第5話 ガチギレベアトリクス

 あ、死んだ。


 振り下ろされたクマの爪で、俺の喉元が引き裂かれる。

 俺の頭の中で、そんな場面がよぎった。


 が、実際は。

 とん、と軽く胸元にクマの右前腕先っぽが押し付けられただけ。


 ぐるるる……。


 クマは低く唸り続けている。

 緊張感をはらんだ呻き。

 ただちょっと不思議なのは、クマが獲物である俺を直視せず、なぜか目を逸らしている点だ。

 まるで、俺の目を避けるかのよう。


 そこで俺は気付く。

 クマが俺に押し付けている爪の先、そこにノートの切れ端があることに。


 ここにきて、なにか俺にメッセージがあるのか?

 

『たすけて みんな たくさん わからない』


 うん?

 このクマ、どうすればいいかわからず途方に暮れている?

 これは……もしかして、クマの方こそがクラスのみんなに囲まれて怖がってるんじゃ……?

 そういえば。

 これまでの、俺を脅すようなクマの唸り声や荒い息。

 あれって全部、このクマが緊張やストレスを感じていたから出たものだったのでは?

 ……なんだ、怯えていただけだったんダネ……怖くない、怖くないよ。

 こういう怯えた動物を宥めるには指を噛ませてやるのが一番。

そんなアニメ、見たことあるし!

なので、俺の指先でも差し出して落ちつかせてやろう。

とも思ったが多分指の先が無くなるのでやめた。


「そうか……オーケー! わかった! 俺に任せろ。悪いようにはしないから、な?」


 口先で宥めることにする。

 それが、今、この場で誰も傷つかずに済む唯一の方法だ。

 

 俺とクマの筆談のやり取りを見て、小兎が小首を傾げる。


「猟平? ベアちゃんとなにしてるの?」

「……あー、クマは……べ、ベアトリクスさんは、日本語がよく喋れないみたいだから、あんまり大勢でいっぺんに質問しても、困っちゃうと思うぜ……」


 俺は迂闊なことを言わないよう言葉を選びつつ、小兎達に告げる。


「そうなの? 日本語わからないの?」

「いや、言ってることはわかるみたいだけど、喋るのが苦手で……。筆談ならできるっぽいぞ」

「あ! 今、猟平がベアちゃんとやってたのって、筆談? へえー。さすが猟平、もうそこまでベアちゃんと仲良くなったんだね」


 小兎が屈託なく笑う。

 別に仲良くなったわけじゃないんだが……。


「それに、その、クマはまだうちの高校にも慣れてないんだから、こんな大勢で囲まれたら怖いって。だからみんなちょっと離れて離れて」


 俺が手でしっしっと払うと、クラスの連中は案外素直に従ってくれた。


「あー、怖がらせちゃったか」

「わりぃわりぃ」


 人垣が後退し、クマの唸り声が止んだ。

 そして、クマが俺の背にすり寄ってくる。

 ひぇ……今は敵意を感じないが、やっぱ怖い……!


『ありがとう たすけ やさしい』


 また渡されるノートの切れ端。

 どうやら、クマの気も鎮まったようだ。

 俺の肩に鋭い爪をつきたてるようにして背後に立つのは怖いからやめてほしいが。


 と、小兎が悪戯そうに含み笑い。


「ふふふ、猟平、すっかりベアちゃんに頼られてるね。これは猟平にもチャンスあるんじゃない?」

「おいおい、なにいってんだよ、小兎……」


 相手はクマだぞ?

 なんて思いつつ。

 俺はどこか嬉しい。

 というのも、こうして小兎と昔みたいに話せるのって久しぶりだからだ。

 ここ最近、俺と小兎はなんでか疎遠な感じになっていた。

 それが今、小兎の方から歩み寄ってくれている。

 これ、クマが転校してきてくれたからこそだな。

 クマを介して仲良くできてるわけで。

 こう考えると、クマは俺と小兎を繋げてくれるキューピッドになってくれたんだなあ。

 迷惑な捕食獣だとばかり恐れていたけど……。


 俺はなんだかクマに対する優しい気持ちが湧いてきて、そっと振り返る。

俺の背後にのっそりと立つ巨体。

 と、そのベアトリクスの姿が歪んだ。


 ん?


 俺は瞼を擦って、目を凝らす。

 そうして焦点があったそこには。

 ……息を飲む美しさ……!

 このきれいに整った小顔の美少女……俺がさっき目にしたベアトリクスだ! 人間の方の!

 クマの姿は消えうせ、また人間に見えている。

 なんでなんだ?

 なんだこの現象?

 ……それにしても見惚れてしまう。

 だが、今、その人間の方のベアトリクスの眉間には皺が寄っていた。

 俺と小兎をじっと眺めて? ? ? と?マークを言外に連発している。


 と、ベアトリクスがなにかノートの切れ端に書き始めた。


「あ、また筆談? みんなの質問に答えてくれるの?」


 と、小兎が嬉しそうに笑いかける。

 笑いかけられたベアトリクスは、書き上げたノートの切れ端を、俺に押し付けてきた。

 なんで俺?

 小兎に渡せばいいだろうに。


『このひと は あなたの なにですか? おおきいなかよし?』


「なになに? 猟平、ベアちゃんはなんて?」

「ああ、小兎は俺の幼馴染だ」


『おさななじみ?』


「特別に仲がよくて、小さい頃からの友達で、離れられない縁で結ばれている超ベストな間柄……ってところだ」

「腐れ縁だもんね」

「いやいや、小兎。俺は腐れ縁じゃなくて……」


 いつでもお前と恋人になったり結婚したり本物の縁を結ぶ準備はできてるぜ?

 なんて、ちょっと攻めたこと言おうとしたら、


「あっ! あっ! そこまでにしとけ、叉木!」


 すごいイケメン面した小前田に遮られた。


「なんだよ、小前田? なんで止めた?」

「いや、お前が言おうとしていたことを察するに、きっと森中さんが困ることになるから……」


 ……まあ、あんまり攻め気味なこと言ったら小兎も照れちゃうか。

 そんな俺の肩をちょんちょんとつつく者がいる。


『best ひと いるのに ??? いった すき わたし?』


 俺の後ろの超絶S級美少女さんから疑問の声、続々。


『どういうこと ???????』

『あなた わたし すき ちがう ? ? ?』

『うそ ? ? ?』

『? ? ? ? ? ? ?』


「どういうことって……」


 あれはクマの気を引くために言ったことであって。

 本心で好きな訳ではないのであって。


 ……ぐるるるるるぅ……


 唸り声が聞こえてきたかと思うと、俺は目の前のS級美少女が一瞬にして巨大ヒグマに変わったのに気づく。

 クマは仁王立ちし、俺の遥か上方から睨みつけてきた。

 剥き出された牙。

 あぶくを吹いた口元。


 つまりこれは……。

 ベアトリクスは一定のストレスを感じると俺にだけ正体を現す凶暴なクマである……ということ……?

 深淵を思わせるベアトリクスの黒い瞳。

 見る者に死を覚悟させるその眼差しが俺に向けられ……。

 それから、その眼差しはもう1人の獲物、小兎へと向いた。


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