第十話~黒髪に霜の置くまでに~
私は今日もこの寂れた駅舎で待つ。日が暮れて誰もが家路にいた後、ただ一人で誰もいなくなったこの駅舎に赴いては鍵のかけられるその時まで……ただあの人を。
あの人はきっと私のことなど忘れてしまったでしょう。
こんなに黒髪が少なくなって、顔は皺だらけで、腰も曲がってしまった私のことなど……きっと。
悲痛な気持ちが胸を抉るわ。
冬が終わり役目を終えたこの火が着くこともないダルマストーブを見ていると、まるで儚い自分の人生のように思えてやるせなくなるの。
……でも、それでも私は待つの。
あの人ともう一度だけ歌を詠えたなら。
私はそれで───。
「おや、まだ残っておられましたか」
───ああ、また今日も会えなかった。
事情を察してくれている駅長さんが暗闇の奥から声をかけてくれれば、今日はもうこれでおしまい。
またひとり、誰もいない広い家で明日を待つのみ。
「……今日も待ち人は来られませんでしたかな」
ええ、そうなの。
でも、明日には会えるかもしれない。
この“古ぼけた万葉集”を見てくれたら、その人はきっと記憶の隅から私のことを救い出してくれると信じているの。
……今日も私は一人、暗い中を家路につく。
心配してくれる駅長さんのお見送りを背中で感じながら、痛む膝を我慢してゆっくりと。
きっと、明日には会えるでしょう。
明日がダメならまたその次の日。
それでもダメならまた……また……また……。
────────────────────
「実はちょっと頼まれ事があってな。対策局絡みでお前と上総特等に解決して欲しいことがあるんだ」
朝食を終え縁側で一休みをしている俺に寺山はようやく本題を切り出した。
両親は仕事へと向かい、ナガメはダシィと共に神社の掃除に取り掛かったようだ。
「桜幡のバスターミナルは知ってるよな」
「ああ、昔の鉄道駅舎を流用したあれだろ。それがどうした」
「昨日、そこの駅長さんから対策局に通報があってな……“出た”らしい」
「……まあ幽霊くらいどこにでもいるだろ。つーか幽霊絡みならお前の得意分野じゃねえか。
わざわざ俺と先輩が出向く必要あるか?」
今時幽霊なんて珍しくもない。妖怪や都市伝説よりメジャーな怪異だ。
勿論対策局が対処することはあるが、それは人に実害を出した時のみ。
基本的に俺たち対策局の幽霊への対処法は除霊ではなく“境界線”の構築。
幽霊と人、それぞれの世界を結界で隔て、双方に害が起こらないよう調整することだ。
そうすることで人間の恐怖という幽霊の餌となりえるものを遮断し、悪霊化させることなく時間の流れと共に霊を成仏させるといった方法である。
まあ、というわけでこの分野に関しては寺生まれのこいつが適任だ。
俺たちがでしゃばる必要はないはずなのだが。
「俺は
そこに今回の通報……俺らに白羽の矢が立ったわけ」
「なるほど、いつもの“人手不足”か」
怪異救護課は怪異による負傷を治療したり怪異そのものを治療するのが役割で、主に回復能力を有する神職や僧侶、それに準ずる霊能力者たちが担っている。
その特性上、前述の幽霊への対処も業務として行っており、対策局にはなくてはならない存在だ。
しかし、救護課は鎮圧課に次いで多忙であり万年人手不足に悩まされている。このド田舎なら尚更だ。
今回のように幽霊騒ぎがあれば鎮圧課と共に駆り出されることはしょっちゅうでとても手が回らない。
「俺らも暇ではないんだがな……昨日の事件の報告もまだだし」
「頼む!俺みたいなひよっこが他に頼める鎮圧課のチームなんてお前らくらいしかいねえんだよ……他はおっかねえ連中ばっかだしよ……!」
鎮圧課もまた万年人手不足。
対策局随一の死傷率を記録する課なだけにそもそもなり手がいない。
それに上総先輩を見てわかる通り、血の気が多い連中を集めているので他の課とは距離を置かれることもしばしば。
対策局、本当に色々と詰んでる。
仕方ない、これも俺たちの大事な仕事だからな。俺は重い首を縦に振った。
「わかったよ……先輩には話通してるんだよな」
「ああ、そろそろ車で迎えに……」
「寺山ァァァァァァァァァァッッ!!!」
地響きのような絶叫と爆音が
俺の家へと通じる参道の入口である鳥居に見慣れた厳つい真っ赤なスポーツカーが現れると、そこから勢いよく飛び出してきた三つの大きな尻尾がこちらへと迫ってくる。
「寺山テメェ!!朝6時に電話かけてきてんじゃねえ殺すぞッッ!!
