第17話 約束のおはし

 終わりが来るのは呆気ないものだ。

 俺の隣にクマがいる日常は今、終わろうとしている。

 校内放送がガンガン響いてきた。


「……おかめ食品の大豆たんぱく研究所から逃げ出したクマが、今この学校近辺に潜んでいるという通報があり、警察が付近を封鎖しています……!」


 おかめ食品と言えば外資系のバイオテクノロジーがなんかすごい会社世界第1位だとか聞いたことがある。

 そんなところになぜクマが……?

 そして、なぜ逃げ出した……?

 俺は隣で弁当を食べていたクマに目をやった。


「……クマが逃げたって言ってるな」


 ぶるっと身震いしてみせるクマ。

 そして、なにかを観念したのか。

 辞世の句でもしたためたのか、それとも徹底して戦い抜くという意思表明か、猛然とノートに書きつけた。

 それを、ばっ、と俺に差し出す。


『くま こわい』


 お前やあああっ!

 どの口でそんなこと言ってるんだよ!?

 と、口まで出かかったが、なんかマジでクマが怯えている様子なので、ぐっと飲み込んでしまった。


「こ、こわい? お前が? クマを?」

『くま ひと おそう あぶない』

「……そうだよな? クマって危ないよな? わかってるじゃん……」


 俺はクマをじっと見ながら呟いた。

 その危ない生き物と隣で弁当食ってた俺はやはり暢気に過ぎたのだ。


『くま はやく つかまる あんしん』

「え、それはお前……?」


 このクマ、早く自分を捕まえてほしいと言ってるのか?

 自分が罪を犯す前に捕らえてほしい、という殊勝な心掛け?


「自首、か……情状酌量されるといいな」


 罪一等を減じて、猟友会による駆除から山への放逐で済むかもしれない。

 俺のそんな呟きは、だが、クマにはよく伝わらなかったようで、小首を傾げられる。


 そこで、俺ははっと思い当たった。

 逃げ出したクマが一頭しかいないというのは俺の思い込み……!

 ……逃げたクマは実は二頭いるのではないか!?

 こいつは同じく逃げ出したもう一頭のクマを早く捕まえてほしいと言っているのでは……?

 クマは縄張り意識の強い生き物だ。

 オスのクマは特に気性が荒く、子連れのメスクマを襲い、その子供を殺してしまうという。

 ……なるほど、そんな凶暴なオスクマが近くをうろついているとしたら、このクマが怖がるのも無理はない。


「……校長の花鰹です……」


 校内放送の声が変わった。


「全校生徒の皆さん。ただちに自分のクラスに戻って担任の先生が来るまで待機していなさい。それから先生の指示に従い、順番に校庭まで避難すること……」


 学校内のあちこちでざわめきが生じる。

 どこからか聞こえてきていた吹奏楽部の調べも今はない。


「……『お・は・し』を約束に避難を始めてください。おさない、はしらない、しゃべらない……」


クマが不安そうに鼻をふんふん鳴らし、ノートを示してきた。


『わたしたち もどる きょうしつ』

「……避難するつもりか……?」


 クマなのに?

 まあ、怖いんなら仕方ないか……。

 クマは周囲に何度も目線をやって落ち着かない。

 本気で怯えてる……。

 俺は手を差し出して、クマの手を握った。

 でかくてごつい爪を意識せざるを得ないが、できるだけ心の動揺を出さないよう言う。


「いいいい行こうぜ」


 クマは目を見開いて、俺の顔と俺と繋いだ手を見比べた。

 クマの表情が赤くなっていくが、口に出しては何も言わない。クマだから当たり前だが。

 俺は恐怖でぎくしゃくする手足を動かしながら、クマの手を引いていく。

 ……なんで俺がここまでやってやらなくちゃいけないんだ?

 俺の中の理性がそう囁く。

 クマの危険性は理解しているつもりなのに……。

 なのに、クマに怯えるクマを見ていたら、どうしても手を差し出したくなってしまったのだ。

 だって、こいつクマだけど女の子だしな……。


 そりゃ、俺がいたところで逃げ出したクマとやらが目の前に現れたら何の助けにもならないさ。

 このクマが逃げるまで時間稼ぎすらできないだろう。

 瞬殺だ。

 そんなのはわかってる。

 でも今は、このクマ、俺と手を繋いでから落ち着かなげな仕草が止まっているのだ。

 それで十分じゃないか?


 俺達は連れだって、屋上から自分達の教室へと向かう。

 階段を降り、廊下に出る。

 そこかしこで小さな混乱が起こっていた。


「クマってなに!? そんなのが町の中歩いてるなんて有り得るの!?」

「こらー! そこ、はやく教室へ戻れえ!」

「そのクマ、ツイに上げたらウケるんじゃね?」

「待って!? 今、校庭にクマいるくない!?」


 昼休みだったこともあり、生徒達は校内中に広がっている。

 放送の指示に従う者ばかりでもない。

 それを先生達が大声を出して制止していた。


 俺達がクラスに戻ると、まだ担任の早贄先生の姿はなかった。


「おい、クマだってよ、クマ!」


 小前田が興奮して話しかけてきた。


「学校にクマが入り込むとか、映画みたいだよなあ!」

「ああ、そうだな」

「俺とか真っ先にやられちゃうタイプかも。やべえよやべえよ!」

「あ、そうなの?」


 俺は隣のクマを意識しながら、


「まあ、その……がんばれ?」

「猟平! ベアちゃん!」


 可愛らしい声がして、小兎がやってくる。


「大丈夫だった!? なんだか噂だと、校内にクマが入り込んでるってことだけど……」


 クマは俺と繋いでいた手を、小兎に見られる間に、光の速さで断ち切っていた。

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