第2話 S級のベアトリクス

 俺達1―Aのクラスに巨大なクマが入ってきた。

 俺も含めてクラスの全員が、突然の死の恐怖に竦んでしまっている。

 半口開いて、ぽかんとその非日常を魅入られたように見つめるばかり。

 それでも。

 それでも、麻痺した頭の片隅で、どこか冷静に判断を下している俺がいた。


 こいつの小山のように盛り上がった体格。

 ……おそらく、ヒグマだろう。

 このクマ、高い位置に肩があって、すごくがっちりしているからだ。

 顔は丸みを帯びていて茶色の毛並み。

 体重500~600キロは優に超えるんじゃなかろうか。

 これはまさにSランク級の危険生物……。

 駆除対象だ。


 ……そんなクマがどうしてこんな場所に……?


 俺達が固まっている間に、巨大クマは獲物を見定めていたようだった。

 巨大クマは、ふんふん、と鼻を鳴らし、前の席の生徒達の匂いを嗅ぎ分けていく。

 そして、前の席の生徒の中には俺の幼馴染、森中小兎が含まれていた……!

 それも小兎は、思いっ切りクマの目の前だ……!


 今まさに。

 巨大クマは、がっ、と口を開き、身動きできないでいる小兎にのしかかろうとしている……!


「こっち! こっちだ!」


 俺は立ちあがり、声をかけていた。

 クマに向けて、はっきり聞こえるよう、


「こっちこっち! こっちを見て!」


 決して威嚇や敵意だと受け取られないよう、怒鳴ってしまわないよう気をつける。

 このクマ、ここに人間がいると認識しないで、知らずに近付き過ぎてしまったのかもしれない。

 山の中での遭遇ではよくあること。

 そういう時は、声を出してここに人間がいると教えてやるのが危機回避の第一歩になるとか何とか!

 それに、小兎を守るためには、クマの興味の対象を俺に向けさせなくてはならない。

 奴の殺気を、俺に向けさせる……!


 果たして。

 巨大クマは、俺に顔を向けてきた。

 感情の読み取れない深い瞳がじっと俺を見つめてきて、怖い。すごく怖い。


 ……野生動物と遭遇したときは目を見つめ続けたらヤバいんだっけ?

 威嚇されてると思って、興奮し出すとか?

 今興奮されたら、クマの目の前の小兎の危険が危ない。

 俺はグルグルと混乱するアタマで必死に考える。


「よーし、よし。いい子だね。すごくきれいだよ~。さあ、こっちに来て~」


 俺は視線を泳がせながら、猫撫で声を出した。

 動物写真家がネコの写真を撮るとき、ネコのことをめちゃくちゃ褒めてあやしていたのを思い出したのだ。

 クマだって、人間だ。

 褒めて褒めて褒めちぎれば、気分が良くなって襲ってこないかも……!


 クラスの皆がクマに見惚れて身じろぎもしない中、俺だけが声を出し、手を振って、クマの注意をひきつける。


「そう、ああ、きれいだね~↑ とてもきれいだ、君はとってもきれいな子だよお~↑ それにとってもいい子だね~↑ はい、こっち見てて! よーしよしよし、素敵ないい子、大好きだよ~↑」


 のし。

 巨大クマは教壇から一歩足を下ろした。


「ほら、こっちおいで~↑ なんにもしないから、俺だけを見て、そうその調子、いい子だ、ほんといい子~↑」


 のし。

 のし。

 巨大クマは俺に向けて近づき始める。

 俺の足は震え出す。

 おしっこ漏れそう。


「き、君はとっても綺麗な目をしているね~↑ 大丈夫、興奮しないで、大人になって、落ち着いて、俺の目を見て、俺の目だけを見て」


 やべ。

 いつの間にか恐怖に魅入られて、巨大クマの深い目ガン見してた。


「だだだだ大丈夫大丈夫だから、ここには君を傷つける人はいないよ、ああ、なんて素直でいい子だろう。素敵なベアちゃんかわいいベアちゃん大好きよ~♪」


 俺は心壊れた人みたいに歌いだし、巨大クマは、ふいと顔を背けた。

 その視線の先には早贄先生。

 あ。

 俺から注意を逸らして……今度は早贄先生を標的に……!?