私は仕事の日は毎朝7時50分まで寝ないと死ぬんだよ!!ふざけんじゃねえぞ二日酔いで頭も痛てぇしよぉッ!!」
「や、やべえ!殺される!」
化粧も忘れ髪の毛も文字通り怒髪天を突いている怒りMAXな上総先輩が物凄い勢いで寺山を追いかけ回す。
……この人ほんと人生楽しんでるな。
ナガメが淹れてくれていたお茶を啜りながら、今日も一日騒がしくなりそうだと肩を竦める俺なのであった。
────────────────────
「よし到着。ここが件のバスターミナルか」
先輩の地獄のような運転に揺られどうにか目的地へと到着した俺たち。
寺山は車を降りた瞬間、近くの草むらへと駆け込み何か水分の滴る音と悲痛な呻き声をあげる。やめてくれ、俺も貰ってしまいそうだ。
桜幡バスターミナル。
かつて、むつ市は下北駅から伸びる鉄道“マサカリ交通桜幡線”の終着駅だったものだ。
建物の前で寺山が戻ってくるのを待っていると、どこからかバス会社の制服に身を包んだ男性が現れた。
「怪異対策局の方々ですね、お待ちしておりました」
彼が今回の依頼者、桜幡バスターミナルの駅長(バスの運行管理者)である
齢は70歳を越えるというが、真っ直ぐ伸びた背筋と張りのある肌を見るにとてもそこまで年が行っているようには見えない。
上堂さんに事情を伺おうとしていると、ようやく体調を整えた寺山が駆けつけ割り込んできた。
「遅くなり申し訳ございません、連絡を受けた寺山と申します。通報の内容から察するに、今回の依頼は“幽霊の成仏”ということでお間違いないでしょうか」
「……ええ、お願いいたします」
怪訝な面持ちの上堂さんに案内され、バスターミナルの入口から駅舎の中を覗くと、そこには銀色のウェーブのかかった長い髪を靡かせた良家のお嬢様といった格好の綺麗な若い女性がベンチに腰を下ろしていた。
手には何やら歌集のような古い本を持っていて、小さな声でそれを詠みあげでいるようだ。
一見、どこも不審な点は見受けられないが……。
「綺麗な方でしょう。でも……あの方はついこの間まで齢80程のご老女でした」
俺たちは顔を見合わせて驚く。
どう見ても彼女は20代から30代にしか見えない。だが、確かによく見てみると装いがどこか現代の物とは違い、50年代に流行ったとされるニュールックを思わせるレトロな印象を受ける。
「彼女は日本でも有数の資産家で、長年幼稚園や介護施設などの福祉事業に携わって来られた
事業をされていた時も引退された後も、毎日この駅舎が閉まる夕方頃に訪れてはああして誰かを待たれるのを日課にされておりました。
……しかしつい先月、自宅にて老衰で亡くなっているのを家政婦の方が発見されまして……どうやら身寄りの方はおらず、寂しい晩年を送られていたようなのです……」
確か先月の
そうか、それが岩野姫子さんだったわけだ。
「……亡くなられてから一週間後、彼女はあのような若い頃の姿でこの駅舎に現れたのです。亡くなられる前からずっと大切そうに抱えていたあの万葉集を見て、私はすぐに岩野様だと確信しました。
話し掛けると、ただ一点“人を待っている”とそれだけを呟かれるのです。
……そして駅舎が閉められる頃にふっと消えて、また明くる日の朝になるといつの間にかあそこに座っておられるのです」
「……
寺山のいう地縛霊とは、未練を残したまま亡くなった人の魂がその地から離れられず幽霊となってしまったものだ。
自分の死んだ場所、思い入れの強い場所に縛られ、こうして現れる。
「んで、どうする?とっとと除霊するか」
「それは早急すぎますよ先輩……」
「甘ちゃん八塚くん、幽霊はほっといたら
それにバスターミナルを利用する人たちにも支障が出るだろ」
まあ、確かに幽霊の怖いところはそれだ。
人々の恐怖や悪の念を蓄積していき、いつかは人を憑り殺すまでの存在になることもある。
「待ってください、私は彼女を成仏させてあげたいだけなんです!
