててね! 栄養満点なやつ作るから。……で、できるまで猟平と話しでもして待ってて!」


 そう言って、小兎は俺にだけ見えるようにウィンクしてきた。

 ん? なんだ?

 そして、小兎からこそっと囁かれる。


「……2人きりにしてあげるから、うまくやりなよ?」

「え」


 俺は虚を突かれる。

 クマの巣で、クマと2人きりにされる……?

 なんでぇ!?

 それ、死亡フラグ?


「ちょ、ちょっと待っ……」

「あーそうだ、ベアちゃん。わたしお料理する前にちょっと手を洗いたいなあ。お手洗い借りるね? こっちかなー?(棒)」


 小兎の抑揚のない独り言めいた呟き。

 そして、さっさと廊下の奥へと姿を消してしまう。

 リビングのテーブルには俺とクマの2人きり……。

 これはあれか?

 俺が犠牲になって、小兎だけでも逃がす展開か?

 い、いや!

 ここは俺と小兎、2人で脱出してハッピーエンドを目指すべき……!


「あー、あの……なんだ、は、ははっ、こ、小兎の奴、なにを言ってるんだか……」

『こと ばしょ おしえてくる』

「え、なに?」


 クマは身を起こし、のそりと動き出した。

 どすん、どすん。

 そして、廊下の奥へと向かった小兎の後を追おうとする。

 孤立した小兎と2人きりになるかのように。

 俺はその意図を感じ取って、危険が迫っているのは俺ではなく小兎だと理解する。

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