 巨大クマにもの問いたげに見つめられた早贄先生、急に意識を取り戻したのか、ごほん、と咳払い。


「……あー、叉木。いきなり転校生にアピールするのはやめなさい。ベアトリクスが戸惑っているじゃないか」

「……そうだぜ、叉木! いくらベアトリクスさんがすごいきれいだからって、いきなり好きとかなんにもしないからとか言って、ナンパしだすのはどうかと思うぜ?」


 俺の前の席の小前田が、呪縛が解けたかのように、俺に向かって話し出す。

 それがきっかけになったかのように、クラスの皆が一斉に話し出した。


「おいおい叉木~。初対面からいきなり抜け駆けか~?」

「ベアトリクスさん! 叉木なんかより俺はどう!?」 

「ベアトリクスさん、困ってるじゃん! ちょっと男子~!」

「叉木ってこんなキャラだっけ?」


 ざわざわ。

 そこには恐怖の響きもなく、はしゃいだような空気さえ混じる。

 俺は呆気に取られて、声を漏らした。


「え。いや。なに? なに言ってんだ、お前らちゃん共?」


 クマだぞ?

 目の前にデカいクマがいるんだぞ?

 なんでそんな落ち着いてんだ!?


 と、小兎が自分の席から振り返って俺を見ていた。

 逃げるでもなく、にこっとしている。

 今日もかわいいな!

 でも、そんな場合じゃなくて、今の内に教室から逃げてほしいんだが!?


「みんながベアトリクスさんのきれいさにびっくりして黙り込んじゃったの、猟平が和ませてくれたんだよね? わたし、知ってるよ。猟平のそういう優しいとこ」


 その小兎がまるで俺をフォローするかのように言った。


「なんだ、叉木のボケかよ」

「声が迫真だったからマジ口説きかと思ったわ~」


……え? みんな、クマが怖くて声も出せなかったんじゃないの?


「い、いや、皆だってその……」


 俺は巨大クマに目をやって、ごくりとつばを飲み込んだ。


「このクマ……か、彼女に怯えて動けなかった、だろ?」

「そりゃ、あんまりきれいで我を忘れて息止まっちゃうくらいだったけど……いきなり告白するほど血迷ったりはしねえぞ?」

「ボケだとしてもいきなり告るか普通? 距離感おかしいって、叉木!」


 ええ……?

 みんな、彼女に見惚れてただけ……?

 ……クマに……?


 俺は目をぱちくり。

 すると、瞬間。

 巨大クマの姿がそれまでとは全然違った姿に見えた。

 栗色の髪が豪奢な、モデルのように背の高い……超絶美少女が俺を見ている。

 しゅっとした小さな顔。

 氷像のような美しさだ。

 そのクールで完璧な造形美に今、ひびが入っている。

 耳を赤くし、眉は八の字の困り顔。

 え? え? この人今なに言ってたの? と、戸惑ったように立ち尽くす彼女はそれでもまさにSランクの美少女……!

 そんな風に俺が見つめていると、彼女はもじもじと視線を逸らしてしまった。


 ……なんだ?

 俺……幻を見てたのか?


「……まあ、こんなクラスだが、仲良くやってくれベアトリクス。それで、君の席だが……」


 早贄先生が話をまとめだす。


「今のそいつ、叉木の隣の席に座ってくれ。嫌か?」


 ベアトリクスは首をぶるぶる横に振った。

 一応、日本語が少しは通じるみたいだ。


 ……俺、こんな美少女にいきなり好き好きアピールしたみたいに思われてんのか。

 やべえじゃん。

 やべえ奴じゃん、俺。

 これじゃ小兎に誤解される……!


 ベアトリクスは緊張した様子で、俺の席の隣に歩いてくる。


「あ、あの、さ、さっきはごめん、俺、君のことがなんだかクマみたいに見えちゃって……」


 まさにその時、へっくしょいやあっ!

 特に理由もないくしゃみの波動が俺を襲う!


 すると。

 のっしのっし。

 俺の隣の席に巨大なクマが腰かけてきた。


 ぐるるるる……


 唸り声と共に、俺を見つめてくる巨大クマ。

 俺のすぐ真横から発せられる暴力と死の圧力は、間違いなくS級危険生物のそれだった。

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