手荒なことはしないでいただきたい!」
上堂さんは必死に頭を下げ懇願する。
除霊とは強制的に霊を消し去ることであり、対処法としてはあまり好ましくない。主に悪霊に対して行う最終手段。
前述した通り、俺たちがやるべきは境界線の構築。結界を隔て、人間と相互不干渉にすることで実害なく対象を成仏へと導くことだ。
「安心してください上堂さん。俺が必ず成仏させてみせます!」
胸を叩いた寺山は勢いよく駅舎へと入ってく。
俺と先輩もそれに続き、寺山の後方で成り行きを見守ることにした。
────────────────────
「どうも、初めまして!怪異対策局の寺山と申します!
岩野姫子さん、ですね?」
「……ええ、私はただ人を待っているだけ。なにも悪さはしませんので……どうか放っておいてくださいな」
寺山が話し掛けると、霊は素っ気ない態度でそう切り返した。
その目線はピクリとも動かず、ただただ手元の歌集を見つめている。
「……歌がお好きなのですか」
「……ええ、私、万葉集が大好きなの。
古からの恋の歌、愛の歌、切ない歌……それのどれもが私たち現代の人間と変わらない、否、それ以上の感性を持った人たちのものだったとわかるから」
奈良時代に編纂された日本最古の歌集“
時の
「あの人も万葉集の歌が大好きだった。
私がまだ高校生の時、むつ市の学校へ通うために毎日この駅を利用していたの。むつから帰ってきた後、私は家に帰ることなくこの駅舎でよく万葉集を読んでいた───」
霊は静かに語りだした。
1960年代、高度経済成長期真っ只中の日本。
朝鮮戦争の特需で事業拡大し大成功を収めた彼女の家は桜幡町随一の富豪となった。
父は一人娘である彼女に最高の教育を施すため、隣接市であるむつ市一番の進学校へと入学させる。
だが、彼女は学校に馴染めず、次第に家族とも衝突するようになった。
家に帰る気が起きず、駅でただただ時間を潰していたある日、運命の人に出会ったのだという。
「背筋の伸びた、私と同じくらいの年の男性でした。
私が万葉集を読んでいた時、声をかけてくれたのです」
彼は
時間を忘れて好きな万葉集の歌を詠んだり、自作の歌を互いに贈ったり……本当に夢のような毎日でした。
私は彼に夢中になっていた。
彼も万葉集が好きで、むつから桜幡の学校へと通っていること。名家の生まれで進路を親に勝手に決められ迷惑していることなど、似た境遇を持ち合わせていたことが更に私を彼の虜にさせた。
彼は約束してくれた。
いつか君を連れてどこか遠い場所へ……広い世界を見せてあげると。
まだ青い私たちが咄嗟に交わした駆け落ちの約束。
でも、いつか本当に彼が私をこの狭い鳥籠から拐ってくれると信じていた。
彼を……愛していた。
しかし、私と彼の関係が父にバレてしまい、私は遠い八戸市の女学校へと転校させられることになってしまった。
転校が決まったその日の夕方、私は持てる分の荷物をまとめて家を飛び出し、駅へと走った。
ああ、詠人さん、どうか私を拐って。どこか遠い場所へ……。
あなたとならきっとどこへだって行ける───。
「……でも、彼が迎えに来てくれることはなかった」
その後、東京の大学を出た私はもう誰の手も借りず自分ひとりの力で生きることを決めた。
小さな幼稚園から始めた私の事業は少しずつ大きくなっていき、遂には日本有数の福祉財団へと成長した。
親から勧められても絶対に結婚はしなかった。
もう男など信用しない、夢を見る馬鹿な女はもういないのだと、私は仕事だけに打ち込んだ。
そうして気付けば、私は人生の終盤へと差し掛かっていた。
バブル崩壊によって栄華を誇った実家の事業は倒れ、そこを拠り所にしていた親類たちは霧散し、父も母も寂しい晩年を過ごし亡くなった。
私に残されたのは使いきれないお金と、地元に建てたひとりには大きすぎる家だけ。
もう家族はいない……夫も子どももいない……打ち込んでいた仕事ももう体が追い付かない……。
振り返ってみた私の人生は、虚無。
私の人生とは一体なんだったのか。
……でも、振り返った先に少しだけ輝きを纏った思い出がひとつだけあった。
「ふふ、馬鹿みたいでしょう?
