第24話 弱体化ベアトリクス

 あくる日。

 眠たい呪文の流れる授業中。

 俺はそれまでぼんやり眺めていた窓の外から、ふと隣の席に目をやった。

 そして、眉を顰める。

 クマが机にもたれかかるように、ぐったりしていたからだ。

 顔を俯かせ、呼吸も荒い。


「……おい、どうした? 大丈夫か?」


 クマからの反応がない。

 と、力を振り絞るようかのように手を動かし、ノートに書きつけ始める。


『さむい とても』

「……なんだか熱っぽそうだな。体がだるくないか?」

『はい』

「……鼻の頭が乾いてる……風邪か?」

『そうかも』


 クマは短い言葉を書くだけでも億劫そうだ。

 かなり体調が悪い。


 ……これ、昨日の夕方、雨に濡れてびしょ濡れになった所為か?

 俺の家で温まったから大丈夫かと思っていたが、あんなシャワーを浴びた程度では焼け石に水だった?

 ……別に俺に責任があるわけではないんだけど、ちょっと気になってしまう。

 もっとしっかり風呂でもいれて、心から暖めればこうはならなかったんじゃないか、とか……。


 俺は手を挙げる。

 教壇に立っていたのは早贄先生。

 早速、干からびたカエルみたいな目を俺に向けて、


「ん? どうした、叉木?」

「はい、ええと、このクマ……ベアトリクスがどうも体調が悪そうなんですけど……」


 え、どうしたのどうしたの? ベアトリクスさんがなに? と、クラスの皆がざわつき始める。

 小兎も最前列の席から振り返り、こちらを見る目は心配そう。

 早贄先生はベアトリクスをじっと見て、


「ずいぶん顔色が悪いな。誰かベアトリクスを保健室に連れて行ってやってくれ。ええと、今日の日直は……」

「あ、わたしです」

「じゃあ、森中……」


 早贄先生の問いかけに小兎が手を挙げた瞬間、俺ははっとして大声をあげていた。


「はい! はい! 俺が! 俺が連れて行きます!」


 小兎にクマを保健室まで連れて行かせるわけにはいかない!

 危なすぎる……!

 保健室に行くまで、2人っきり。

 小兎の小さな体でこの巨大クマを支えて保健室までい行け、と?

 いや、それ以前に。

 小兎の身にもし万が一のことがあったらどうするのか!?

 以前、このクマ、小兎に敵意みたいなものを示したことがあった。

 牙剥いて唸ってた。

 なんでかは不明。

 クマにとって気に入らない匂いとか、逆に食欲をそそる匂いがしているのかもしれない。

 小兎があまりにかわいいから食べてしまいたい、というクマの本能かも。

 ともかく。

そんな小兎を、わざわざ危険のそばにおいていいものか。


「俺、保健室までの近道知ってるんで! それに、これまで保健室に連れて行った生徒の数は優に50人超えっていう実績があります!」


 俺がいかに保健室までのエスコート役に相応しいか、力の限りアピール!


「なんだ叉木? そんなにベアトリクスを連れていきたいのか?」

「これは俺にこそ相応しい役割ですから!」


 と、俺の前の席の小前田がやれやれ、とニヤけた顔を振ってみせる。


「叉木、今日もぐいぐい行くなあ。ほんと、叉木はベアトリクスさんのことになると目の色変わるっていうか、こんな時までお世話係かよ~」


 ちがうわっ!

 クマと仲良くなるためじゃねえ!

 小兎の安全のためだ!

 自己犠牲やぞ!


 だが、小前田の的外れな言葉に、クラスの連中があちこちでぼそぼそ反応した。


「……ある意味スゲーよな。叉木、ベアトリクスさん相手に全然ビビらねえし……」

「……俺達なんか緊張してうまくしゃべれねえよ……」


 一方、早贄先生。

 顎に手を当て、


「……まあ、隣の席だし叉木でもいいか……よし、叉木、ベアトリクスを頼むぞ?」


 と、俺に任せてくれた。

 よかった、これで小兎に危険は及ばない。

 その小兎、少し膨れている。


「……もう! 猟平ったら……!」


 し、しまったあああ!

 小兎に、俺とベアトリクスが仲良くしていると思われてしまったか!?

 俺とベアトリクスの仲を嫉妬している……!?

 違うんだ、小兎!

 俺とベアトリクスはそういう仲ではないんだ……!


「……せっかく、わたしもベアちゃんの力になれるかと思ったのに……! 独占欲強過ぎだよ!」


 しかし、誤解されようとも……!

 すべては小兎のため……!

 嘆く心を捨てて、俺は小兎を守るのだ……!


「……というわけで、立てるか? 手を貸すぞ」


 俺はクマに手を差し出し、引っ張って立たせた。

 クラスの連中の視線が集中する中、俺はクマを先導して廊下に出る。


 未だ授業中の校舎の廊下は静かなもの。

 他クラスの講義の声が僅かに聞こえるくらいのものだ。


「さ、保健室へ行こうぜ。ベッドで休んだ方が……」


 俺は油断していた。

 だから、俺の背後からクマが迫ってきていたことにまるで気付かなかった。

 気付いた時には、もうのしかかられていた。


「うっわ!? ぎゃああ!」


 クマの巨体が俺に覆いかぶさり。

俺の顔に齧りつかんばかりに、クマの口が近付く。

ここ最近、このクマにやられることはないんじゃないかと安心していたのに……!


「ま、待て! 食べたらそこで終了だぞ!? お前がせっかく人間社会に紛れ込んで生活していた努力も水の泡……」


 俺に覆いかぶさるぐったりとした体がやけに重い。

 が、巨大ヒグマにしては全然軽かった。

 俺が潰れずに支えられているくらいだ。


「……あれ? おい……?」


 一瞬。

 俺は自分の体に覆いかぶさるクマが少女に変わるのを見た。

 俺の顔に齧りつかんばかりに近い、ベアトリクスの唇。

 上気した頬。

 熱い吐息と肌。


 クマは普通に弱っている。

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