いい年になってまだ私は夢を見ようとここへ来るの。
白髪だらけの頭に皺くちゃになった顔、曲がった腰に軋む膝。
そんなになってもまだ未練がましくここへ……そう、死んだ後も」
「……ご自分が亡くなっていることに最初から気付いておられたのですね」
「ええ……でも、あなたたちが来られたということは……もう時間切れなのでしょう。大人しく成仏いたします。
……結局一度もお会いできなかった……でも、もうよいのです。
叶わぬからこそ美しい夢もある───」
夢は夢のままで終わらせなければならなかった。
私はずっとそれを引きずったまま、強がってひとりで幸せになろうとした。
誰もが生きていくうえで人生の妥協点を見出だし、そこで幸せを求める。
私はどこまでも青くて、妥協せず突き進めば幸せになれると盲信していた。
どこかで家族を作るべきだったのだろう。どこかで早くに仕事を他の人に委ねればよかったのだろう。
そうすれば今頃は孫に囲まれ、豊かな老後を過ごせていたのかもしれない。
───でも、それでも。
「お金なんていらない……名誉なんていらない……。
私には詠人さん、あなたさえいてくれれば良かった……幸せだった……!
私を拐ってくれなくてもいい!
ただもう一度だけ、一緒に歌を詠みたかった……。
“あらざらむ この世の他の 思ひ出に
いまひとたびの 逢ふこともがな”」
───私は間もなく消え果てるでしょう。でもあの世への思い出に、せめてもう一度あなたにお会いしたかった───。
大粒の涙を流しながら俯く岩野さんに、俺たちはなんの言葉もかけてやることもできない。
俺たちの倍以上を生きてきたこの人でも、いつかの淡い恋心が忘れられず地縛霊にまでなった。
彼女の姿に、俺はナガメを重ねていた。
俺は東京にいた四年間、ずっとナガメにこの人のような気持ちを味わわせていたのだろうかと。
『お帰りなさい、繋くん。ずっと待ってた』
「……っ」
本当はナガメも一緒に東京へ連れて行きたかった。広い世界を見せてやりたかった。
でも、あいつにはそれが許されない。
神社という鎖に縛られ、桜幡から一歩も外へ出られない。まるで地縛霊のように。
東京の大企業に就職して、あいつを今度こそド田舎から救い出せると思っていたのに……俺は失敗した。
こんな寂れて消える運命の町にあいつを縛り付けておきたくなんてないのに、俺はあいつに何もしてやれないのか。
───そんな無力感に打ちひしがれる俺の横を誰かが通り過ぎた。
「“ゆふぐれは 雲のはたてに ものぞ思ふ
天つ空なる 人を恋ふとて”」
───いつも夕暮れの雲を眺めては、物思いにふけっているのです。手の届かぬところにおられる高貴なる人を思って───。
「駅長さん……?ど、どうしてそれを。
それにそのお顔……まさか……!」
「随分と待たせてしまいましたね、姫子さん」
岩野さんへ歌を詠ったのはなんと駅長である上堂さんだった。
しかも先ほどまでと違い、岩野さんと同じく若い姿へと変わっているではないか。
「ずっと黙っていて……本当に申し訳ありませんでした。
私はずっとあなたを騙していた。ここの運行管理者となった時からではなく、更にもっと昔から……私は……」
上堂さんは涙を堪えるように……償いの言葉を紡いだ。
彼、上堂権兵衛は桜幡町の東の外れにある
百姓の六男坊で、幼少期から貧しい生活を送っていた。
中学を卒業してすぐ正津川地区の工場で働き始め、大好きな万葉集などの歌集を買うためによく鉄道を利用して度々桜幡駅まで来ていたのだ。
「不知火詠人とは私のペンネームで、作者不詳という意味の“詠み人知らず”からの
そんなある時、彼は運命の出会いをした。
自分も大好きな万葉集を愛読している同年代の岩野姫子さんと意気投合し、恋をした。
しかし───。
「私は学もないただの工員。あなたは将来を約束された町随一の富豪令嬢。釣り合うはずもない……」
自分を名家の生まれと偽り、高校生であると偽り、いつか悩めるあなたを遠い場所へと連れ出してやるなどと大見得を切った。
「……あの日、あなたのお父様から金を渡され、娘であるあなたから手を引くように言われました。
手を引くなら、私の本当の素性をバラすことはしない……姫子さんの中の理想の私を壊さずに済むと……」
合わす顔があるはずもない。
私はそうして二度と桜幡駅に近づかないと決めた。
そのはずだったのに。
「何の因果か、いつの間にか私はマサカリ交通の運行管理人となり、鉄道廃止の折再びこの駅へと戻ってくることになってしまった」
もう二度と会えないと思っていた姫子さんは、毎日変わらずこの駅舎を訪れ、人を待っていることを知り……私はずっと罪の意識に苛まれてきた。
いつ真実を切り出そうか、はたまた墓まで真実を持っていくべきか。
気付けば……私の人生は終わっていた。
「……本当に、本当に申し訳ございません。あなたの気持ちをずっと踏みにじってきた……っ。
まさか、死んだ後に打ち明けることになろうとは……!」
「……そう、あなたももう、この世の人ではなかったのですね」
床に膝を着き涙を浮かべる上堂さんを、岩野さんはそっと抱き締めた。
寺山は言う。この駅舎の地縛霊は“ひとり”ではなかったのだと。
上堂さんはもう10年も前に病気で亡くなっていたのだ。そして、岩野さんが駅舎を訪れる時間に限り地縛霊としてその姿を現していた。
……まるで見守るかのように。
そして、彼女が亡くなり自分と同じ地縛霊となったことを悟ると、彼は対策局へとある依頼をした。
“自分たちを成仏させてほしい”と……。
「姫子さん、あの日の約束を……果たさせてくれますか」
岩野さんの手を取り、共に立ち上がった上堂さんの顔は、最初に会った時と同じ老人のそれに戻っていた。
その顔にはもう、一切の迷いはない。
「……ああ、まるで夢のよう。夢を見ているんだわ。
私を……拐ってくださるの……?
でも、もう遅いわ。私はもう、あなたに恋することが許される歳じゃあない……こんなお婆ちゃんだもの」
嗚咽を漏らす岩野さんの容姿がみるみる内に小さくなっていき、腰の曲がった老婆へと変わっていく。
それでも、上堂さんは握った手を離さず……むしろ更に強く握り返した。
「あなたはいつまでも美しい。今この瞬間でも、あるはずのない私の心臓は張り裂けそうなくらい脈打っている。
好きです、姫子さん。
───あなたを、連れ出します」
いつの間にか、駅舎の中から見える駅のホーム跡には、そこにあるはずのないSL機関車が停車している。
それがこの世のものではないことに気付くのに時間はかからなかった。
「夢よ、夢だわ……こんな幸せなことってあるかしら。
初恋は実らないと思っていたのに……最期の最後にこんな素晴らしい贈り物を貰えるだなんて。
“思いつつ 寝ればや人の 見えつらむ
夢と知りせば さめざらましを”」
───あの人を思いながら寝たので、夢に現れたのでしょうか。ああ、夢だとしたら、このまま目覚めなくても構いません───。
「いいえ、もう夢ではありません。
私がお連れします。そしてまた何回でも歌を詠みましょう。
“あしひきの 山のしづくに 妹待つと
我立ち濡れぬ 山のしづくに”」
───私はあなたを待たせすぎました。自分も足を引きずるまでに、山の雫に濡れるほど時が経ってしまいました───。
「“ありつつも 君をば待たむ うち靡く
わが黒髪に 霜の置くまでに”。
待っていたことは無駄じゃなかった。髪が白髪にまみれたこの時にでも、あなたがこうして迎えに来てくれたのだから。
……もう、悔いはございません。
私を、拐って───」
胸へと飛び込んだ岩野さんを、上堂さんは深く受け止める。
二人が淡い光に包まれ霧のように消えていくと同時に、機関車は汽笛をあげ走り出す。
行き先は天国なのか、それとも───。
レールもない、廃線になった線路を機関車はどこまでも走っていく。
俺たちはそれを最後まで見送っていた。
────────────────────
その後、対策局で退勤時間まで残った仕事を片付けたあと、足のない俺たちは先輩に家まで送ってもらうことになった。
家へ着くとその帰り際、寺山から声をかけられる。
「今日は二人に助けられたよ、ありがとう。
八塚、前言ってた
「ああ、ナガメも誘っておくから、
「おうよ。
……なあ、八塚。今日のあの岩野姫子さん、どこか櫛田に似ていると思わなかったか」
「……それがどうした」
「……俺はあの人がいつか来る櫛田の運命のように思えた。
お前を待ち焦がれ、髪に霜の降りるまでお前をただただ待ち続ける」
「……何が言いたい」
「いい加減覚悟決めろよ、八塚。
もういいだろ。櫛田はお前が傍にいてくれればそれで幸せなんだ。
ダシィちゃんと一緒に、この町で幸せに暮らせよ。いつまでも“広い世界”に拘らなくていいんじゃないか。
お前だって、本当は───」
「それじゃあ先輩、寺山のこと頼みます。
お疲れ様でした」
「おう、お疲れ。行くぞ寺山」
少し不満げな顔を浮かべながら、寺山は赤いスポーツカーに揺られて行った。
俺は鳥居をくぐり、参道を通って家路につく。
「あら、お帰りなさい繋くん。
見てくださいこれ!ダシィちゃんと一緒にたらの芽をこんなにたくさん採って来たんですよ。
ダシィちゃん、私も知らない山菜スポットをたくさん知ってて……」
「パパおかえり!
ダシィね、いっぱいママのおてつだいしたんだよ。えらい?」
採ってきたたくさんの山菜を見せてくる二人を、俺は何も言わず強く抱き締めた。
「け、繋くん!?
そ、そんな、ダシィちゃんも見てるのに!
き、気が早すぎますよ!!
こういうのはちゃんと夜の良い雰囲気になった後で……」
「……パパ、泣いてる?」
いや、違うんだ。
俺はもう、十分幸せなんだと実感したんだ。
愛する家族にも、仕事にも仲間にも恵まれ、これ以上なく充実した人生を送っているんだと。
でも、でもなナガメ。
“それじゃあ”ダメなんだよ。
俺はお前に、どうしても“広い世界”を見せてやりたい。そうしなければならないんだ。
岩野姫子さんがお前の未来の姿に見えたのと同じように、俺にはあの廃線になった線路がこの町の行く末に見えた。
人口減少に歯止めがかからず、インフラ整備も追い付かず、医療も福祉も足りない、この寂れて消えていく運命の町にずっとお前を縛り付けて何になるんだ。
愛する者がこの町と共に朽ちていくのを、俺は黙って見ていろというのか。
そんなこと、俺は許さない。
どこか遠い場所へ、広い世界へ。
愛するお前を、娘を。
俺は連れ出してみせる。
山に沈む夕陽が、三人を名残惜しそうに照らしていた。
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